【過去のコラムから1】“好き”のメンタルヘルス考
毎週書き込むつもりでしたが、先週の書き込む時間は不規則な仕事が入り、飛んでしまいました。失礼いたしました。
前回も、スキしていただいた方、誠にありがとうございました。嬉しいです♡
さて、前々回から前回、「好き」を書き散らしていたのですが、ここで、以前学校に載せたコラム「“好き”を大事に」から抜粋した文章を以下に載せます。
……“好き”はその人らしさを表し、どうして“好き”なのかもっと知りたくなり、そして自分自身を見つめ直すきっかけにもなります。例えば、心身の不調があるときには、なかなか“好き”を感じることができない場合もあります。自分の“好き”を確認することは、メンタルヘルスを保つためにも大事ではないかと思います。
“好き”は、自分の方向性を見失ったときに助けてくれることもあります。辛いときのエネルギー源にもなります。“好き”は、一生同じである場合もあれば、年齢を重ねるたびに変化するものでもあります。“好き”を通して自分自身の変化、進化にも気づくことができます。……
以上の文章は、「自分の“好き”を知っておくことで、“好き”を感じられない時は心身の調子が悪い、というサインに気づくことができる」「自分の“好き”を知ることで、今の自分について気付くことができる」というメンタルヘルス考を示唆しています。
ということで、前回前々回に自分の「好き」を書き散らしたのは、未来の自分のため、でもあります。「好き」がわが身を助ける、そう言えるのではないでしょうか。
何より、「好き」があると、テンションが上がるというか、ワクワクするというか。自分にとってのビタミンのようなものでもあり、困った、つらい、という状況を打ち消してくれるような、自分にとってのご褒美のような、そんな存在にも思えます。すなわち「好き」があることで、脳の活性化も行動力も未来への希望も感じられる、「好き」の存在はまさに「アンチエイジング」と言えるかもしれません。
ところで、最近は、やはり全世界的にしんどい状況が続いているのか、「推し」や「沼」という言葉で、「好き」以上の「のめりこみ」(?)を表現して、そうでないものは極端に嫌う、そんな傾向も見られる気がします。「推し」や「沼」レベルならいいですが、「依存」レベルは考え物です。依存は「日常生活がままならない状態」ともいえますので、そこまでくると「好きかどうかも分からない」ぐらい欲してしまう、これは自分を傷つけてしまいます。
私自身はそこまで、「依存」や「執着」に近い状態になったことはなく、いや、そうならないように、たくさん「好き」を作っているのかもしれません。「広く浅く」みたいに?…もっとも、のめりこむエネルギーが少ないのかもしれないですが。
以上、「好き」を通して、自分自身を知るというメンタルヘルス考を書いてみました。ただの書き散らしなので、お読みいただける方は、あまり深くとらえずさらっと流してくださいね。
次回は、今ようやくすこ~しずつ前に進もうとしている「交響曲制作過程」について記録したいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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