本能での選択肢 昭和な学生時代その2
1980年頃は、娯楽が多様化されはじめた時代だったのだと思います。
1983年ファミコンが発売された年
10歳だった僕は、両親に頼んで比較的早くに商品を手に入れるコトが出来ました。
前文にも記載しておりますが、両親は商売しており、当時は近所の中規模商業施設へ納品していた為、バイヤーとの繋がりで分けて貰っていたという今ではイロイロ問題となるやつです。
個人的には、取引先であっても、共に売り上げをあげていこうとした関係だったから、その為に普段から家族同様の繋がりを持って、融通利かせて貰うのは問題ないとも思っていますが。
他のコンプライアンス問題のついても、人間関係構築を上手く出来ない人や、欲しいモノを手に入れるコトが出来ない人の僻みが、根底にあるのだと思っています。
ある意味、当時の方が人間力重視の実力主義。
競争社会だったからこそ、社会が伸びたしイロンナ意味で豊かだったのだと。
僕らの学生時代は、ずっと週休1日と半ドン制なので土曜も学校行ってたし、土曜は給食がない代わりに、お昼の下校前に配布されるオレンジジュースが楽しみでした。
高学年になると部活のバスケで遅くなるまで、練習していましたが、それまでは、さっさと帰宅。
両親が共働きだった為、下校後は先ず店に寄ってから、手伝いやって、夕方遅くなると、弟を一緒に連れて自宅へ帰り、洗濯物を取り込んで、玉子焼きくらいの簡単な料理なら、小学低学年から作っていました。
それから、親が帰ってくるまでが、ゲーム時間。
勉強は、やった覚えはない…汗
ファミコンを持っていれば、それを独り占めして遊ぶのではなく、同級生が家によく遊びに来て、いつの間にか人の家の冷蔵庫も勝手に開けてた間柄になっていました。
弟や友人に作る甘い玉子焼きは、友人にも好評だったなぁ。
コマや凧と言ったアウトドアからインドアへ遊び方が変わって、子供のコミュニケーションツールがアナログからデジタルへ変わった時代です。
アナログもデジタルも混合した時代としては、遊びの幅は広かった様に思います。
地域の公民館へ集まっては、子供会で石投げ相撲を強制的にやらされたり、ふんどし姿も嫌だったけど、大会の時に弟に初めて負けて、泣いて帰ったの覚えてます。
そう言えば、ファミコンの前にも、ゲームウォッチ更に前には、小さな薄い水槽の様なモノに水入れて、ボタンで空気送りながら輪投げするゲームもありました。
後に『エピソード4/新たなる希望』と改題されるオリジナルの映画『スター・ウォーズ』は1977年。
『エピソード5/帝国の逆襲』(1980年)、『エピソード6/ジェダイの帰還』(1983年)の旧三部作で、一つの作品でグッズも多数出た。
僕が今も持っているR2-D2の超合金のオモチャは、両親に連れて行かれたパチンコ屋で、自ら打った台の出玉で引き換えた景品です。
親の代わりに途中交代で、打ってた子供も居たし、小学生の子供がパチンコ屋へ行っても両親と一緒ならば、問題にならない大らかな時代でした。
大人の社交場、中洲にも親が子供同伴で連れて行っていました。
スナックへ行く前には、川沿いに鰻釣りのテキ屋があり(ひよこ釣りって、色をつけられたカラーひよこ釣りもあったなぁ)、僕は、それが目的だった。
それをお土産として、スナックに持って行けば、お店が終わった板前さんが、タダ酒飲みながら、その代わりに僕らが持参した食材を裏の小さな厨房で捌いて料理にして食べさせてくれてた。※勿論、当時でも違法です。
父は、綺麗なお姉さん達とお酒を楽しみ、僕はお姉さん達から、お小遣いを貰い、それを父に巻き上げられ、それが次回の飲み代になる社会の循環を覚えました。
イロンナ制限が出来て、厳格になって、よくなったコトも多いけど、息苦しくなった今を感じます。
アニメや特撮も今では、ガンダム、プリキュア、ポケモン、ウルトラマン、仮面ライダー、戦隊モノシリーズですが、当時は、藤子不二雄劇場ではドラえもんだけでなく、オバQ、パーマン、エスパーマミなどもあったし、飛べ!孫悟空やプリンセスプリンプリンなど、人形劇も観てた。
鉄腕アトムから始まり、ジャングル大帝レオ、マジンガーシリーズ、コンバトラーV、ダイタン3、ダグラム、年毎にテーマが変わっていた。
ゴールデンタイムでは、ドラマでもバラエティでもアニメでさえも、女性の裸が出てた。
ドラえもんの、のび太なんて、のぞき魔だし、エスパーマミのお父さんなんて、子供のヌード描いてるし、マミ自体もそれがバイト代。
今も活躍されている女優の子役時代のヌード写真集など、そうした産業が日常でした。
ガンプラの前は、有線のリモコン戦車作っていたので、この後にくるミニ四駆の改造なんて朝飯前。
今でも選択肢は多いとは言われますが、当時は制限なし(曖昧な)の人間の本能での選択肢が多いなか、ある意味鍛えられた時代だったと感じます。