9/17
ここ最近、連日誰かしらから『ナミビアの砂漠』を観たという知らせを見聞きし、早く観に行かねば…と思いながらついに観ることが出来た。
場所はBunkamura渋谷宮下。階が上の方なので階段が気軽に使えず、上映後のエレベーターが混むのは少し気が滅入るが、関連書籍やチラシの配置も含めて、ロビーの感じは以前のル・シネマより素敵な感じのする館だ。
山中瑶子監督の映画は、2017年に制作された『あみこ』しか観たことがなかった。当時のアルバイト先の喫茶店で働いていた、尋常でない数の映画を観ている後輩から教えてもらって、東中野ポレポレに観に行ったのだった。若い力のようなものの勢いに貫かれている…!と、当時は心の整理が追いつかないまま、嵐のように映画が終わってしまったような記憶がある。
そんなこんなで自分にとっては7年ぶりの山中作品となる『ナミビアの砂漠』は、かなりリアリティに満ちたハードな映画だった。少なくとも私には退屈な映画だとか、居心地の悪さを感じる映画だとか、そんなに単純な印象が残る作品では到底なかった。
冒頭の喫茶店で幼馴染の友人イチカ(新谷ゆづみ)から当時のクラスメートの一人が自殺した話を聞いたカナ(河合優実)が、だんだんと話に関心が保てなくなってきて、近くの男性グループが話している会話に耳のフォーカスが逸れていく表現を目の当たりにするところで、すでに傑作の予感がしたのだった。
切り返しのショットでカナの虚ろ気な表情をじっと観ていると、イチカが話している内容が聞き取りづらくなってきて、ん、何て言ってるんだ…と耳の注意力を上げていくとだんだん男性同士の会話の音量が上がってきたと思ったところで、別の席で談笑する彼らのショットへと映像が切り替わる。再び二人の会話に画面が戻ったと思えば、私たちの聴覚は二人の会話を明確に聞きとりにくくなる程度に、店内に響く他の会話や屋内外の環境音で満たされていく。
カナの集中の仕方の変化を、「聞こえ方」の推移としてこういうふうに観客とリンクさせることができるんだ、と感じたし、それは気の散り方としてとても自然なあり方だとも思った。
クラスメートの自殺についての会話がある一方で、男たちが嬉々として話す「ノーパンしゃぶしゃぶ」なるものの会話がある。それらは同時に世界に実在していて、カナはその引き裂かれのようなものに晒されながら日々を生きる。そのような社会がある、ということがまず提示されて、それは私たちの生きるこの社会であるということが『ナミビアの砂漠』の水準だ。
しかし最も美しく、同時に動揺したシーンは映画の後半にあった。カナが夜にベランダへ出たとき、隣人(クレジットでは「遠山ひかり」と名付けられている)もまたベランダへ出てくる音がする。ショットが切り替わって、空間を区切るパーテーションから少しだけ見える彼女の横顔と右肩が薄明かりに照らされ、暗い中でも不思議とくっきり見える。ふと彼女はおもむろにこちらを振り向き笑いかける。束の間だが静謐で優しいこのショットは本作の、ひいては世界の希望とも思えるような時間を作り出している。
続くシーンは、次の日の日中、カナとハヤシが外出して帰ってくる場面だ。同棲しているマンションの入り口に向かう階段を二人が登っていく後ろ姿。その後ろを髪の長い一人の女性が登っていく。先ほどの隣人だということはすぐに気づく。だがショットが切り替わって隣人の彼女がカナとハヤシに挨拶をするところで、ようやく彼女の全体像が正面からはっきりと視認できる。その姿が現れるのとほぼ同時に「こんにちは」という彼女の声色を聴くことで、そこで初めて私は彼女が唐田えりかだということに気がついた。あ、さっきの=この隣人は唐田だったのかと、遡行的に。
彼女の姿を映画の中で見るのは、濱口竜介監督『寝ても覚めても』以来のことで、唐田えりかは本作品で共演した東出昌大とのスキャンダルが報道されて以降、表舞台から存在を消し去られてしまった。
だからまず自分にとっては、彼女が映画に出演する姿を再び観られたことが素朴にとても嬉しく感じられたし、のちにカナの脳内において繰り広げられる焚き火のシーンで、カナに共感を寄せる存在として描かれることにも緩やかな衝撃のようなものを感じたのだった。
劇中におけるカナの生きづらさに、独特の軽やかさとニュートラルな語りで寄り添う遠山=唐田の存在は、映画の中でなかば想像的なものとして登場しているにも関わらず、むしろ「この」現実で起こった唐田自身の生きづらさへと直接的に接続されることで、急激にリアルなものへと反転し、私たちの世界へと開かれている。カナの生きづらさは唐田の生きづらさであるということ、そして「個人的なことは政治的なこと」および社会的なことであるというテーマは、およそ半世紀以上を経てもまだこの社会にとってアクチュアルなものであり続けてしまっている。
こうしたリアリティは、演者の身体が魅力的に捉えられているという本インタビューでの指摘とも繋がることだと思う。俳優は演じる役の前に、現実を生きる個別の身体があるのだということ。捨てることのできない、時間の蓄積した説得力を持つ身体がいかにしてその役に投影されるか、それは演者の身体が放つ魅力と切り離すことが出来ないことだと思う。
映画が終わってロビーへ出ると、次の回の終了後に開催された山中瑶子と河合優実の舞台挨拶に向けて待機する報道陣や観客でいっぱいになっていた。