「平山郁夫の言葉」

どうも皆様、おはこんばんにちは青山ミチルです。

僕は作曲、レーベルの運営をしています。

最近、自分の本棚を整理していまして、僕を根っこで支えている本を紹介出来たらと思います。

まず、第一弾としては、大学時代に読んだ日本画家の平山郁夫氏の言葉たちです。

気になりましたら是非、本を手に取ってもらえたらうれしいです。

平山先生は昭和5年6月15日広島県生まれの日本画家。
とにかく清々しい文体で、心がしゃきっとします。

「早くから、何らかの影響を下敷きに、模倣して、一見小起用にまとめて、早く認められても、自分の芸術感が希薄だと、尻つぼみになってしまうことが多いようです。きちんと基礎的な底辺を広げながら、自分のものを持って、視野を広げていくわけです。
自分の努力で、その高さを出すときに、安易に人のものを利用したりすると、本当の自分が見いだせなくなってしまいます。
高さとは、自分の価値観や哲学だと思います。それがものを創りだす核となるのです。その原理が出てこないのでは、いろいろな基礎的なものが、連動して繋がりません。一つ一つの努力や、実験がばらばらになって、連動しないと思います。
修行中は、大いに無駄なことを惜しまないで、どん欲に勉強をすることが必要です。それを、将来体系的に、自分の論理になるのは、自分の、ものの見方を持つことです。
どんな分野でもみんな、ある時期は、壁に突き当たります。
文学や芸術方面でも、その問題について大変苦しむわけです。
絵がうまいというのは、ちょうど学者でいうと、博識な人と同意語です。
その水準には大勢います。
いろんな知識を百科事典のように知っており、本もたくさん読んで、流行についてもよく知っている人もいます。
それと、自分の学説を立て、自分の学問の論理を確立することとは、別次元です。論点を主張していく、一つの説、論を立てるという、これがなかなかむずかしいわけです。芸術の分野でも、学問でも、これがひらめきであり。これが才能だと思います。」

この道一筋に

「画家にとって必要なものは、芸術思想です。絵の技術はたいへんうまいんですけど、その上に何の内容を描いていくのか、主張していくかという芸術観、思想があれば絵に深みが表現されます。その主張が見る人に感動を与えるのです。いわば描くということは、表現の手段にすぎません。絵を描く技術があり、優れた感性を持っているから、美しく感じます。
それを手段として絵の内容を訴えるのです。
文字で豊かな内容を表現するのが文学です。
学問的な立場をとる人は、それを政治学や経済学や歴史学等を科学的な、論理的な立場から実証します。しかし根底にあるのはやはり自分の主張する考えです。それが学者の論理です。」

この道一筋に

「例えば学者でも、大変いろいろなものをよく知っていて、博識の人がいますけど、それだけでは学者としてなかなか大成しません。ただものをよく知っているということと、それを学問として、体系的に論理性をもたせて研究し、自分の新しい見方を確立することとは違います。新しい方法論の発見や作品を出すということとは必ずしも一致しないですね。
ちょうど美術家の場合を例に見ますと、一番大事なのは何を描き、何を主張しているかという根底に関わる思想、哲学が前提です」
「内容に精神性や思想性が必要なわけです。」

この道一筋に

「それぞれが個人の芸術観なり、ポリシーや理念を築き上げていくことになります。それは一朝一夕にはできません。それがないと創造的な研究や作品にはならないのです。ともすると、本人の個人的キャラクターと混同しがちなんですが、小さなクセとはいえても、大きな個性とはいえません。
創造的な仕組みをもって研究や、創作を進めていく軸とは次元が違うものです。そこに気が付き、どういうふうな方向性をもつのかを掴むことが必要です。これが大きな意味をもってきます。苦労しても、そこに気が付く、気が付かないということが才能がある、無しに、なろうかと思います。
このことに気が付かないということは、大変な努力をしても、空回りをして、積み重ねがうまくいかないのです。そこで、創作的ポイントがなかなか掴めないということになります。」

この道一筋に

「家庭の躾のようなものからでも、その端緒が生まれてくるのではないかと思います。躾の厳しい家庭では、小さい子供のころから、子供の就寝時間がきたから部屋に帰って寝なさいと、親は子供にいいます。かなり小さい時からでも、規律を教えるためにそういうことをします。親は可愛いからといって手元において我侭にさせません。これも我侭にならない、一つの躾だと思います。
子供が本能や感情で動くときに、早くから、親がきちんと、教育面で、子供の時間というものを躾として教えるわけです。最初はわめこうが叫ぼうが、許してもらえません。こうして、我慢することや、自分の立場を自覚します。そういう日常生活を通じて、どんなに親しくても、それぞれの立場があるということを、躾として、覚えていきます。日々の小さな出来事で、何でもないようなことですけど、そういうことの積み重ねにより、将来の判断力の一端が育つと思うのです。それを育てることが、家庭内の本当の愛情といえます。この教育が大事なんです。」

この道一筋に

「平素から、自らが、原理を発見しようという目的があると、それに沿うように努力し、実現に向かいます。時には、人間ですから間違えることはありますが、早く気が付いて修正するように心掛けます。
本当にリラックスして、実力がコンスタントに出るようになります。
小さな野心を捨て、無心になればなるほど、実力が発揮されてきて潜在的な力も出てきます。」
「おびただしい積み重ねから、自分のものが生まれます。自分の理論や主張が、一生持続性があるのか、耐えられるかどうかという問題があります。そうした、絶え間ざる努力の成果によって、射程距離の長短はあるのではないでしょうか。目先の、思い付きの一過性だけでなく、こつこつと積み重ねながら、目標を、しっかりと把握していくのです。天才や神様ではないのですから、そう簡単に一度や二度では出来ません。じりじりと這いながら断崖をよじ登るように、一メートル、二メートル、三メートルと進むことです。一生をかけて、登っていくことです。
私が繰り返し言っている基礎づくりとは、その芽を持つことです。私はそうしたことを、しっかりとするのが、遠回りのようですが、これが創作の一番の秘密であると思います。志を持てば、誰でもできる要素と才能があります。この世に生をうけている人なら、全員がその資格、才能があると思っております。」

この道一筋に

「技術と教養、精神性のバランスが非常にむずかしいのです。相対的に何でもやりなさいというと、標準的になってしまい、平均的には点はとるのですが、優れた面が生まれてこないということもあるわけです。
しかし、底辺の広がりがあれば、必ず高さが出てきます。その高さの目標を持つことの重要性があります。」

この道一筋に

「ある一定期間は素直に学ぶことで、基礎をつくることです。そのあとは、実際に、社会で実践し、経験することです。体験を通して、先人はこういうふうに文化を築いたということを教わります。各時代や各国ではこういうふうにやっているということを教わりながら、自分の歴史観や、価値観をつくります。実践によって、経験を伴いながら自分の理論を構築していきます。こうして、社会に出た時に応用することが出来るようになるのです。
それも、繰り返し言ってきた、自分の哲学を持ちながら、芸術的な創作や、自分の方向性を作るために、いろんな経験をしながら積み重ねることになります。こうして、何のためにという大目標を掴む道に、つながります。教養や経験を積み重ねながら実験し、また反映させていくという、これのおびただしい繰り返しで生まれるのです。
一回や、二回の経験ではとても結論が出るわけでありませんし、自然科学の実験でもそうです。沸騰点に達するまで冷たい水から加熱して、100度に達するまで、どんどん燃やしていかなければなりません。我々の仕事でも皆同じです。ですから、なかなか先が見えないのです。やり方が足りないので見えないのです。方向が違っても見えません。自信を失って、失望したり、大抵は途中で放棄してしまうわけです。やれば必ず何らかの答えが出てくると思います。持続していくことが、一つの才能です。
どんな宝石でも、原石は普通の石と同じようにしか見えません。光沢を出すには、磨きませんと輝きはでません。それと同じで、どんなに才能のある人も、努力によって輝くのです。一歩ずつ足を踏みしめながら、進み、山を越え、あるいは迂回しながら、一本の道を通します。点が線につながるのです。その過程で一回や二回失敗したとしても、何回失敗しても続けることです。失敗したことが、むしろ将来の成功につながっていくと思います。」

この道一筋に

「生きているということは、自然界では、大変な努力をしていることになります。花園で咲き誇っているということは、そこに生命の神秘や、美しさを、本能的に感ずるということだと思います。」

この道一筋に

「才能というの気がきいている、小才ということではなく、ズーッと継続する力のことです。航続距離がどこまで続くのか、みんながやめても、こつこつとやっているというのが才能なんですね。執拗に、追求できるということです。ですから、小才のきく、少々の才能は、なまじっか早く型ができて、小さく固まってしまいます。ですから、才能とは、素直に勉強ができるということです。内容に、いろんな方法があるということを知ることです。一般的には、専門の知識や、技術を習得しながら、世界や日本の現代も過去もよく知るということです。これがもっとも基礎的なものになってきます。学校で基礎研究をしっかり学んだ後、実社会に出た場合は、いろいろな出来事に対応しなければなりません。教科書通りに、世の中は推移しません。すべて応用問題といえます。自分はこう解釈していきますよというときに、基礎の横糸に、自分の縦糸が加わり、はじめて、新しい自らの理論が生まれてきます。これが自分の価値観です。
自分の哲学をもたずにこうだと結論するのは、一貫性がありません。自分の考えみたいですが、誰かの真似で発言することになります。オリジナリティー、創造性とは、本人のポリシーを言います。それが個性です。個人的な癖と個性というのは、間違えやすいんじゃないでしょうか。自分の声で歌い、自分の価値観でものを見るということが創造性につながります。最初の頃、迷っている、大きな壁にぶち当たっているな、ということを思いますが、芸術的に迷っているのと錯覚を起こすんですね。本当に大事な、人生についての本質な迷いなら、壁にぶち当たってということでいいんですけど、技術的な未熟さのことでうまくいかないというのは、これは技術不足からくる迷いです。技量不足は技術を錬磨すると解決しますが、本当の技術というのは、技術が先にあるのではなく、その奥に何を創造するかの思想が前提です。」

この道一筋に

「一般に、絵を描くことが好きで、上手に描けるということは、子供のころからの感性で、形や色を理知的に表現する描写力をもっているということである。それが描き続けているうちに、自然に対象物をいかに感ずるか、美しさというものをどう解釈するかという、基礎的な感性の訓練が行われていく。この段階では、技術に対する自覚はそう強くはないし、画家になろうという気持ちがなければ、芸術観とか思想といった問題は起こらない。
しかし、画家をめざして表現技術を勉強するようになると、技術と、その人個人の思想的なバランスが大切になってくる。絵さえうまくなればいいんだというので、技術だけ先行させると、達者だが内容がない、ということになりかねない。逆に、技術を勉強しないで頭でっかちになっても、絵が描けなくなる。難しいことだが、技術を身につけながら、自分の芸術観も養っていくというふうに、同時進行していくことが大事だ。
自然というものにどう対し、世界をどう見て、歴史をどう解釈するか。
また、人生をどう考えるかという、知的な要素、芸術観、思想的なものを自分の中で育てながら、修練している技術とそれが出会う時を、じっと待つ必要がある。待つと言っても、積極的にいろいろな実験を重ねながらであり、焦りも感じるわけだが、時が来なければ、生まれないのが本当の芸術だ。いったん、画家の中で芸術観と技術の連動が起こってくると、描くべきものがおのずとわかってくる。そこに独創性も表れてくる。」

絵と心

「私たちが一般的に写実というのは、西洋から来た現実を描くリアリズムのことと考えていいだろう。東洋画や日本画には、現実をあるがままに描くという意味での写実という概念がなかった。しかし、このごろでは日本画などでも、写実が大切だ、というようなことが言われたりする。そこで、日本の絵画の伝統に写実というものがあるとすれば、どういう点か、ヨーロッパ絵画を頭に置きながら考えてみることにする。
東洋画、もしくは日本画で写実ということがあるとすれば、人間や自然の心、本質をよくつかんで表現するということで、西洋風のリアリズムの考え方とは違う。ヨーロッパでは、見た目の、まさにそこにものがあるような実在感をねらうのが写実だが、日本などでは昔から、象徴的に描いて、ものの本質、精神、真髄をつかんで表現すれば、真実に迫り、迫真の世界が生まれると考えてきた。」

絵と心

「中国と日本の絵画には、空間の把握の仕方という点では共通のものがあっても、やはり中国の絵画には日本絵画の特質である、描き切らない部分で見る人の想像に任せるということがないのだ。」

絵と心

「そういう東洋画、とりわけ日本の絵には、写実という観念が希薄だった。むしろ自然を描くに当たっても、その心を表す写意が尊ばれた。」
「日本の伝統的な絵画が用いてきた絵の具やその他の材料と、深くかかわっていると考えている。紙や絹に顔料や岩絵の具で描く日本の絵は、油絵のように、ものを立体的に見せるために、影をつけたりすることには向かない。平面的な絵だから、どうしても平面での変化を求めることになった。平面での変化とは、線と面でいかに独自の特色を出していくかということである。そこに、互いに共通した点はもちながらも、多様な絵の流れが、日本に生まれた。南画と狩野派、琳派と浮世絵というふうに比べてみると、かなり違う。ただ、いずれにも共通しているのは、いわば二次元の世界での工夫である。
これに対して油絵の材料は、限りなく三次元への追及を誘発するものであった。奥行き、立体感、遠近法と、すべては平面という二次元の中で、いかに三次元の世界を実現するかということへ向けての努力である。」
「先ほど私は、日本の絵の性格が材料と深いかかわりがあると言ったのはあ,必ずしも材料がそれしかなかったからやむを得ず、という意味ではない。ヨーロッパ人が、おのずから油絵の具にキャンバスという材料をつくり出したように、日本人も自分たちの絵画にあう材料を自然に選んだのである。」

絵と心


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