会いたいときに会いたいと言えるチケットを手に入れた(週報_2019_05_06)
たぶん、小さく小さく、蓄積はし続けていたんだと思う。
気丈そうに見えるのかな、見えているなら本望だな。
令和になる瞬間は、立呑みの小さなバーで迎えた。
顔見知りになって結構経つけどなんにも知らない男に、残念な尻を弄られていたら外から酔った若者たちのカウントダウンが聞こえた。
私は道行く人に身体を触られても殆ど抵抗しないから、被害を訴えて憤慨する女性たちの本当の敵は私みたいなだらしない女なんだろうと思う。
私みたいな者を触るなんて、相当お困りなんですね、と曖昧な顔をして受け流してしまう。
だんだんと私の周りが"書く人"としてのミチルの知人になっていて、健全な呑みの誘いが増えた。
また呑みましょうと手を振ったあと振り向きもせずに別れる健全な呑み。
身体を差し出さなくてもよいと切り捨てられた私の首から下はどうしていいかわからずにただ戸惑うばかり。
だって私の首から上に何の価値もないと思うから。
弱ったときに会いたいなと思い出す人がひとりいる。
でもその人はいつもお金を払ってくれるから、私からは誘い出せない。
奢られることが日常になると私が会いたいときに会いたいって言えなくなっちゃうんだと言ったら背中を向けていたくせに、ちゃんと次会ったときに「今日は奢ってもらうね」と私をファミレスに連れ出してくれた。
たった数千円で、私は会いたいときに会いたいと言っていいチケットを手に入れた。
でもきっとこれを使う日は来ないだろう。
時が経ち、私が書くことを諦め、もしくはその人が新しい家族を迎え、疎遠になり、私のことなど忘れ去られたとして。
それでもこの目に見えないチケットさえあれば会いたいときに会いたいと言っていいんだと、ずっとずっと握りしめるのだ。
一度だけなら願いは叶う、という綺麗事が好きだから、私は。
気丈そうに見えるのかな。
今週用意していた週報があまりに憎悪と憤怒に満ちあふれていて、書いている自分が蝕まれてしまった。
今週からのやりたくない仕事、進まない原稿、齧った爪、そんなことを考えていたらお皿を割った。
よりによって春色のティーマ、お気に入りの一つだった。
3日くらい割れたまま放置して、4日目から割れてない部分に食品をのせて、何事もないかのように使っている、割と、いける。
なんだか、私みたいね。
割れているのに、割れてないかのように、涼しい顔して。
そのうちケガをして、やっぱり割れていたなと、思い知るのね。