月に二回の劣情 #15
翌朝11時ちょうどに出社すると、めずらしく店長が事務所にいて、室内からは蛍光灯の明かりが漏れていた。電子ロックを解除し「おはようございます」とデスクの上のPCの電源だけ入れると、流しで昨日私の退勤後に店長が使ったであろう湯呑みを洗う。
何の気なしに振り返ると店長は観葉植物の葉を一枚一枚ドライモップで拭いている。その姿を見て私は「その木、造花だったんだ」なんて妙な感心をする。
「あのね、前から話はあったんだけど、あと一年くらいで会社畳むことにしたんだって、社長」
ブラインドの方向を見ながらぼそぼそと話す姿は、消去法でようやく私に話しかけているのがわかるほどに、儚く小さく見える。
「私は資格あるのと、前職の付き合いもあって次が見つかりそうだけど、あなたは未経験も同然でしょ? だから早めにね、次を探したほうがいいかと思って」
自分だけ受け皿のある状況が心苦しいと思ったのか、店長は糸のような目をより細くしてしきりに頭を下げる。関係の浅い店長が私の行く末を気にしてくれるだけの情を持ってくれていたのだと、意外に思うと同時になんだか嬉しくて、頬を赤らめて「……ありがとうございます」とちぐはぐな返事をする。
風俗で、働こうか。
場当たり的に思い付いたにしては、考えれば考えるほどに名案だった。お金を目的にしてくれる方がまだマシ、サムの言葉は私の中でずっと燻っていた。捨て鉢になったわけじゃない。組織に属して働けば、少なくとも私はタカハシがいなくたって名もなき遺体になることはないし、きちんと対価もいただける。回りくどい食事をする必要もなければ、柴田のような男に暗に催促されなくたって時間がくれば帰っていける。最終的に楠本みたいな人間もすべて引き受けることができれば、巡り巡ってみいちゃんが傷つくこともないのだ。さすがにそれは理想論すぎるけれど。
まだ一年は猶予があるみたいだし、この件はゆっくり考えればいい。もう私には退勤後、急いで向かうところなんてないのだから。物件の図面に初期費用を打ち込み、ゼロの数をいちじゅうひゃくせん……と数えている最中、突然のポップアップに肩が跳ねる。
『ただいま。香港行ってました。お土産あるよ』
PCの画面に向かったまま、うっかり既読にしてしまったあの男のメッセージを私は放置した。行ってきますもないのに、ただいまなんて可笑しい。拝啓もないのに敬具と結んだようなものじゃないか。
『香港はシャツ一枚で過ごせるくらいの気温でしたよ』
知ったことか、それにここ数日は日本だってそう寒くはなかったし。
『あと足の小指に靴擦れができました』
既読無視を見透かしたように続けざまに送信する男に、無視を決め込んだ私も痺れを切らしてしまう。
『いらない情報!』
『知ってほしくてね』
<2019_11_28_19_11_****>
「海外旅行ってね、そんなに気軽に行くもんじゃないんですよ?」
男の車に乗り込むと私はしたり顔でそう言う。男はさして悪びれた様子もなく、あとでお土産、あげるから。と私の無駄吠えにそっと蓋をする。君、お腹は?何が食べたい?と男は訊ね、空いてる、なんでもいい、と答えるところまでが定型文。
外観は汚いけれど活気のある焼肉店に入ると男はある程度の注文をし、自分の思う順番と焼き加減で肉を焼き、私は黙ってお茶碗を持っている。人の気も、知らないで。先月行ったお店でナイフとフォークがきちんと使えなかったこと、そんな女を連れて歩かせてしまったこと、ずっと気に病んでいたというのに。
もし次があるのなら、寂しかったと言うつもりだった。人前であろうとかまわず抱きついて、困らせてやろうと決めていた。なのにいざとなったら寂しかった、の「さ」の字も言えない私はその代わりに「きらい」と言うしかなかった。
ワンピースが皺になるのも厭わずクイーンサイズのベッドに組み敷かれ、私は何度も「きらい」と言い、それを聞くたび男は私のだらしない尻をぴしゃりと叩いた。叩かれればまるで「きらい」が打ち消されていくようで、今度は叩いて欲しさに「きらい」と言うと本心を見破った男はそこから尻を叩くことはしなくなり、最後の「きらい」は打ち消されず、いつまでも二人の間を漂っていた。
一ヶ月超ぶりに体温の交換を終えると揃って入浴し、大雑把に整えたベッドに入る。絡んだ手足が離れていく瞬間が怖いから、本気で寝入るときには充分に物理的な距離を置く。男は寝返りをうつと、脂肪もないけど筋肉もない、しなやかな背中をぐりんとこちらに向けた。
時折枕に頭を擦っては大きな身体が収まるのに塩梅のいい場所を探すことを繰り返していて、私はそれを見て今夜は少し寝苦しいのだな、と思う。男が寝入ったら私はもう一度シャワーを浴びて化粧もし直そう、思考を辿りながらいつの間にか私も男の寝息をなぞり、深い眠りについていた。
射し込んだ朝日の眩しさに目を覚まし、寝入ってしまったこと、寝る前にいつも閉めるカーテンを閉じ忘れていたことに気が付く。先に目覚めていた男は私の手元に一度だけ目線を送ると静かに訊ねた。
「これは、何?」
充電中の私のスマホの画面はバックライトが点灯したまま、指紋がいくつもついている。言い逃れようのない『録音しています』の文字と、私たちの呼吸に合わせて上下する数本の真っ赤なサウンドゲージ。遂にこのときが来てしまったと覚悟を決めるとき、人はこんなに寄る辺ない表情をしてしまうんだなと他人事のように思う。
「録音……してた。セックスも、それ以外も、ぜんぶ」
罵倒でも叱責でもなんでもいいから、話してよ。私はあなたの声に底無しの安寧を感じるんです。それが私を軽蔑する言葉だってかまわない。一言でも多く、声を聞かせてよ。そんな思いとは裏腹に、男は何か出そうとした言葉を飲み込んで、何も答えることはなかった。でも返事なんてどうだってよかった。もうおしまいだ。私はいつ消えていなくなるかもわからないあなたよりも、この手のひらの中に生きている私だけのあなたを選んでいる。だってこのひとは、夜が明けても朝になってもずっとずっと私の傍にいてくれるから。黙り込む男におかまいなしで私は続けた。
「……どこにも行かないでって、言えないから。だからここに、閉じ込めてた。急にいなくなっても、連絡がこなくても、繰り返しこれを聞いていればこの中にあなたも、みんなも、いるから」
家まで送ってくれなくていい、と振り切って帰ろうとしたところまでは鮮明に覚えているが、どういうわけか私はいつものように家の近くの駐車場まで男の車で送られたようだった。無理やり車に詰め込むような男じゃないだろう、茶番のように『私、帰る』を地で演じてしまったのかと思うと情けなかった。
1時間弱の送りの車内は終始無言というわけでもなかったけれど、それでも何を話したかなんて思い出せないくらいには運転席と助手席の間に奇妙な、もう越えられない何かがあって、車を降りるときに発した言葉もよく覚えていない。ただ男は去り際「じゃあまた」とは言わなかったように思う。しかしそれはいつもと同じ気まぐれかもしれない。そしていつもと変わらず振り向きもせず立ち去ったので、これだけのことがあっても私はまだ別れを思い知れないでいた。
あと数十メートル進めば自宅だという道でくるりと身を翻し、駅方面へ歩いた。かなりきつい坂を12分ほど下った先にある最寄り駅まで、軽快さを演出して歩いているうちに小気味良くなってきて、なんだかすこぶる体調が良いような気さえしてきた。見上げた空の高さで、今日が快晴であると知る。気が付けば私は、額に汗を浮かべながら小走りで駅を目指していた。冷たく乾いた空気は少しだけ私の喉をひりつかせる。
最寄り駅の改札を抜けると意識したわけでもないのに待ち時間なく上りの電車に乗れた。いいぞ。あと20分もあれば新宿駅へ舞い戻ることができそうだ。やり直そう、ホテルを出たところまで巻き戻そう、私はホテルから一人で出て、そして電車で帰ったんだ。私はそう思い込むために今日をやり直すことにした。イヤホンからは何度も繰り返し聞いた男の声が聞こえている。
<2019_09_11_23_11_****.mp3>
――ねえ、死ぬまでにしたい100のこと、100個書ける?
「ん……どうだろ……」
――私、1個しか書けなくて
「1個? ……なんかあるでしょ、カレー食べたいとか」
――カレーは死ぬまでじゃなくても、いつでも食べたいじゃん
「まぁ……そうか……。何、それでその1個ってのは何よ」
――……パンダを抱きたい
「パンダ」
――パンダ。中国にパンダを抱っこしに行くツアーがあるんだって。私、中国に行って、パンダを抱きたい
「雑誌で見たことあるかもしれない、自由にハグできたりするもんなの?」
――ううん、実際は肩寄せる程度らしいよ、しかもパンダのコンディション次第では中止
「へー 厳しいね」
――何年か前にね、同じ職場だった彼氏が『ボーナス出たから行こう』って言い出して。でもね、私、断っちゃったの。だって一生の夢だから、叶っちゃったら残りの人生どうしたらいいかわかんないって思っちゃって。
「そんなこと言ってると一生抱けないで終わるぞ」
――でもタイミングってあるじゃん?今じゃないって、そのときは思ったの
「タイミングねえ……もうひとつ、書きなよ。死ぬまでにしたいこと。『本を出す』って。 そしたら印税でパンダも抱けるよ、ほら、一気にふたつ、叶っちゃう」
<2019_07_24_02_18_****.mp3>
――ねえ、真冬になったら、何を着るの?
「ん?おっきいコート」
――おっきいコート。……どんなコート?
「ん……」
――ねえ、どんなコート?
「……直接見ればいいじゃない?」
――……れができないから聞いてるんじゃない……
<2019_10_21_17_39_****.mp3>
――だから!私は別に作家になりたいわけじゃないし、そもそも本なんてそう簡単に出せないよ
「そんなことないだろう、毎日どれだけの本が出版されてると思ってるの。中にはこんな本売れねえだろう、ってのもあるんだから、その中の1冊にくらいはなれるさ」
――大体私は……
「ちょ、ちょっと待って、あの店、あれ、何?」
――え?……ああ、あれはパン屋さんだよ。ガソリンスタンドの居抜きだから変な形してるの。
「ああー! なるほどね! それであの形か! 妙な造りだと思った……それで?」
――へ?あ、ああ……!だから、私がなりたいのは作家じゃないんだってば
「あのパン屋美味しい?」
――ハード系のパンが美味しいよ?……そうじゃなくて……私がね、なりたいのは『子供』なの!子供時代に戻りたいんじゃない、そんなの地獄だから。そうじゃなくて、子供になりたいの。愛される子供に。バカみたいなこと言ってるって自分でもよく分かってるよ。時間だけは絶対に巻き戻せないんだから。子供になんてなれないし、なんなら1日1日と私は歳を重ねてくわけだから、生きてるだけで私は私の夢と遠ざかるしかないんだもん。分かってる、生きてるからこそ叶わないんだって!
「……だから、作家になるんじゃない」
――まだ言うの?
「大作家になって、権力を持てば、君が子供のようにふるまおうと何でも許されるよ」
<2019_10_22_04_58_****.mp3>
――私さぁ、この先おばあちゃんになって呆けちゃったら、周りの人に暴言を吐かない自信がないよ
「うーん、呆けるってそうだなあ、理性がなくなるってことだろうからなぁ」
――今まで生きてきたすべての不平不満を周囲に垂れ流してしまいそう
「言っていいことと悪いことの区別がつかなくなるってことだからね」
――こわい
「そういう意味では呆けるって子供に戻る、ってことじゃない?」
――あれ?だったら私はこのまま、おばあちゃんになればいいだけのことなのかな?子供になりたいって、このままおばあちゃんになればいいだけなのかな?
<2019_11_28_23_33_****.mp3>
――この名前で手に入れたものは明日手放してもいいと思ってる。
「君ね、人の欲っていうのはキリがないから、いざとなったらそう簡単に捨てることなんてできないもんだよ」
――ほんとだもん。……嘘の名前に積み上げたものなんてもともとぜんぶ、なかったんだよ。
狭い浴槽に、普通よりずっと縦に大きいあなたと、普通よりずっと横に大きい私がテトリスみたいにああだこうだしながら無理やり収まる。お湯に浸かりきらなくて冷えてしまった肩や膝にお湯をかけ合い、すぐに蒸発してしまうような他愛もない会話をする。長風呂のあなたに私の醜い裸体を晒さぬよう、額に汗の玉を浮かべながらもじっと耐えている。
あのまま菓子折りのような小さな箱にニコイチで詰め込まれ、どこか遠いところに出荷されてしまえたならよかったのに。そうだな、遠くならどこでもいいけど、できることならあなたの好きな炭酸泉のある場所がいい。
スニーカーに何か落ちる感触が二度三度と続いて我に返り、ようやく私は終点新宿に着いていることに気が付いた。また降車口を間違えたからガラス扉の向こうでは恨めしげな目玉がいくつもこちらを見ている。そんな顔、しないでよ。その中でもより一層私を咎めるような目玉がふたつ、大粒の涙を下瞼いっぱいに溜めてもなお、目を逸らそうとしない。
ああ、泣いているのは、私だったのか。
了