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病院に誰もいない(週報_2020_03_31)
副鼻腔炎の治療薬を飲みきってしまったことに気付いたのは先週末のことだった。
私の大好きな偏屈せんせいの小さなクリニック。
土曜の診察、花粉症のハイシーズンとなれば狭い待合に座りきれないほどの患者が訪れる。
さすがにこの時期、耳鼻科といえど具合の悪い人間と詰め合って診察を待つ気にはなれず、土・日と自宅でおとなしく過ごしたのち、月曜の午後、それも受付終了間際に手早く受診することにした。
いつもより一層注文の多い引き戸を開くと、読み通り待合室には誰もいなかった。
これならサクッと帰れるだろう。
診察券入れに浅葱色のカードを落とし、ノートに記名をしようとしたところで、受付の奥から出てきたのは偏屈せんせい、本人だった。
「あ゛~~!!!」
私の姿を見るなり神経質そうに唸ったので、ペンを持つ手を止め「だめ?だめだった?」と聞き返すと「薬だけなら出せる!看護師はみんな帰らせたのよね」と早口でせんせいは言った。
継続的に飲む薬が出れば充分なので、了承し、気を取り直すように大学ノートにカタカナで氏名を書いた。
言われてみれば、患者もいないが受付にひとりとしてスタッフがいない。
「今月来たね?」と言いながら私のカルテを見つけ出すと、偏屈せんせいは早々に診察室に戻って行った。
名前を呼び出す係の人もいないことだし、私は勝手にゆらゆらと中待合まで足を進めた。
「今日はね、もう帰ってもらっちゃったの、スタッフも疲れちゃうしね」
もちろん私はそれを咎めるつもりもないのだけれど、せんせいは繰り返し事情を説明をした。
むしろ、せんせいだけでも残ってクリニックを開けててくれたことの方が私は大切な事実だと思うよ?
「無くなった」ものを糾弾するとき、人は声が大きくなりがちだ。
実際、私だって「在りつづけている」ときにはなんの感謝もしなかったのだから。
そんなことを考えながら荷物受けのカゴにトートバッグとはずしたマスクを置くと、まるで自分の家のようにリラックスして診療椅子に座る。
「日中は?忙しかった?」
てっきり忙殺されているかと思いきや、せんせいの答えはノーだった。
「誰も家から出ませんね、こんなときにはね」
私の両鼻をプシュップシュッと消毒し、偏屈せんせいは言った。
副鼻腔炎はだいぶ良くなっているけれど花粉症が辛くて仕方ないことを伝え、それをせんせいはいつもと変わらぬ落ち着きのない態度で聞き取った。
暇でもせんせいが忙しないのは変わらないんだなあと、鼻の穴に金属の棒を深くまで差し入れられたまぬけ顔のまま、私は笑った。
せんせいは「こんな悪条件のなか、しばらく通院しなくていいように」と28日分のお薬を出してくれた。
今はそれがありがたかったし、なんだか無性にさみしかった。
診察が終わり、鼻のネブライザーを吸入しながら、新しく刷られた貼り紙をじっくり読んでみる。
『熱がある人は予約制のうえ別室待機』
『診察はなし、問診と処方のみ』
『しばらくのあいだは土曜午後は休診』
偏屈せんせい、おじいちゃんだから心配だな。
毎日毎日、具合の悪い人がゾンビのようにせんせい目指してやってくるのだ。
人より特別お金持ちの家に生まれたか、人より特別お勉強ができたか。
どちらもこんな大変な宿命を負う理由には到底ならない気がする。
鼻先に滴る薬剤を備えつけのティッシュで拭いとると、引き続き誰もいない待合室へと戻った。
先生はすでに処方箋を出し終えていて、座るやいなや700円の会計で呼び出された。
「AIだのなんだの言ってる時代に、まさか疫病がこわくて家から出られない日がくるとは思わなかったよ」
300円のお釣りを受け取りながら私は思わず不安を吐露した。
妙なウイルスでも持ち込んでしまっては大変だから、と長らく訪問を見送っている実母の顔が浮かぶ。
「でもせんせい、安心して。私、本っ当~に具合悪いときには、せんせいのとこには来ないようにするから!」
私がそうおどけると、せんせいは白くて長い眉を少し下げたあと「お大事にどうぞ」と言うので、私も
「お互いにね」
と小さな医院をあとにしたのだった。