息を止めても時は過ぎる(週報_2019_11_17)
9月末日締め切りの新人賞に駆け込みで応募が完了し、私は晴れて自由の身となった。
思えば私はあしながおじさんの繰り出す、寿司と焼肉の奴隷のようなものだった。
応募メールを送信してからの反動は凄かった。
毎週末ライブのために地方遠征に飛び、その合間に仕事を詰め込み、呑み歩きを再開した。
1ヶ月では遊び足りなかった。
1ヶ月半以上遊びまわって、その間に書いたものといえば2通のファンレターと、10月から通い始めたライタースクールのたった800字の課題くらいだ。
「書きたくならない?」
ライターの知人にそう問われ、「私は書くことが日常ではなかったから」と濁しながらも胸にひとつの思いがあった。
もう、書き方がわからない、と。
応募した作品は印刷して綴じ、持ち歩いている。
持ち歩いているのに、応募したその夜から一度も読み返していない。
そのときが来たら、と思っているうちに、完全に機を逸した。
そして今も私の鞄の中で、A4用紙四十数枚は、居心地悪そうに留まっている。
*****
常連というほどではないバーへ行くと、金曜日なのにいつもの店員さんがいない。
見覚えがあると思っていたら、替わりにカウンターに立っているのは苦手な常連客の女の子だ。
いつから働いてるの?1ヶ月くらいです。
愛想のないキャッチボールは一往復で互いに充分だった。
私はレモンサワーの2/3を残して店を出た。
とっくに出てしまった終電を惜しむこともなく、いつものトリキに辿り着く。
金曜日は私のお気に入りのあの子はいない。
どの客とも目が合わないコの字の座席に身体を詰め込むと、鞄の中から充電ケーブルを引っ張り出す。
ケーブルに引っかかって飛び出たクリアファイルの角が、ぴょこんとこちらを見ている。
始発までの間、ファイルに挟まれた四十数枚のコピー用紙にとうとう私は目を通すことがなかった。
千円に満たない会計を済ませると「まだ、いるよね?」と店員に目配せをする。
彼女の明るい茶のマスカラが二度、三度瞬きをし、妙に胸が騒ぐ。
つり銭は自動で吐き出されるから、そんな間は必要ないはずなのに。
私が聞いたのは、好意を寄せているネパール人の女性アルバイトの在籍だ。
「あやしいかもです……就職が決まったらしくて」
女性店員はエレベーターを呼ぶ▼ボタンを押すと、がっくりと肩を落とした私に「お客様のこと、覚えていましたよ」なんて慰めにもならない言葉をかけた。
始発電車に揺られ地元の駅に着いても、あたりは真っ暗なままだ。
高架下の鳩が集まるあたりに、春からずっと暮らしていた女性ホームレスの姿がなくなっている。
彼女はどこの施設から持ってきたのかわからないショッピングカートに、真ん丸になるまで荷物が詰め込まれた布製のエコバッグをいくつも括りつけていた。
袋があんなに丸くなるまで詰められるとしたら、荷物のほとんどは衣類をはじめとする布類なのだろうけれど、彼女はいつ見ても同じ、薄汚れたピンクのジャンパースカートを穿いていた。
その彼女がいなくなっていた。いつから?最後に見たのは、いつだったか。
後ろ髪を引かれつつもタクシー乗り場に向かうと、先頭車両の運転手は居眠りをしていた。
起こすのも気が引けて窓越しに船を漕ぐ横顔を見ていると、後ろのタクシーが短くクラクションを鳴らす。
乗り込んで行き先を告げ、今の時間からですか?と尋ねると、もうすぐ……6時に上がりなんですよ、と運転手が頭を掻いた。
また眠り込まれないよう、私はいつもより少しお喋りになった。
そんなことを知ってか知らずか、運転手もまた、よく喋った。
「そこの駅って、どこのタクシー会社でも入構できるんですか?」
「ここはね、できますよ。区内ナンバーの車なら、どこでも。」
いや実はね、ずっと気になっている人がいるんです、私は続けた。
えらく神経質で無愛想な白髪頭の運転手のこと。
最初は地元のA交通の車に乗っていたが、次に乗ったときにはB交通、さらにC交通。
最後に見たときには明らかに管轄外の、遠方のタクシー会社の車に乗っていた。
ひとつの職場に長く留まれず、それでもこの職業から離れられない初老の彼を思うと、私の中の何かが疼くのだ。
居眠りの運転手はその男に面識はなかったようで、そういうことはよくありますよ、とだけ言って私の家の前ちょうどに車を停めてくれた。
タクシーを降りると明けた空の付け根が真っ赤に焼けていた。
それは見事な朝焼けだった。
少しだけ歩けば遮るものがなくその景色をカメラに収めることができたのに、慣れないヒールを履いた私の爪先はもう一歩も歩きたくないと悲鳴を上げていた。
夏が長かったから、気付けなかった。
私ひとり息を止めていたって、時は過ぎてしまうことを。
時が過ぎると、もう二度と会えない人がいることを。
私はまだ、間に合うだろうか。
どうか私を、置いていかないで。