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重くて軽い、亡骸は土の中に。(週報_2018_12_22)

ねこがしんだ。

かれこれ7年近く一緒にいた、ねこがしんだ。

私とねこの関係は、以前noteに綴っているけど、
前編後編
と少し長いので読まなくていいです。
(自分が書いたものなのに、誠意がなくてすみません。
 でも今そんな、余裕がなくて。)
要するに私とねこはあまり仲が良くはなかったし、私の偏った性格はねこを飼うには向いていなかった。

その記事を書いた頃、夏の終わりにガクッと体調を崩し、ねこが激痩せした。
もうダメかなと少しだけ覚悟はしたけれど、フードを見直すなどした結果、秋口にはだいぶ持ち直したのだった。
12月頭に猫好きの知人が泊まりに来たときにも『毛並みが戻ったね』と言ってくれた矢先のことだ。

本格的に寒くなるとまた食事がままならなくなり、数ヶ月をかけて取り戻したふっくらとした身体は10日程度で簡単に元のげっそりとした姿に変わってしまった。

特別寒い日の朝。
ねこのためだけに炊いたストーブ。
鳴き声も上げられぬ、か細い喉。
私が目を離した隙に一人で逝ってしまった。



最後に吐いてしまったのか、下になっていた右頰の毛がしとどに濡れて、小さな桃色の舌が見えていた。


死というものは、もっと乾いたものだと思っていた。

夏頃ねこの容態が悪くなって、もし家族が長期不在時に死んでしまったらと思案した時に、季節柄冷凍庫に入れるしかないかしら、と真剣に悩んだ。
母のねこだから亡骸でも会いたいだろうと思いついたことだったが、当の母にはことのほか非難された。

死んだねこを冷凍するなんて可哀想、死んだねこを冷凍したあとの冷凍庫を使うのは不衛生だし何より罰当たり、要約するとそのようなことを言われたように思う(よく聞いていなかった。)

生きてる者の気持ちっていうのも難しいな、私には一生理解できねえな、と思っていた。
ところが死は、いざ目の当たりにすると私が思っていたよりずっと感情的にも状況的にもウェットなものだった。

祖父も祖母も父も見送ってきたはずだったのに、死とはこんなにもぐっしょりと重たかったのか。
アイスクリームやピザと一緒に、気軽に冷凍庫になんて放り込めやしなかった。



石鹸を溶いたお湯にタオルを浸して、ねこの身体を何度も拭いた。
もうねこが動いて身体を舐めることもないから、遠慮なく石鹸水は濃い目に作った。

身体を拭くと耳かきの梵天のような白く柔らかい毛の間から大きな蚤が何匹も跳ねた。
さっきまでねこが生きていた証だ。
早く出ておゆき。
そうしないとおまえたちも、一緒に埋められてしまうから。

目ヤニも吐瀉物も排泄物も、温めたタオルで根気よく撫で、全て拭きとった。
単色のビー玉みたいな濁った眼球に直接風を当てるのがなんだか気の毒で、顔をそっと掌で覆い、ドライヤーをかけた。
痩せてえくぼの出来た身体がほんの少しだけフワフワになった頃、呼び戻した家族が帰ってきて、皆で順繰りに冷たくなったねこを抱いた。
ねこの亡骸は明るいうちに庭に埋めた。



ねこが死んだ夜、Amazonで注文した子猫用の哺乳瓶が届いた。
水分だけでも摂らせなければと思い深夜に慌てて頼んだものだった。

佐川急便のおじさんが、夜9時近く、「遅い時間にすみません」と本日中のお届けを厳守するため頭を下げながら持ってきた。
私が今日中なんて無理を言ったからなのに、おじさんはまるで自分の不始末のように何度も何度も謝ってくれたので私も一緒になって笑いながらペコペコと頭を下げた。

大丈夫です、充分に間に合っているし、間に合わなかったのです。
シャチハタをポンと押しドアが閉まると、私は貼り付いた笑い顔のまま声をあげて泣いた。



ねこ、ごめん。
おまえのことなんて考えられなくて、
私はおまえの死に映った自分を見ている。

誰かの死に直面したとき、
私はいつも誰かの死に映り込んだ自分自身を見て泣いている。

私のような身勝手な人間は、もう二度と生き物を飼ったりしない。
だからゆるしてくれ、たのむから。

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