月に二回の劣情 #14
<2019_11_19_19_16_Sam>
「昔からよく来てて、日本に帰ったときは必ず来るけど変わらず美味しいんだよね」
サムと名乗るおじさんに誘われ入った場所は、もう一ヶ月以上音沙汰のない大きな男と入った北京料理の店だった。新宿では割と有名な店だというから、無理もない。
「ここは水餃子が旨いのよ」とメニューを開くサムに、知ってますと心の中で呟く。レディースバッグのバイヤーだという彼は、僕が日本に滞在していることが非常にレアなんだとしきりにアピールする。
実際サムから初めてメッセージが来たのはSNSに登録したての頃で、今更会うなんて思ってもいなかったから、本当に日本には滅多にいないのだろう。それとおそらく本名はオサム。そうじゃなかったら多分イサム、まあそんなのどっちでもいいけれど。
「何が食べたい? なんでもどうぞ!」
硬くて分厚い表紙のメニューをこちらに差し出され、何も選ぶことが出来ない私は年季で曇った透明のカバーをベタベタと触り、口ごもる。海外生活が長い彼には私の主張のなさが物足りないのか少しだけ不服そうな顔をすると、店員を呼び出し鮮やかな段取りで一通りの注文をする。
「それと、水餃子を二人前ね」
そうオーダーしたサムに、水餃子は一人前でいいかも、と横槍を入れる。冷めたらもったいないし、足りないときに追加しましょう?と提案するとサムはそれもそうね、と尖った犬歯を見せて豪快に笑った。
「美味しいでしょ? ここ。リーズナブルだし」
サムの個性的な赤フレームの眼鏡を見ながら、あはは、と適当に相槌を打った。前は冷めても美味しかったはずの食事なのに、味がしない。SNSでアパレル勤務と偽っている私は、来春の流行色やトレンドアイテムをしつこく尋ねられては返答に苦しみ、次の言葉が出てこないのをごまかすために何杯もの酒を口に運んだ。この日私から頼めたものは、甘ったるい杏露酒の水割りだけだった。
お店を出て夜風に当たると、サムは数時間前待ち合わせた新宿駅南口に向かって歩き始めた。すれ違う人の量がだんだんと増えてきて、このペースだとあっという間に駅に着いてしまいそうだ。細い路地の横で立ち止まった私はサムの顔をじっと見つめると、余白の顔をした。
「いいのかい? 僕みたいな、おじさんで」
いいんです、誰だって。曖昧な笑みを貼り付けたまま私は何も言わなかった。酔いが回った私の瞳はちょうどよく潤んでいるはずだ。
「実はね、離婚をきっかけにEDになっちゃって。完全に硬くならないから、その、女性を喜ばせてあげられないの、スキンシップは好きなんだけど」
サムは気まずそうにグレンチェックのハンチングを被った頭を掻いた。短く刈られたもみあげはそのままヒゲと繋がっていて、サムのエラの張った大きめの顔を上手いことシェーディングしている。一見ラフな白髪混じりのヒゲもよく見れば清潔感があり、何よりサムに似合っている。
「……私もそんなにセックスが好きってわけじゃありません」
サムは頭を掻いた手で居心地悪そうに自身の顎を撫でる。私はダメ押しのつもりでシャツの肘のあたりを数ミリ掴んだ。
「……そうなの? ……もしかして、お小遣い目的なのかな?」
思いもよらぬ質問に、目を丸くして吹き出してしまう。そういうのはもっと若くて奇麗な人がすることだと思っていたからだ。私は丁寧に否定する。
「ううん、違います。今日はサムさんがご馳走してくださるって言ってくれたから甘えたけれど、いつもは自分の食べた分は払ってます。今日だってもちろん自分が負担する準備だってしてます。お金とか、食事目的なんかじゃないです」
これだけ言えば充分伝わっただろうと、余白の顔をしたまま歌舞伎町方面に歩を進めるとサムは真剣な顔をして、私の逞しい両腕を掴んだ。
「あのね、フミちゃん、あなた少し変だと思う。お金を目的にしてくれるほうが、まだわかるよ、まだマシだよ。ねえフミちゃん、あなた本当は何が食べたかったの?僕には君、手に負えないな、ごめんね」
きらびやかな扉の奥に連れ込まれていれば間に合うはずのなかった時刻の電車に駆け込み、男とあの日一緒に食べたたくさんの水餃子を思い出していた。
ドア脇の手すりを掴む手が意図せず緩み、全身の毛穴から汗が噴き出す。降車したくも目の前のドアはこの先何駅も開かないのだ。私は車内の床に内腿からべったりと座り込んだ。
先週酔客に突き飛ばされて擦りむいた膝が痛い。恥ずかしさで顔を伏せるまでもなく、都心から帰る乗客は皆見苦しい女の酔っ払いなどに目もくれなかった。中途半端に優しくしたところで、通りすがりの人間が出来ることなど限られている。だったらせめて、見えないふりをしていてくれればいい。
額、こめかみ、襟足、首筋、鎖骨、胸元。全身から冷たい汗がだらだらと流れているのは現実なのかイメージなのか判別ができない。だらしなくうなだれたまま、私はサムの言葉を思い出していた。
「あなた、本当は何が食べたかったの?」
私、安心が食べたい。安心が食べたいんです。安心で、お腹を満たしたい。満たされることがわからない私にとって、満腹だけが唯一わかる幸福だから。