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月に二回の劣情 #7

 男が仕切り直しに選んだのはゴールデン街二階の飲食店だった。あれだけ狭い座敷に苦労したというのに、上がり込んでみたらここもまたすれ違うことすらままならないほどの広さだ。先客の女性にカウンター席を奥にひとつ詰めてもらい、女、私、男、の順でようやく座ることができた。

愛想のない店主と二人きりどれくらいの時間を持て余していたのか、女性客はしきりに私たちに話しかけてくる。既にだいぶ喋りすぎたと後悔し始めていた私は、男と女性客の会話が胸の前を行き来するのを、卓球の審判のように左右に首を振りながら見守った。

傍から見れば三人連れか、下手をしたら私は二人連れの真ん中に割って入ったおひとり様のようだ。今上野でやっている美術展について二人は意気投合したようで、なんの素養もない私は一人ウーロン茶を啜った。男に何か見せたいとタブレットで調べ物をしている女性客の横顔をちらりと覗き見る。

奇麗だ。神様が成形を怠らなかったら、こんな仕上がりになるのだろう。女の切り出す話題はどれもひどく退屈だったが、それが更に彼女という製品の素材の良さを際立てている。この人は生きてきた中で会話が面白くある必要がなかったんだな。

話題の中心も、世界の中心も彼女のような人であって欲しい。彼女のような人たちが集まって創り出してくれた正常な世界に、私は身を寄せ、正当に見下され、安心がしたいのだ。美しい女性客がその整った唇を開くたび、私は不必要なまでに彼女を持ち上げ、盛り立てた。

出された料理に最後の一箸をつけたところで男はお会計を、と後ろポケットを弄った。ごく自然に女性客と二人連れ立っていくのかと思いきや、男は迷わず醜い私をエスコートするのでなんだか申し訳なくなる。ビニール傘のように、悪気なく取り違えてしまっても良かったのに。

立ち上がれば界隈特有の、極端な狭小店の天井に頭を擦りそうなくらい大きな男だった。急な階段を慎重に下りると雨は少しだけ強くなっていた。私の折りたたみ傘を開き、男が差す。50センチも高いところに掲げられた見慣れた傘の小さな模様が新鮮でじっと見上げる。

ふいに男の背丈が器用に縦に折り畳まれ、影が私に落ちてきて唇が触れた。一度なら何かの間違いだろう。そのくらい一瞬、息を止め合っただけだった。現に男はあんな角度で下りてきたはずなのに、もうあんな高いところにいる。男は傘を目隠しにすると今度は何拍もの呼吸を奪っていった。

「あの。こういうことする、雰囲気でしたっけ」

さっきまで私の右隣にずっと容姿端麗な女性がいたじゃないですか、と言いかけて、そうではなくて今日のところは手軽さ、確実さを天秤にかけたのだと失望する。

そういうことだったのか。特別な出会いなのかもしれないと思っていたのは私だけで、男にとっては誰でも良かったのではないか。なるほど、楠本に突きつけるデータがまたひとつ揃ったと思いかけたところで、違う、楠本は既に自分もまた薄汚れた出会い系サイトの住人であると認めたのだったと回想した。

もう誰も身を呈してサンプルを差し出してくれなくてもいいのだ。突っぱねて別れる気力もなく、申し訳程度の押し問答を繰り返したのち、数十分後には言われるがままに男の身体に舌を這わせていた。ショーツを脱がず一線を越えさせなかった私の小さな自尊心が、頑なに本番を拒否する風俗嬢のようで滑稽だった。

 翌朝、始発で帰って行く私を、男はホテルのドア口で見送った。キャップのつばをできるだけ下げて目線を落とす。バスローブ姿の男の胸元のどこに、昨日のシャツのボタンが存在していたんだっけ。

泊まるなど露ほども想定していなかった私に、化粧道具の用意があるはずもない。昨夜のアイラインが黒く擦れて、滲んで、それでも消えてはくれなくて、中途半端に溶けた顔をしていること、男は気付きもしないだろう。大丈夫、何も恐れなくていい。この男もまた私に興味のない人間の一人に過ぎない。ドアが閉まったことを背中で聞き届けると、振り返り、廊下に響く施錠の音をしっかりと耳に、目に刻んだ。

いつもと違うホテルの、昨夜と違う自動ドアから出てしまった私の足は東西の感覚を失くしていた。ねずみ。大きなねずみが夜に出されたダンボールゴミの隙間を潜っていく。誰かの吐瀉物を浴びたボール紙は濃茶色に情けなく湿っていて、消化されなかった麺類と思わしき物体がところどころで浮かんでいる。

駅方向を確認しようとGPSをオンにして初めて、昨日の晩タカハシに位置情報送るのを忘れたことに気が付いた。始発電車の中で人目もはばからず菓子パンをふたつ、丸呑みする。帰って、シャワーを浴びて、出勤までの仮眠。動揺しているときほど、いつも通りをなぞれば良い、そうしていくつもの不快な夜を乗り越えてきた。

タイムカードもない、いい加減な職場に8分遅れで到着し、ゴミ箱のゴミをまとめると茶渋のついた湯呑みをいくつか漬け置いた。塩素でぬるりと滑る指先を洗い掛け時計を見上げると、既にチェックアウトの時間を過ぎている。あの大きな男は一人目覚めて自宅に帰って行ったのだろうか。



『公務員おじさん、やるじゃん』

 タカハシは下世話な好奇心を隠そうとしなかった。複数は想定内だったけど、同棲中の女が二人っていうのがすごいよね、と私も苦笑する。三人で暮らしてんの?と邪な妄想を膨らますタカハシにそうではないことを説明すると案の定なあんだ、とつまらなそうな文字列が送られてくる。

『しばらくはあの汚いホテルにも行かないと思う』

そう言って私はとあるメモ書きのスクリーンショットを送った。楠本が愛用する、おそらく新宿で一番安くて汚いラブホテル。メモには「号室・浴槽・シャワー・トイレ・広さ・利用日」。恐ろしいことに浴槽とシャワーの項目は広さではなく茶色い水が出るか否か、トイレは水が流れるかどうかが○△✕の三段階で記入されている。いつか誰かに笑い飛ばしてもらおうと集めたこのデータも、この先しばらく増えることはないだろう。

ところが今日のタカハシはおそらくサムネイルだけに目を通すと『あとで見るわ』とだけ言い、自らも動画を一本貼り付けた。たった、22秒。タカハシのジーンズを穿いた足。45度に開かれたその足の間にはまたやわらかそうなジーンズ生地に包まれた短い足が二本。せーの、というタカハシの声のあとに長いローラー式のすべり台を下りていく、わき腹でもくすぐられているかのように笑う子供の声。

『嫁が検診だから今日は子守り』

それで通話をしてこなかったのか、と納得をする。画面に文字だけがこうして連なるのは久しぶりだ。いつもなら4行もやりとりが続けば、タカハシ側から受話器マークの入った吹き出しが発信されているところだったから。

知っている。冷めたことを言いながらもタカハシは一般的ないい父親なのだと思う。こうやって時々妻以外の女と会話をして、それが終わればきちんと、自らの足で牢に戻って行くのだ。でもあなたという囚人は、こうして娑婆の話で楽しませ帰って行く面会人も、感情のある同じ人間だということを忘れているのではないですか。

いくつかのキーワード検索と画像検索ののちに私は『東伏見公園』とだけ返信した。既読になり、10分強の沈黙ののちに感嘆の声が上がる。自宅から電車で一本の公園だとか、長いすべり台の途中に映った電車の種類だとか、すべり台のローラーの色かたちだとか。

怖がってよ。私は強く願う。そんな私の念が通じたのか、タカハシは一言『ぞっとしたわ!』とだけ残すと二度目の長いすべり台に向かったのか、その日はこれ以降、既読がつくことはなかった。



 タカハシにあの大きな男の話を伝えそびれた私は、苛立ちをむき出しにしたままSNSでのやりとりを何度も読み返した。さも私に興味があるような顔をして近付いてきたあの男。ホテルに入ってから直接の連絡先を交換した際に送りあったスタンプのみで、二人の時間は止まっていた。最初で最後、大きな男の送った意味不明の呑気なスタンプに無性に腹が立つ。

『お土産美味しかったです。先日はたくさんごちそうになってしまいすみません、ありがとうございました』

それでもまだいい子でいたいのか、切れ味のないメッセージは、いつものように打ち込むだけで気が済むような代物ではなかった。もういい、これはけじめ。食事をしてお礼を言って、ここで完結したとしよう。普段は送らない事後のLINEを、初対面から数日後という突飛なタイミングで送った。そして予想通り、メッセージはいつまでも既読にならずに夜は更けて行った。

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