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月に二回の劣情 #11

 翌朝、地上13階の眺望をバックに、昨日と同じシャツにきちんと収まった男がいた。評判通りの品数豊富な朝食ビュッフェを楽しむと、食後のコーヒーを飲みながら片足だけ持て余したように胡座あぐらをかき、男は言う。

「フミさんね……話があるんです」

ウィンドウ越し、新宿駅へ向かう通勤客が束になって抜けていく。一つ空けた隣の席では外国人観光客のファミリーが、英語の出来るボーイに地図を見せながら何か問いかけている。

もしかして。まさかこんな化粧も直していない、パジャマ同然の格好で。あれだけ私が他人に戻るために協力を惜しまないのに、この男はいつでも簡単に、自分だけのタイミングでその壁を超えてくるのだ。

ゴクリと息を飲み、水をつけて整えただけの男の無造作にもほどがある癖の強い髪型を見つめる。いつになく真剣な口調に背筋をぴょいと伸ばし顔を赤らめた。

「君、小説書いた方がいい」

「はあ?」

勝手に期待して勝手に裏切られた私は、恥ずかしさのあまり男が話し終える前に食い気味に答え、下を向いて目を見開いた。ギリギリと歯を鳴らす私を、意に介さず男は続ける。

今のクローズドのSNSで書き続けたとして、良いと思っても誰にもシェアできないから。同人誌でも、ネットでも、どこか持ち込みでもいい、小説を書いて発表しなさい、そして君はいずれ本を出すのだ。四方八方どこから見ても三白眼であろう今の私に、真摯に言った。「それほどに君の書いている、文章は良い」のだと。


 何度も途中の駅で降ろしてくれてかまわないと言ったのにチェックアウトを済ませた男は、深夜に私を乗せた場所まできちんと送り届けてくれた。あのサイトはいかがわしいサイトで、ご所望通りいかがわしい関係を保っていて、それなのに私を家まで車で送り届ける。男の行動のすべてが気まぐれで、身勝手で、気が向いているときだけひどく優しくて、私は完全に不機嫌のやり場を失ってしまった。

何度身体を重ねても、自宅の扉を開けると同時に男の記憶は少しずつこぼれてゆく。最初に匂いが、次に体温が、最後に声が。満たされているのは帰宅後ほんの三日間くらいで、四日目以降は私のことなど忘れてしまったであろう男を、心底恨んだ。

『ごちそうさまでした』
『車出していただいてすみません』
『お土産ありがとうございます』

そのたび数日遅れて既読がつくだけで、次の約束を取り付ける以外に、男から日常的な連絡が入ることはない。月に二回程度の劣情。私のスケジュールは男に会う日と会わない日の二色に分けられ、当然会わない日の鈍色ばかりで濃く広く塗り潰されていった。



<2019_09_11_19_38_****>

「あの、毎回、ご馳走してくれなくて、大丈夫ですよ」

 幾度かの食事と宿泊を繰り返したある日、意を決して私は切り出した。男は急須に入った中国茶を私と、自分に一杯ずつ注ぐ。

ずっと気がかりだった。私はこの男以外に食事を奢られることはない。誘われて食事に行けば必ずワリカンを申し出るし、男側も遠慮なくそれを受け入れる。

私の会食嫌いは相変わらずで、ほとんど箸は進まないから、相手の男に振る舞っているようなものだった。それはつまり、間接的にこの男が他の男たちに、飯を食わせているということなのだ。

どんなにこの男が有り余る富を持っていたとして、その事実は本意ではないだろう。いつものように男は、私の食べたいもの、飲みたいものを聞き取りながら言う。

「食べさせようとしてるわけじゃない、一緒に食べてる」

テーブルの上には早くも前菜の蒸し鶏と、木耳の炒め物が並ぶ。やはり遠回しでは伝わらない。私は眉をしかめると「だから。ホテル集合ホテル解散でいいですよ、私。そういう用の女なんで」と単刀直入に言い直した。

男はやっと私が言いたいことの要点を把握した様子で、眼鏡のブリッジをくいっと上げると前菜を取り分けながら「人に対してそういう用とかそういう概念が、ないんで」と言った。

そんなの詭弁だ。現にあなたは性欲の高まりとともにやってきて鎮まれば帰ってゆくのだから。「例えば!」千切りになったきゅうりを勢いよく飲み込むと鼻息荒く私は言う。

「例えば風俗の人と付き合いたいとか思いませんよね?それって無意識に使い分けてるってことだと思いますけど」

「風俗嬢でも一緒にお寿司食べたいと思う人がいたとしたら、お寿司食べに行きます」

話をしている最中も無愛想な中国人店員が湯気の上がった点心のお皿をドン!とぶっきらぼうに置いていく。

「というか」

気付けばテーブルの上には男が選んだたくさんの料理が並んでいる。男がこうやってお店屋さんみたいに一斉にたくさん頼むときはすごくお腹が空いてるときなんだ、と目を細め、いや、そんな風に思っている場合か。私はとても大事な話をしているのに、と集中を取り戻す。

「俺がフミさんとお寿司食べにいくと決めてるわけです。俺がしたくて誘ったりしてるのに、なんでそんなこと言うの。もちろんフミさんにそれを拒否する権利はあるよ。私はもう嫌だと。お寿司なんて食べたくないんだと」

男が二人前、二十個も頼んでしまった水餃子は食べても食べてもなくならない。

「お寿司は……ずるくないですか……食べたいに決まってる……」

私は箸を動かしながらも悔しくて下唇を噛んだ。

「……ちょっと頼みすぎたなあ」

だんだんと冷え固まっていく水餃子に顎の筋力を奪われながらも勇ましく「私もうちょっといけるので……あなたは炒飯食べちゃってください」と役割分担をする。

相変わらず私はお店でオーダーを決めるのは苦手だし、店員さんにそれを伝えるのも得意じゃない。本音は誰かと食事するのは好きじゃないし、お腹いっぱい食べるなんて出来やしない。

だけど男は私の、頑張れば出来るけどひどく消耗してしまうことと、我慢して乗り越えれば満たされて気苦労も忘れてしまうこと、を見分けるのが抜群に上手い。

あんなに苦手だと言った、他人の車に乗ることも向かい合っての食事も、二人一緒の入浴も朝までの宿泊も、当たり前のような顔をして片手を差し伸べ、私がおそるおそる手をのせた瞬間に重力を感じさせず連れ去っていく。口に出したらまた笑われるだろうか。私は食事をしたら満腹になること、この歳まで知らなかったと。

「もっと上等な女の人を連れて歩いたほうが、あなたの人生豊かになると思うんです」

卑屈な捨て台詞を吐いた私に、男は早口で、それでも笑顔を絶やさずにぴしゃりと言った。

「それはフミさんが決めることじゃないからね」




「それに……毎回奢ってもらってると、私から誘えなくなるんですよ、わかりますか」

 ベッドに入ってまでまだその話をしている私に呆れたのか、もしくは考えもしなかったのか、男はおぉ……とだけ小さく声を漏らすと、長い足をあちら側に倒して眠る姿勢をとった。一緒のベッドに入るのは何度目だろう。男が眠りに落ちる寸前の体温がどのくらいか、私にはもう自然とわかる気がする。

男の寝息が整ったところで静かに身体を離し、分厚い遮光カーテンの隙間からホテル街を見下ろす。ラブホテルなのに朝陽がきちんと差し込む作りのこの建物を、男は気に入っている。

『SNSの投稿見たよ、こないだは言い過ぎたね、反省してる』

午前2時。楠本からの久しぶりのメッセージだった。こうやっていろんな猫を、生かさず殺さず飼い馴らすのだろう。こんな時間にもかかわらず、すぐに既読になったのをチャンスと思ったのか楠本は続けた。

『由利は最近どうなの? どんな男と寝てるの?』

言葉の端々に自信がみなぎっている。自分よりハイスペックで、自分より上手い男はいないだろう?と文字列が今にも踊り出しそうなくらいに主張してくる。丸い合皮張りのスツールに腰掛けると、ベッドからこぶしふたつ分くらい飛び出た男の長い長い足に目を細めた。今夜は酒を多めに飲んだせいか、めずらしく小さいいびきをかいている。

『……お金持ちだよ。とんでもなく背が高くて、すっごく頭が良くて、趣味のいい外車に乗ってる、お金持ち』

その自信を素手で一枚ずつ引き剥がしてやりたくてわざと意地悪な返事をすると、案の定楠本は『意外だな、由利、そういうのに惹かれるんだ』とあからさまに私を蔑んだ。確かにわかりやすく掻い摘んで言うのなら、そういう男なんだろう。だけど、この男の本当のいいところは違う。楠本にも、誰にもわからないだろうけど。

『一番いいところはね、ご飯を残さないところ』

そう書き残すと私は楠本の返事も待たずにシーツに滑り込み、長い腕に絡み付いて胸いっぱいに男の体臭を吸い込んだ。

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