見えないものは、信じない(週報_2019_01_06)
新年早々に体調を崩した。
働き詰めの疲労困憊した身体にこれだけ乾燥した空気。
電車内、ヒト由来の結露。
悲哀を持った人間を探して深夜徘徊する私の40デニールタイツ。
毎朝、起きると目が開かない。
捨てられた仔猫のように目ヤニが両の目を糊付けしている。
数週続いてわかったこと。
私の年齢を知っている人は一緒に腹を抱えて笑って欲しいのだが、どうやら私はこの歳になって夜泣きをしているようなのだ。
泣きすぎて目尻が切れ、毎晩糊付けされた瞼の皮膚が荒れて控えめな奥二重が自己主張の強い不均等な三重になった。
夜夜中。
布団に入り、足先が温まった頃に2階から小さな足音が聞こえる。
その足音は小刻みで私よりもニ本ほど足が多く、そしてその全ての足がフローリングを引っ掻いているのできっと裸足だ。
風邪をこじらせそうだったので行きつけの耳鼻咽喉科に行くと休診だった。
消耗した身体に病院までの道のりの往復はしんどかったけど、私の好きな偏屈せんせいがゆっくりお正月で身体を休めているのだと思ったらなんだかほっとした。
小児が成長とともに次々と新しいアレルギーに罹患することをアレルギーマーチと言い、私の場合は幼少期の重度の花粉症を皮切りに、今は猫アレルギーが原因と思われる喘息を患っている。
小さな頃からアレルギーで病院にかかるごとに猫を飼っていることを指摘され、病院サイドが治そうと努力しているのに当事者がアレルゲンを排除しようとしないなんて不真面目だとばかりに責め立てられた。
「生きてるものを、そんな簡単にあげたり捨てたりできるわけないじゃない」とプリプリ怒る母を身体中掻きむしりながら眺めていた。
いやでも全くその通りだ。
簡単にあげたり捨てたりしないでくれ。
偏屈せんせいはその名の通り、まあまあ、そこそこ、偏屈だ。
だけど私のうちの猫のこと、捨てろとか譲れとか言ったことは一度もない。
「先生、猫手放せって言わないんだね」
ネブライザーを鼻にあてながら私が言うと「だって猫はいいものだもの」と偏屈せんせいは笑った。
「ぼくはね、昔猫は苦手だったけど家内が好きで飼い始めたら可愛くてね。
もう亡くなってしまったんだけど、ちゃんとぼくの帰宅を待って息を引き取ってくれたんだよね。
今でも家に気配を感じることはあるよ。
ぼくはそれがとても愛おしい。」
「…お医者さんでも目に見えないものを信じたりするんだねぇ、意外。」
「誰にでも言ったりはしないけどね。
あなたはそういうこと笑ったりしない人だから話したんだ、死後の世界はあるよ。」
先生ごめんね。
死後の世界とか幽霊とか、私はないと思ってる。
2階の足音はさ、きっとネズミ。
猫がいなくなって毎夜はしゃいでいるのでしょうね。
先生の言ってることを笑ったりはしないからそこは間違ってないけれど、猫の気配を感じたりはしてなくて。
先生、明日休診が明けたら風邪の薬は欲しいんだけど、喘息の薬はもういらないみたい。
だってもう、咳が出ない。
咳が全然出ないんだ。