放し飼いの羽ばたきに愛を
最後の出勤をしたのは3月中旬、割合と肌寒い夜だった。
目尻が切れ、荒れた肌。
懸命に化粧品を塗った甲斐なく、出勤してみると金曜の夜だというのにまったくと言っていいほど来客がなかった。
まいったな、という表情の店長から、薄情にも早退の許可を得ると、深夜まで営業している駅前のスーパーマーケットに立ち寄った。
目前の客が自動ドアを通るなりアルコールスプレーを手指に擦り込み始めたので、そうだったとばかりに見よう見真似でなんとなく両の手を揉む。
取り急ぎ何が欲しいということもなく、万が一のときどの程度揃えることのできる店なのかという情報を得たいだけ。
米や乾麺はまだ在庫があるようで銘柄を選びさえしなければなんとかなるのだと、この夜はそれらを手にとることはしなかった。
不足が続けば、じきに埋め合わせの飽和状態がやってくることくらい、私にだって容易に想像ができたのだ。
半額シールの貼られた売れ残り惣菜の中から2つほどカゴに選び入れ会計を済ませると、駅始発の深夜バスに乗った。
23時36分発のバスのシートにリュックを背負ったまま浅く腰掛け、半ば手癖のようにスマホを開きオレンジがかった独特の薄暗さの車内を見渡す。
こんな時刻でも半数に満たない程度の乗客がぽつりぽつりと座席を埋めていた。
画面を撫でる人差し指が不意に強張る。
メスゴリラからのメッセージをうっかり既読にしてしまったからだ。
私に「メスゴリラ」なんて中傷まがいの名で呼ばれている女のメッセージはたった一言『今なにしてる?』だった。
ああ、いつものやつが始まった。
そしてこう続くのだ。
『ねぇ、今、通話できる?』
と。
*****
いつも帰宅に使っていた深夜バスが、期間未定のまま全便運休になったと知ったのはその翌週のことだった。
気付くと、数年後には教科書に載るような事態の中を生きていた。
ならばいっそ、しばらく「生きる」以外のあらゆることを自粛してやろうと、私も期間未定のままに休業することを決めた。
私が世間に先駆けて勝手に作り上げた大型連休は、無味乾燥したものだった。
好きなものを食べて好きな歌を聴き、好きな入浴剤を入れた湯船に浸かり、丁寧に洗濯物を畳んだのも最初3日ほどで、4日目には昼間から酒を飲み、7日目以降は寝たきりのまま、ただひたすらに天井の木目を視線だけでなぞっていた。
昼から酒を飲むことが娯楽となり得るのなら、平常時こそ喜び勇んでやっているはずなのだ。
そわそわとどこか落ち着かない空気のなかで昼から飲む安酒は、案の定、美味くもなければ不味くもなかった。
毎夜、20時ちょうどにスケジュールアプリの通知がぽこん、と上がる。
『明日の予定は ありません』
知ってます、と恨めしげに指で通知を弾くと、私はまた夕寝とも夜寝ともつかぬ惰眠を貪った。
*****
メスゴリラと顔を合わせたのは、2年前に働いていた日雇いのバイト先で、それも、たった3晩のことだ。
初めての勤務の夜、休憩室に入ると私より一回り近く年下であろう派手な女の子が二人、宅配ピザを食べていた。
軽く会釈して部屋の隅の椅子に座る。
彼女らは引き続き和気あいあいとMサイズのピザをつついていた。
漏れ聞こえる会話からそのピザが勤務中に注文したものだということがわかると、私は小さく吃驚の息を飲んだ。
「あのぉ~?ピザ、食べます?」
艶々のストレートロング、ほとんど白目のない真っ黒な瞳に、信号機のひさしみたいな極厚のつけまつげを施した女の子が私に訊ねた。
むちむちと肉付きのいい身体に真っ赤なニット、毛玉だらけの萌え袖からは魔女のようなネイルが飛び出している。
さっきまでその爪で私と同じ開梱作業をしてたなんて、嘘みたい。
私は就業初日から共犯にされてはたまらないとばかりに「大丈夫、ありがとう」と言った。
二人は真ん中で半分に分け合ったピザのそれぞれ1ピースずつを残すと、休憩室で流れているテレビに没頭していた。
世界中の九死に一生、みたいなエピソード番組を見ながら、彼女たちは「誰?」「死んだ?」「わかんない」「かわいそう」と小さく混乱している。
噛み砕く目的で作られたはずの再現ドラマが理解できないなんて、制作した人は本当にお気の毒。
求職中に効率よく稼ごうと始めた夜勤バイトを、早く卒業しなくてはと思うのに充分な底辺の営み。
私は我慢できず、横から「最初に出てきた人と、今死んだ人は別人だよ」と解説をしたが二人ともふぅん、と唸っただけで「死んだ」も「かわいそう」もあっという間に忘れてしまったようだった。
ピザを薦めてきた愛想の良い方がトイレに立つと、小さな休憩室にはなんとも言いがたい沈黙が漂った。
「あいつ、みんなからメスゴリラって呼ばれてるんすよ」
つい数秒前まで再現ドラマを見ながらその「メスゴリラ」と一緒に首をかしげていた時代遅れの黒ギャルが、悪びれもせずに言い放つ。
平坦すぎるその調子に、誰かほかの人に話しているのかも、と振り返り、やはりここには私しかいないことを確認し、何拍も遅れてしみったれた作り笑いをした。
「ママがアル中で生活保護なんだけどさ。
おんなじ、アル中で生活保護の、ママの彼氏と三人で暮らしてんだょね」
初対面で少し話しただけなのに、メスゴリラは出会って2回目とは思えないほどのヘヴィな話題で私への親愛の情を表してくれた。
私がリーチだとするならこの子はビンゴだ、上がってる。
要するにメスゴリラは私のずっと上をいく、DQNエリートだった。
アル中の母親は気まぐれに暴力をふるい、家にもっと金を入れろと怒号を飛ばすし、そのために普段は地元のドンキでバイトしてるだなんて、華美に化粧していてもどこか貧乏くさい彼女のイメージにぴったりだ。
「ゥチさ?ドンキのバイト、全然シフト入れてもらえなくてここ来てんだょね……。
遅刻と欠勤が少ない人優先なんだって。
それって超ひいきぢゃん……?」
こってりとした豊満な唇を尖らせると、ちょっとオール明けに遅刻したり無断欠勤しただけなのに、とメスゴリラは不貞腐れた。
クソ田舎でドンキの店長なんかやらされてる大人の立場を考えたらいたたまれなくなり、また私はいらぬ口出しをしてしまう。
「あのさ……来るはずのバイトが休んだら、困るよね?
それはね、ひいきじゃなくて、普通だよ。普通」
するとメスゴリラは装飾だらけの重そうなまぶたを見開き、
「そっかぁ!普通かぁ!」
と笑った。
わかっていたけど、すげえバカだな、と私も負けじと目を見開いた。
理解の度合いを伺い知ることはできなかったが、割と鋭い口調の指摘にも、メスゴリラはにこにこと機嫌が良かった。
その、なんとも言えない呑気さに「すげえバカだけど、素直でかわいいとこもあるな」なんて思ってしまったのだった。
派遣されて3勤務目の夜、電車で1時間かけて現場に到着すると、メスゴリラは毛玉だらけのニットの袖をむしりながら事務所の前でしゃがみ込んでいた。
「今日、荷物が届かないから仕事なぃんだって」
明日までにスマホ代1万円払わなきゃいけないのに。
彼女は大きなため息をついた。
顔の前で合わせた肉感的な手のひらの、利き手のラインストーンだけがみすぼらしく剥げている。
時間外の出来事で、派遣会社もうまく伝達ができなかったのだろう。
ダメ元で往復交通費だけは請求してみるよ、と言うと、メスゴリラはすごぃね、とだけ洩らしてひざを抱えていた。
電話一本入れるだけでしょ、と伝えても、彼女は歯切れ悪くただ笑っているだけで、今夜の不手際について行動を起こす気などないようだ。
やがて外灯が消え、現場のなくなった正社員たちも事務所から散ってゆく。
地元雇用の彼らは各々、車や自転車で帰宅するのだろう。
私とメスゴリラは、終電後のよく知らない街に放り出されてしまった。
「ラーメン食べたくなぃ?」
薄手のニット1枚で恰幅の良い身体をさすりながら、彼女は笑った。
上着は?と問うと、ここまで母親に送ってきてもらったのだと言う。
どちらにせよ数時間は潰さねば始発も出ないことだし、私はメスゴリラの誘いにのって24時間営業の中華料理店に居座ることにした。
彼女は奥のソファー席を躊躇なく陣取ると、生ビールとつまみを2品注文した。
私は、ラーメンは?そして明日までのスマホ代1万円は?と思いつつも烏龍茶のホットが出来るかどうか訊ねることを忘れなかった。
その夜はしみじみ、冷えたのだ。
乾杯の寸前にメスゴリラは「あっ」と気付きの声を上げ、「名前、聞いたっけ?」とまた懐っこい笑顔を浮かべた。
私はすぐに忘れてもらいたい気持ちを込めて小さく「フミだよ」と呟くと温度差のあるグラス同士をガチン、とぶつける。
今年二十歳になったばかり、相模原の端っこに住んでいて、中学から不登校のキッチンドランカー。
ママはアル中だけど、シングルでずっと育ててくれて、大切な存在。
……たまに殴られるけど。
饒舌に身の上話を繰り広げつつも、ありえないペースでジョッキの生を飲み干したメスゴリラの顔は、まだほんのりと、あどけなかった。
厚化粧に見えた顔も、その極厚のつけまつげと漆黒のアイライナーで引かれた目頭の切開ラインだけで、よく見ればファンデーションすら塗っていないのだ。
彼女のどこか憎めない無邪気さは、すべて幼さに起因している。
ドンキのバイトの前は援交のお金で暮らしてて、今の彼氏と付き合いはじめてからやめたんだよね、束縛、ヤバくて。
でも本当は「売り」の方がずっと楽だった。
今のドンキは皆なんだか冷たいし、決まった時間に出勤するのもかったるいもん。
メスゴリラのターンが続くと、時折こちらを気遣って「フミちゃんは?」「彼氏は?」「写真見せてょ」なんて質問をする。
仕方なくスマホに残っていたセフレの写真をかざすと、少しの沈黙のあと「……頭がよさそうな人だね!」と少ないボキャブラリーの中から精いっぱいのお世辞を言うものだから、私は腹から笑ってしまった。
顔をくしゃくしゃに綻ばせた私に、彼女は言った。
「ゥチ、フミちゃんとこんなに仲良くなれると思わなかったぁ」
勘弁してよ。
こんなの親しいうちに全然入んないよ。
緩んだ顔の筋肉を引き戻せないまま、内心冷たくメスゴリラのことを斬り捨てていた。
あんたが一方的に自分のことを話してきただけじゃない。
寝転がったどこぞの柴犬みたいに柔らかな桃色の腹を見せてくる彼女が煩わしくて、始発の時間を40分以上も前倒しにごまかし、私は立ち去ることにした。
午前3時台に走る電車などあるわけがないのに、彼女はそれを疑わなかった。
「あ?ママ?仕事終わったんだけど。
……うっさ……いいから、迎えにきてよ!」
心から大切だと語っていた母親への口汚さは、耳を覆いたくなるほどのものだった。
罵るから殴られるのか、殴られたから罵り返すのか。
それなりに殴られて育ったはずの私にも、正解などわからない。
アル中の母親の送迎、生保で車を所持している矛盾、午前3時に起きている生活のサイクル。
メスゴリラの家庭は金太郎飴のようにどこを切っても胡散臭さしか出てこず、まともな感覚で向き合ったら具合が悪くなりそうだった。
後腐れのないよう、彼女が生ビールをジョッキ4杯飲んでいても会計はぴったり半分の割り勘にした。
心のどこかに、未払いのスマホ代のことがなかったといえば嘘になる。
私は、メスゴリラが追加であれもこれも頼んでおきながら派手に食べ残した料理を見て、いつかの日に棄てられた2ピースのピザのことを思い出していた。
その後も私は何晩と勤務を続けたが、例の黒ギャルと一緒になることはあってもメスゴリラがバイト先に姿を現すことはなかった。
「派遣会社が交通費くれなかったら、相談のるから」
そう告げて交換した連絡先に『あのバイト、辞めたょ』とメッセージが入ったのは、そこから1ヶ月ほどが経った頃だった。
その報告への返信を皮切りに、私とメスゴリラとのやりとりが始まったのだ。
真夜中に返事をすれば決まって通話をねだるほど誰かの肉声に飢えているのに、深夜の着信に気付かずに翌朝にでも返信しようものなら、平気で3日は未読のまま置き捨てられる。
その瞬間の不安を処置できないのなら、まるで私はいらないみたいに。
これが本当の友達だったら、こんな扱い、我慢ならずに縁を切っていただろう。
面倒くさいときは放っておいて良い。
この対等じゃなさが、むしろ私が彼女に誠実でなくても良い免罪符であったのだ。
じきに私も就職し、日雇いバイトを辞めた。
今は都内で働いてる、と伝えると、メスゴリラは「いいなぁ」と羨ましげなため息を洩らした。
渋谷とか好きそうじゃん、出てくればいいんだよ。
私が唆すと、メスゴリラはかしこまったような口調で
「今カレとね、子供ができたら結婚しょって約束したんだ……」
と、言った。
つい最近までアイコンを真っ黒に塗り潰したり、ステータスにポエムを書き散らかしていたばかりなのに、その約束はどこまで信頼できるものなの?
「……でもゥチさ?昔いろんな性病にかかっちゃってさ……。
子供、できにくいカラダなんだょね……」
具体的に?と聞いても、いろいろ!全部!だけ言って、彼女はふたたび自分の作った泥沼に戻っていってしまう。
こんな小娘を束縛する男の、どこがいいというの。
それでも男との馴れ初めを話すメスゴリラの声は弾んでいる。
「……ハル、ブライダルチェックって知ってる?
結婚前にさ、婦人科で妊娠するのに良い状態か、調べてくれるやつ。
別に結婚しなくても受けられるから、一度行ってみたら?」
二十歳の少女へのエサに結婚をぶら下げる四十男の気持ち悪さはさておき、彼女が正しい知識を得ることに意義はあるのだ、と私はやんわり助言をした。
「ん……」
どこかで聞いたことのある、歯切れの悪さ。
電話越しだというのに分厚いつけまつげが徐々に伏せていくのを見ているようだった。
メスゴリラが病院に行く気なんてないことを察した私は、それ以上の言及をしなかった。
その場しのぎの快諾などしないだけ、まだ正直で良いと思うほかない。
この子には、この世界が終わることも、この恋が終わることも同義なのだから。
そっちへ近寄ってはだめ、こっちを越えたらだめ。
いくらにこにこしてたって私の言うことなんて聞きやしない、だから私にあなたのことは守れないよ、わかるでしょ?
たくさんのお小言を飲み込んだこの日から、私はメスゴリラのメッセージを未読で放置した。
最初は一週間おきに届いていたご機嫌伺いが、二週おきになり、空気を読んだように、やがて届かなくなった。
表向き私が彼女を「ハル」なんて親しげに呼んでいたのは、愛おしさからなんかじゃなくて、単に「ハルカ」だったか「ハルナ」だったか忘れてしまっただけのこと。
薄情なのはお互い様。
だから1年ぶりに深夜バスの中で彼女のメッセージを開いてしまった私は、悪気なく面倒くさいという顔をした。
さまざまなことが制限され、混乱してゆく時代の真ん中で、悪い意味で何も変わらずつまらない男の機嫌をとることばかりに夢中になって。
仕事すらも自粛し日々だらしなく過ごしていても、もう夜中にくだらない電話に付き合う気には、到底、なれなかった。
*****
『元気にしてる?大丈夫?』
5月の半ば、朝方に届いたメッセージを寝ぼけながらも手慣れた素振りで放置した。
またメスゴリラの愚痴聞き役リストに入れられるのは、まっぴらだった。
あの夜の通話のせいで、最後に仕事に行った日のことを思い返すたび、セットで彼女のくぐもった声を思い出す。
私はバカ正直に「生きること」最優先で、すべての娯楽を手放して、月イチ行っていた美容院すらも諦めて。
でも知らなかった。
生きているだけ、ってつまらないことだって。
スルーしたメッセージが、メスゴリラでない別の人物からだったことに気付いたのは、今日も浴びることのなかった太陽が役目を終えて沈んでしまったあとだった。
『ごめん、気付かなかった。久しぶりだね』
ほどなくして今朝のメッセージをなぞるように、
『久しぶり。大丈夫?元気にしてる?』
と、返信が届いた。
数ヶ月前に手を握り合っただけで、のちに自然消滅した男からだった。
久しぶり、大丈夫、元気にしてる……
男の台詞を反芻しているうちに、私は彼の思惑に触れた気がして、こう答えた。
『毎日不安なの。あんまり元気がなくて』
しばらくの空白ののち、男は嬉しそうに『大丈夫だからね』と私に言った。
『ちゃんとごはん食べてね』『元気出してね』
どれも不安で震える私を撫でるようなセンチメンタルな言葉だったが、その実、それは私の頭を通り過ぎて彼自身の額を優しく擦っていた。
私はたった一言『ありがとう』と言った。
行間からは男の慈愛に満ちた笑顔が、今にも滲み出してきそうでそっとアプリを閉じた。
……あなた、不安だったのね。
ずっと元気が出なかったのね。
私のことを、己より弱く脆い人間と見立て、それを救ったという万能感で、男がまた明朝も怯えず通勤電車に乗り込めるのならそれでいい。
実際の私がこんなに不遜な態度であることなんて、今は重要じゃない。
寝て、起きて、ご飯を食べて。
家の中でずっと自分のことを考えているだけで、外に出ている勇敢で聡明な人たちが世界をなんとかしてくれるのを待っていた。
賢くない私にできることは、このたよりない薄い壁に囲まれてじっとしていることだけだと思っていたのに、私を撫でた男は大層、満足そうだった。
指紋だらけの真っ暗な画面を見つめていると、20時ちょうどにぽこん、と音がした。
『明日の予定は ありません』
毎夜見ていた空っぽの通知は、私に明日という存在を繰り返し知らせていた。
*****
良く晴れた翌朝。
11日ぶりに外の空気を吸い込むと、駅までの道を下りた。
通販やネットスーパーで買い物を済ませていた私が、ゴミ出し以上の距離を歩くのは3月のあの夜以来だった。
どんなに注意深く観察をしても、外を歩く人の数の変化を感じることができず、そこで初めて日頃からあまり顔を上げて歩いていなかった自分を知る。
世界は、何も変わっていなかった。
皆忙しそうに洗濯物を干したり、布団を叩いたり、平然と日常生活を営もうとする力に私は拍子抜けした。
もっと、世間は発狂寸前なくらいに、差し迫った精神状態であるかと思っていたからだ。
自分を中心に、円を描いて。
その中に入る一握りの大切な人たちとの暮らしを守っているのね。
私は誰の円の中にもいないし、私の円の中には誰もいないけれど。
トイレットペーパーが必要なのは、米や小麦粉が必要なのは、明日も明後日も明々後日も、彼らが生きているつもりだからだ。
無知であるのは、私だった。
無知であるがゆえに、無自覚にたくさんのことを恐れて生きていた。
ならば私よりも更に拙いメスゴリラは今、何を思っているだろうか。
部屋の隅で丸くなって、何を怖がるべきかもわからず震えているのだとしたら。
新宿行きの上りホームを改札の外で眺めながら、私は初めて自分から電話をかけた。
ハル?おはよう、元気にしてる?いろいろ大変だけどバイトに影響出てない?
あの夜に話して以来、更に2ヶ月も未読無視していた罪悪感から、私はいつもに増して柔らかな口調を意識していた。
「変わってないょ、フミちゃんは?」
少し鼻にかかった、のっぺりとした甘い声。
眠たそうなその声色は、彼女がこんな事態のなかでも変わらず昼夜逆転の暮らしをしていることを示している。
「話もしたいし、一緒に呑もうよ。
ねえ今度新宿出ておいで、行きつけのバーに連れてくから」
こんな、図体ばかりが大きいだけの女の子に「賢くなれ」だなんて酷だろうか、筋違いだろうか。
それでも私は伝えたかった。
生きていくということは、あなたが思っているより少し怖くて、私が思っているよりも怖くない、と。
ところが彼女はあっさりと「無理だょ、新宿なんて」と呟いたのだ。
今まで何度袖にしたって懲りずに呑みに行こうと誘ってきたのは、メスゴリラの方なのに。
「どうしてよ、近いよ、新宿。
快速乗ったら30分だよ?」
めずらしく食い下がる私に、メスゴリラは言った。
「遠いょ、東京は」
スマホの向こうで厚いつけまつげが二度、三度、羽ばたく音がして、私はそれ以上何も言うことができなかった。