【R18推奨】ソフレと眠る夜、東京28時
午前3時48分。
私は見ず知らずの男の家で力まかせに歯を磨いていた。
何故こんな状況になっているのか。
それを説明するためキュルキュルと時計の針を巻き戻すことにしよう。
冬だ。
終電後の身の振り方がシビアになってきた。
夜中の気温が下がり、新宿駅前のライオンの像の前で酔っ払いが行き倒れていることもなくなった。
そりゃそうだ、誰だって死にたくないもんね。
少し前にTwitterで話題になったが、あの像は口にはコインの投入口があって募金をするとガオーと吠えることを意外にみんな知らない。
無造作に100円を突っ込んでは申し訳程度の咆哮で寝入る酔っ払いをビクッとさせるのが私の楽しみだったのに。
それも春までお預けかと、ライオンを横目にJR新宿駅方向に進んだそのときだった。
背後から男の声がした。
「何してるの?どこ行くの?」
こちらの面構えも確認せずに声をかける足の運び方。
この寒さの中コートも着ていないのは長時間外に立つことを想定していなかったからなのだろうか。
つまりはホストのキャッチや風俗のスカウトの類である可能性がぐっと下がる。
接待で呑んでいてこんな時間になった、と男は言った。
あながち嘘ではなさそうだ。
それなりの重さに見えるビジネスバッグに説得力があった。
身長180㎝を越えていそうないい男だった。
もし180ないとするなら相当姿勢がいいのだろう。
女性から見て好き嫌いの分かれなさそうな清潔感のある顔立ち。
だとしたら私から言えることは少なかった。
「よく見てください。ブスです、私。
少し戻れば美人がいる楽しいお店がいっぱいありますよ。」
素っ気ない口調で歌舞伎町方向を指差した。
私はイケメンがすこぶる苦手なのだ。
イケメンは悪意か下心がない限り私なんかには用がないからだ。
知らぬ間に財布や臓器が盗まれてはいないだろうか、何度も何度も確認しているうちに疲弊してしまう。
「そういうんじゃなくて……。
商売でやってるんじゃない、普通の人と話したくなったって言うか……」
「まあ、なんとなくわからなくもない」
「これからどうするの?」
「南口の居酒屋で烏龍茶1杯で始発を待つ」
「それは初めて聞くパターンだな……」
男は少し考えたフリで頭を掻く。
男女間特有の様式美。
「よかったらうちに来ない?
なんていうか、俺もう眠いし、明日から海外に行くから早起きしなきゃいけなくて。
だから本当に寝るだけ。寝るまで誰かと話したいし、添い寝して欲しい。
ソフレってやつ。ノーセックス。
セックスしたら朝起きられないし。ダメかな?」
海外か。
あり得なくもないと思わせるような身なりと口ぶり。
とはいえ訳のわからない路線にある自宅にワープさせられてしまうと、私も翌日の仕事が辛くなる。
「家、どこ?」
「☓☓☓駅」
私と同じ路線の、いくつか都心寄りの駅だ。
通り道なので苦になりようがない。
断りの言葉が全て出尽くした私は、絶対に始発で帰ると念を押し、難しい顔をしたまま なし崩し的に男とタクシーに乗ってしまった。
「海外、どこ行くの?」
「スペイン…から乗り換えて、モロッコ」
「モロッコ?モロッコヨーグルの貿易でもやってるの?」
そう口にしたあとに駄菓子のモロッコヨーグルは実はモロッコと何の関係もないというネット記事を思い出してあっとなる。
幸い男はモロッコヨーグルのことなど微塵も気にかける素振りがなかったので、私も何食わぬ顔で会話を続けた。
「仕事じゃなくて遊びに行くんだ。
世界中まわってる。南極にも行ったことあるよ」
「モロッコは何語?」
「スペイン語。でも言葉は覚えて行かないよ。
話せても言葉って使わなきゃ忘れちゃうんだよね」
「言葉で理解するより、
直接目で見たものに揺さぶられて帰ってくることに重きを置いてるってことなんだね?」
そう尋ねると進行方向を見ていた男は突然振り返り、私を一瞥した。
「…君、頭いいね?何ちゃん?」
「頭、よくない。高卒のミチルちゃん」
「いい名前だね」
僅かに沈黙が続くと男は居眠りをし始めたので、私は呼ぶつもりのない名前を聞き返すことはしなかった。
深夜割増のタクシーは順調にメーターを回し続け、住宅街を抜けると男の最寄り駅に到着した。
あとから考えれば住宅街で降りることもできたが、翌朝私が1人で帰ることを考慮しての駅からの案内だったのだろう。
君こそ頭、いいじゃないか。
コンビニに寄り温かい飲み物とハブラシを買い、トイレを済ませておいた。
男の家は駅から徒歩4分、オートロックのマンション、1階角部屋。
駅近の都内一人暮らしにしては特段に広かった。
玄関には様々なデザインの革靴と木製のシューキーパーがそれぞれ10対は転がっていた。
ふぅん、着道楽か。
それなりに散らかってはいたが、基本的に几帳面な性格なのだろう。
週末に30分もあればリカバリできる程度の清潔な乱雑さだった。
男は歩いているうちに酔いも眠気もさめてしまったようだ。
重いバッグを置くと同時に無駄のない動きでジャケットを脱ぎ、洗濯機から数枚のワイシャツを取り出すと手際よく室内に干し始める。
私は個人情報が転がっていそうなパソコン周辺を避けて室内を漂っていた。
最低限の躾のされている野良猫でありたいといつも思う。
男は一瞬私の存在を忘れて、また思い出したかのように「好きなところに座って」と言ったので、私も聞こえないくらいの声で「にゃあ」と言った。
しばらくすると男の点けたカーボンヒーターが赤く色付き、真ん前を確保した私は丸くなり暖をとった。
「マメだね」
遠赤外線の赤い照り返し越し、洗濯物を干す男に言う。
「帰国したら翌日から即出社だから片付けていかないとさ」
世界各国のガイド本が詰め込まれた本棚の脇に登山用と思しき大きなリュックサックが値札のついたまま転がっていた。
「パッキングもまだなんだよね。
見て、南極、ここ行ったの」
短い時間の間に南極の話が出たのは2回目だった。
きっと様々な出会いの中で自分をプレゼンするには最も効果のある話題なのだろう、男もそれをよく承知しているようだった。
ただ申し訳ないことに今夜のゲストは野良猫で、南極にはなんの食指も動かないのだ。
私は一言二言南極について質問したが、そんなことより部屋に大量に買い置きしてあるセブンプレミアムのチョコチップクッキーの方がずっと興味深かった。
男はいつの間にか部屋着に着替えていた。
さっきまでとは打って変わってズルズルに首元が伸びたTシャツとヨレたステテコ、分厚い眼鏡。
隙だらけ、無防備なその姿にこの日初めて私の目尻が緩んだ。
洗面所、使わせてねと断って、二人で並んで歯磨きをした。
「こういうさぁ、知らない女を連れ込むの、逆に怖くないの?」
よその家の口慣れぬ歯磨き粉の味に眉をしかめながら私は聞いた。
「何かあったらあったで、自己責任ってことかなぁ」
男の人生観がその言葉に集約されているようだった。
取り留めのない会話は緩やかながらも弾んでいたが、盛り上がれば盛り上がるほどに男は裏表がなく、言うなれば私好みのじっとりと湿ったトラウマを持っていないことがわかり私は残念に思った。
見込み違いはお互い様か。
会話が途切れ始めたところで消灯し、男の導きで一つのベッドに入る。
男は背中を向けて横になった私を、後ろから羽交い締めに近い形で抱きしめた。
「柔らかい……」
そう言うと男は深く息を吸った。
襟足の毛が何本も吸い込まれていきそうな深い深い呼吸。
なされるがままに私は黙っていた。
「……する?」
とっくの昔に日付が変わってあと数時間後には空を飛んでゆくはずの男が囁く。
「モロッコに飛べなくなるよ」
そう言って首の前で絡む2本の腕を解く。
眠いのかバツが悪いのか、男は深追いすることもなく腕枕の方の腕だけを残し先に眠りの国に落ちてゆく。
言葉も通じない世界の果てを一人で歩くことができるのに、こんな手軽な体温に意味を見出す夜もあるんだね。
私の中の小さな灯りを頼りにされることは、思いのほか悪い気はしなかった。
この感情に巧いタイトルがつけられないかと思考を巡らせたが、何も浮かばぬままにアラーム鳴動2分前となりそっとベッドを抜け出した。
厚かましく響き渡るバイブレーションで男の貴重な睡眠を妨げたくなかったのだ。
財布も臓器も抜き取られていないことを確認すると、玄関に散乱した革靴と木型を踏まないようにぴょこぴょこと跳ねながらドアノブに手を掛ける。
もう二度と訪れることのない夜の扉を何度こうして開けたことだろう。
ソフレなんて都市伝説だと思う。
純粋に添い寝だけを求め、そこで留まることのできる男女がどれだけ存在するのだろうか。
その境目をゆらゆらと揺れていた男と私はモロッコとモロッコヨーグルのように、関係があるようでいて全くの無関係で、これから先もずっと交わることはない。
始発の各駅停車に揺られ、眠りに落ちるその静寂。
大きな登山リュックを背負って遥かモロッコを旅する男。
しかしその姿を想像しようにも、私にはモロッコがどこにあるかもどんな国かもわからないし、なにより既に男の顔すら思い出せずにいるのだ。