一度だったら叶えてくれると思ってた(週報_2018_09_22)
2週間、週末東京を離れていたのでやっと新宿で飲めた。
地方にも繁華街はたくさんあるけれど、私はこの寄せ集めの東京の街が好きだ。
予定通りに一人も知り合いのいない立呑み屋で知らないおじさんにお前は可愛いけど髪の色をなんとかしろよとか言われながら、なんの利害関係もない数時間を楽しんだ。
盛り上がる店を後にする時に引かれる後ろ髪すらない気楽さ。
3軒ハシゴして小雨の中始発を待つ間Tシャツ1枚では寒くて震えが止まらなかった。夏は終わっていたのね。
その数日前には分不相応なお高いものを食べさせていただいた。1つ1つがとても小さくてとても美味しかった。
普段よりずっと少ない量の食事だったはずなのに、ゆっくりゆっくり味わったから満腹になった。
帰り道、腹八分目を超えてパンパンになったお腹を撫でながら、なるほどお金持ちは太らないわけだ、と思った。
書くことをなんとかライフワークとして軌道に乗せたい。
今は脳内のアイデアが100あることより、1つでも多く文章に変えて投稿していくことを訓練したい。
いわゆる勉学の場から離れてだいぶ経つので(そもそも大した教育を受けてたわけではないけど)文法とかそういう部分に不安が残る。
感性でしか生きてない。
自分の文章は何度も何度も読んで、気持ちいいリズムになるまで直す。
それしか推敲の仕方を知らない。
『文章は形容詞から腐る』という言葉を見て耳が痛くなった。
何事も簡潔に語れない。
予定を入れるときに少し先の約束になることが好きだ。何日も約束の日を楽しみにして眠りにつける夜があることに幸せを感じる。
逆に楽しかった約束の日の翌日以降はなんだか身体が重く感じてひどく寂しい。
私はこれをずっと"揺り戻し"と呼んでいる。
"揺り戻し"はしんどい。
ただひたすらに部屋で丸くなってやり過ごす。
会いたいと思っている人に会える回数は見えないだけであらかじめ決まっていて上限があると思っているので、会うたびにまた1つ寿命が減ったような気持ちになる。
会いたいと言うとその人に会える回数のカウンターが一つ減る音が聞こえるので、本当に会いたい人ほど会いたいと言えない。
もしかしたら今日がカウンター0になったその日なのかもしれないと思うと(音は聞こえるけどそのカウンターは決して目には見えない)、次の季節にどんなコートを着るのかと尋ね、その姿をそっと想像して目を細めることしか出来ない。
きっと私にはそれを見届けることは出来ないのだから。
もっともっと粗悪な酒を飲んで正体をなくすくらいにベロベロに酔っ払いたい。
だけど私はお酒が弱い。そんな風になる前に具合が悪くなってしまう。
以前も電車の中で尋常じゃない量の冷たい汗が出てきて車内の床に座り込んでしまったことがある。
都会から終電に揺られ帰る人たちは容赦なく、誰一人みっともない女の酔っ払いなど助けてはくれない。
だけどそれでいい。
酒に責任を押し付けて胸の奥の方にしまい込んだ本当のことを大声で言ってしまいたいなどと甘ったれたことを考えている人間は優しくされるべきじゃない。
私は自ら進んで嘘ばかりついている。
ぬるま湯みたいな嘘の中に住んでいれば何にも傷付かずに済むからね。
寂しいって叫んでみたい。
きっと叫ばないのは、本当に本当に欲しい時に大きな声で叫んだら、一生に一度だったら叶えてもらえるんじゃないかと思っているからだ。
一生のお願いなんて迷信だ。