私を黙らせる方法(週報_2020_06_12)
三月の初週に会ったきり、どちらからともなく、私とあしながおじさんは長い自粛期間に入った。
言葉を交わす機会がなくなったことで、私の中では新人賞に落選した事実どころか、小説を書いて応募したことすら滲んで消えて、なくなってしまったかのようだった。
それはほんの僅かに、ばつの悪い思いをした私にとって都合の良いことであった。
私は書くことに対して、これといった夢も希望もない。
毎度ご馳走を食べさせてくれるあしながおじさんに「クローズドでない場所で書いたほうがいい」と言われたから書いているし、「本を出しなさい」と言われたから出版に繋げる手段として賞に応募した。
言われるがままだ。
それが本当の意味での自由を知らない私に、一番心地が良い。
当然のことながら、世界はそんなに甘いわけがなかった。
ぶつかってみて初めて目の前に障害物が見えた。
あまりに高すぎて上端が見えないものだから、何もないかのように思えていただけで、これ以上はないほどに明確に、壁は存在していた。
力いっぱいぶつかり、のけ反り、倒れ、東西南北を失って。
ぺたりと座り込んだ私は天の声を待っていた。
「ねえ私、まだ書いた方がいいんですか」
*****
ディスプレイ越しに訊ねることができないまま、三ヶ月が過ぎようとしていた。
お手本のようにバカ正直な自粛をし、あっという間に時が経った。
家から出ないこと以外、自粛生活にさほど苦を感じることはなかった。
そうか、もともと私には外に出て、自ら会いに行く相手などいなかったのだ。
人付き合いとはタイミングの連続だ。
この三ヶ月がとどめを刺して、もう二度と会うことのない男女もたくさんいるのだろうな。
私は離れ離れになる非実在男女のことを思っては、毎夜少しだけ泣いた。
そんなことしか考えることがないくらい、要するに、暇だった。
*****
首都圏の宣言が解除され数日経った頃、通り雨にでも降られた程度の気軽さで、あしながおじさんから連絡が入った。
「そろそろ食事でも」
こう告げられたら、私はスケジュール通りに空腹を用意すればよい。
まだ都心は心配だから。
そう言うと数ヶ月前とさほど変わらぬ様子で彼は私を迎えにやってきた。
年末の事故で潰れてしまった車の代わりに、家族共用の軽自動車に乗って。
しいて言えば彼も私も、空白の時間分しっかりと髪が伸びていた。
あしながおじさんに会わないどころか、外の人間とほとんど会話をしていなかった私の話題は中身が何もなかった。
知人グループに人生初のバーベキューに誘われたくらいで、それも昨今の状況を鑑みたら、しばらくは実現不可能だろう。
「アウトドアとか苦手でしょって言われた」
三ヶ月ぶりの寿司を味わいながら私が言うと、
「君、海とか行きたいの?」
とあしながおじさんは問いかけた。
その言葉をどう捉えていいのか迷った私は、嫌いじゃない、行ってみたことがない、興味はある、と前向きな単語を並べてみたが、彼はただ文字通り「海に行きたいかどうか」を訊ねただけで、さして深い意味はなく会話はそこで尻切れになった。
そうだった、この人はそういう人だった。
三ヶ月もの間に、彼が裏をかいたり駆け引きしたりするような性格ではないこと、思いつきを思いつくがままに投げかけるだけの性格だったことを、私はすっかり忘れてしまっていた。
きっともう、私に小説を書けと言ったことも忘れてしまっているんだろう。
二杯目のお茶を注ぎながら、私は心の中で「海なんか嫌いだし」と小さく唱えた。
「絶対、絶対、行きたくないし」と。
自粛期間中にひとつ歳を重ねたあしながおじさんに、欲しいものを訊ねたが、色よい返事を得ることができなかった。
そうなるであろうことはわかっていた。
彼の方がずっと経済力があり、ずっと博識で。
彼の欲するものの中に、私に手が届くものなどないことを。
プレゼントは気持ちだから、というけれど。
欲しくもないものを押し付けて、それが形あるもので、この先もずっと「私の気持ち」として彼の手元に存在し続けるとしたら気味が悪い。
結局私はその日の食事の会計を持たせてもらった。
彼は充分にお礼を言ってくれたけれど、面子を潰してしまったせいなのか、なんだか少し居心地が悪そうに見えた。
何より、半分は私が食べた分なのにこれが贈り物だなんてやっぱり変だった。
だったら誰かもっとあしながおじさんに見合う、聡明な女性との食事代をプレゼントした方がまだマシだ、どのみち変だと言われるのならば。
そんなくだらない自問自答を繰り返しているうちに、彼の家の車は年末の事故現場を通り過ぎ、いつものラブホテルに向かっていた。
「欲しいものねぇ……」
しばらく考え込んだ彼は、ああ!と小さく感嘆の声をあげると、にこやかに
「家!」
と言った。
なんでも横浜だか横須賀だかの方に魅力的な価格の空き家が出て、どうにか手直しして住むことを考えていたらしい。
応募多数になり見送ったものの、いつかは自宅のある街を出たいのだ、とあしながおじさんは声を弾ませて言った。
私は助手席で一部始終を、驚くほど曖昧な顔でただ聞いていた。
「詮索をしない」
「連絡をしない」
「家が近い」
「言われるがまま」
都合のよさの四本脚で、彼の手のひらの上、なんとか均衡を保っていた私という不格好な存在。
その支えが一本抜けてしまったら。
バランスを崩した私は、五指の関節の隙間から、いとも簡単にこぼれ落ちてしまうだろう。
*****
その夜、いずれ遠くに行く人と何度か身体を重ねた。
夜風に揺れていたはずのカーテンが閉まっていて、いつの間に、それも比較的長いこと眠り込んでいたことに気が付いた。
「……ねえ、寝てる?」
何度も確認するたび、もう少し、と言ったり、寝息に近いうなり声だけ聞こえてきたり、うんともすんとも言わなかったり、私は大切なことを伝える機会を計りかねていた。
この先、時勢に阻まれ生き別れになる男女のうちに私も含まれているとするならば、私は彼にきちんと感謝を伝えておかなければならないのだ。
昨年の三月、私の母が病に倒れ、予期せぬ負債と苦悩を抱え込んだ私に、すぐ会いに来てくれたのは、後にも先にも彼だけだった。
彼にとって私は出会い系で知り合った名も知らぬ女だというのに、その立場に余るほどの心配と気遣いを寄せてくれた。
会えなくなった三ヶ月間、そんな彼にありがとうも言えず離れ離れになることもまた、私の睫毛を湿らせたのだ。
それなのにいざとなったら、私はありがとうの「あ」の字も吐き出すことができなかった。
さっきまであんなにくだらない話ばかりしていたのに。
返答など求めないのなら、容易に伝えられると思っていたのに。
あしながおじさんの癖のある伸びた襟足を利き手と逆の指で解きながら、私は小さなあくびをした。
*****
翌朝、お気に入りのパン屋で遅い朝食をとる予定だった私たちは「イートインスペース休止のおしらせ」を前に、佇んでいた。
店から続々と山吹色のショッパーを提げたお客さんが出てくるのを見て「テイクアウトはできるみたいだね」と囁く。
「買って帰って、お互いおうちで食べるしかないね」
私は私に言い聞かせるように、そう呟いた。
あしながおじさんは「それはさみしいね」と言ったものの、列を離れることなく、店指定の印に沿って等間隔で並び続けたので、私もそれに従った。
トレイ二つ分のパンの会計は私が無理矢理に支払ったが、昨日同様、むしろ昨日より確実に彼は嬉しそうにはしてくれなかった。
「家が近い」の支柱を欠く前に「金がかからない」のつっかえ棒を差し込みたかった私の目論見は脆く崩れてしまう。
私はこの店で朝食を食べるあしながおじさんを見たかった。
次々と焼けるパンを、顔を綻ばせながら覗きに行く姿を見たかった。
肩を落としたまま車に乗り込んだ私に、彼は言った。
「このあたりに公園はないの?」
*****
夜から朝まで、不健全な場所で絡まり合っていた私たちが、緑あふれる自然公園に降り立ったのは不思議な感覚だった。
私が指定した大きな公園は、園内に大きな勾配があり、ベンチのある広場に出るためには車を停めたのち、長い長い坂を下りていかなければならなかった。
ようやく辿り着いた広場は、犬の散歩をする老夫婦、再会を喜ぶ高齢女性の小集団、未就学児を含む親子連れでささやかな賑わいを見せていた。
そのうちあまり日当たりの良すぎないテーブルで、私たちは遅い朝食をとった。
長いこと歩いたのも相まって、前回会ったときにはまだお互いにコートを着ていたのが嘘のような、高く湿った体温を感じていた。
芝生補修のためオレンジ色のガードで囲われた木々の先に、何も知らないアゲハチョウが舞っている。
持ち帰りのパンを食べている間も、私は忙しなく無駄なおしゃべりをし続けた。
私の話題と、彼の心ここにない相槌がついに途切れ、私たちは広場をあとにした。
園内図を見ながらしばらく顎ひげを撫でていたあしながおじさんは「この『急な階段』から帰ってみよう」と来た道とは違う順路を進み始めた。
急な階段、なんて注意喚起されたそのルートは、地図上では確かに往路よりもずっと短く見える。
問題は、今日に限って履いてきてしまった厚底、ヒールの高いマニッシュシューズだ。
天然の木材の凹凸に一喜一憂しながら長い階段を上る姿を、向かいからやってきた老人が笑いながらすれ違っていく。
私の額にはじんわりと汗が浮かんでいて、今朝方、懸命にコテで伸ばした前髪は大きくうねっているだろう。
「ねえ私、まだ書いた方がいいんですかね」
大きくて、薄くも厚くもない不思議な背中に問いかけようとしたが、あしながおじさんの見た目以上に柔らかいその髪が、二年前の五月に初めて会ったときと同じくらいの長さであることに気付いてしまい、何も言い出すことができなかった。
その場その場、思ったことを言っているだけの正直な男というだけで、もう私に本を出せと言ったことすら忘れているのかもしれない。
ゼエゼエと呼吸の荒い私は、彼からだいぶ遅れ、十段以上先、目の高さよりも上にある軽やかな長い足を見届けていた。
いっそ置いていってくれたらいいのに。
それなのにあしながおじさんはこちらを振り向くと、ふてくされている私の革のバッグをひょいと受け取った。
女の一泊分の支度が詰まった鞄は重い。
そんな重たい荷物から解放された私は、頑張れば彼に追いついてしまう。
時折立ち止まり速度を合わせる彼に、息も絶え絶え私は言った。
「私…… 急に……静かに…なった……でしょ……
黙らせるには……ちょうど……いいでしょ……」
周囲の景色を見渡すと、あしながおじさんは眼鏡の奥でふっと笑い、再び急な階段を上り始めた。
出会ってから三度目の夏がくる。
目的地は、まだ見えない。