なにをもって「完了」とすべきか
起きがけに、ふとスマートフォンに目をやると、こんな文言が目に入った。
「米軍、アフガン撤収完了 国際テロのリスク消えず」
得も言われぬ、なんとも奇妙な幕引きであった。そりゃあ、「なんとかのリスク」とやらは消えないと思う。20年もの間、どこぞの“正義”を押し付け、無名の英雄たちの命を犠牲にしてきたにも拘わらず、終いには、「完了した」と。なにが得られたのだろうか。なにをやりたかったのだろうか。途中で、「ああ。もうダメだな」と思える瞬間は、なかったのだろうか。“英断”は、なかったのだろうか。
今も、この瞬間、誰かのために戦っている人がいる。米国のためなのかもしれないし、アフガニスタンのためかもしれない。もしかしたら、タリバンなり、その他のいわゆる“テロ組織”のためかもしれない。それぞれに“正義”がある。《対立》があるから。
闘争の狭間に生きる人々がいながら、「完了した」と。まだ、終わっていないだろうに。むしろ、《これから》なんじゃなかろうか。メディアでは、「どこぞの大国が、新たに同地域の支配力・権益を得た」というが、そんなのは、表層的な一部の“おいしさ”でしかない。
根源的には、古くから同地域のポテンシャルを見抜き、争いを誘発し、《カオス》であることから富を生み出すことに長けた人種がいる。彼らの牙城を崩すことはできないし、“大国”側も十分に、そのことは理解している。前者は、「もう、アメリカから、うまい“ダシ”はとれない」という判断をし、後者は、「ようやっと、自分たちの“番”が回ってきた」と。それだけのハナシでなかろうか。
なにをもって、「完了した」と言えたのだろうか。