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【若干映画レビュー】第1回『AMADEUS』
学生時代に少し映像についてかじる機会があったものの、あまり映画を観ていなかったことに負い目を感じていた数年前までの自分がおりまして。
最近は映画好きの友人とAmazonのおかげで映画を観る機会が増えため、鑑賞してどのようなことを感じたかを言語化してみようと思った次第です。
これは、言語化することで自分の感覚を少し客観視することができる気がするのと、単純に感想を共有できたら嬉しいなの気持ちに由来します。
独断と偏見はもちろん、過去に観たことのある別の作品について触れることもありますので、その辺りに気をつけつつそっとのぞいていただけたら幸いです。
初回にあたる今回は、前述した映画好きの友人が薦めてくれた名作映画『アマデウス』についてお話ししていこうと思います。
公開年は1984年……およそ40年前の映画です。
アマプラでもレンタルなしディレクターズカット版で買い切りオンリー(※2025年2月現在)の作品でした。
それでもこうやってインスタントに自宅で観られるのすげえ、サブスク万歳だよ本当に!
個人的な評価
ストーリー:★★★★★
映像の美しさ:★★★★★
キャラクターの魅力:★★★★★
後味の良さ:★★★★★
おすすめ度:★★★★☆
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【総評】
「いきなりほぼ満点かよ?!」というスタートですが、こんなんしゃあないよ。音楽・美術・演技のどこを観ても隙がない。
アントニオ・サリエリの視点で描いたかの楽聖ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、下品で幼稚で軽薄な人柄でありながら音楽の才はまさに神の愛し仔と呼ぶにふさわしい。
彼の生み出す音楽に耳や脳は満たされるも、サリエリの心は嵐のような嫉妬に心は苛まれる。
一人の天才の存在で掻き乱される思想や人生を、荘厳な劇伴と共に描く傑作です。
おすすめ度で星を一つ欠いたのは、2時間半を超える長尺であることただ一つ。
(私はディレクターズカット版を鑑賞したので丸3時間画面の前におりました。お手洗いはしっかり済ませ、水分は控えめにするといいと思う。)
あらすじ
1984年度アカデミー賞8部門(作品・監督・主演男優賞他)を獲得。
凍てつくウィーンの街で自殺を図り精神病院に運ばれた老人。
彼は自らをアントニオ・サリエリと呼び、皇帝ヨゼフ二世に仕えた宮廷音楽家であると語る。
やがて彼の人生のすべてを変えてしまった一人の天才の生涯をとつとつと語り始める・・・。
若くして世を去った天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの謎の生涯を、サリエリとの対決を通して描いた話題作。
公式サイトに掲載されていたあらすじはこちら。
早速余談ですが、本作はアカデミー賞にてサリエリ役とモーツァルト役が共に主演男優賞にノミネートされたという珍事があり、最終的にはサリエリ役のF・マーリー・エイブラハム氏が受賞という運びでしたが、受賞コメントで「トム・ハルスがここにいないことが惜しい(意訳)」といった言葉を発していたそうで。
そう言いたくなるのも納得しかないほど、トム・ハルス氏の演ずるモーツァルトはオム・ファタールとして完成されていたもの。
※以下、本編のネタバレを含みますので閲覧時お気をつけください!※
※ここからネタバレ※
さて、内容についてはさらっと公式が上手にまとめてくれていたので、ここからはもう少し突っ込んだ感想に移ります。
目次が付くのでなるべく見出しで致命的なネタバレをしないよう気をつけながら書きますが、歴史ものとはいえ非常によく煮詰まり完成された作品に水は差したくないため「いやここ危ねえよ?!」というところがあったらお手数ですがご指摘願えますと幸いです。
サリエリという秀才の一生
冒頭、癲狂院さながらの施設を訪れた神父が懺悔なさいと老人サリエリへ語り掛けるところから、物語の結びは始まっている。
アントニオ・サリエリの父親は音楽に理解を示さない凡夫であり、当然音楽の英才教育を受けるわけもなかった彼は自身の努力と情熱と信仰によってオーストリアの宮廷音楽家に座す。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの名は世にすでに神童として広まっていたため、そんな人間と比較すればサリエリにとって自身はさぞかし凡才にも映ろうものだけれど、「お前もとんでもねえ傑物だな?!」という存在。
努力値頑張って振ったって神聖ローマ帝国皇帝お抱えの宮廷音楽家なんてそうそう就けるポストじゃないし、彼はヴェートーベンやリストの師だったというエピソードから人に教える才能が買われたのだろうかとほんにゃり考えています。
己の音楽を愛してくれる人間に侍る暮らしに満足していたある日、かのモーツァルトの演奏会に立ち会うこととなり、楽聖の姿を識ることとなる。
女を追いかけ回し下品な言葉で淫らな遊びに耽り、時間になっても現れないモーツァルトを置いて演奏が始まってしまったあとにようやく楽団のもとへ駆けつけて指揮を担うといった体たらく。
慎ましく勤勉に生き、神の寵愛を待ち望むサリエリにとってなんとも腹立たしいことこの上ない存在である描写、完璧。
モーツァルトの無邪気すぎる軽薄な笑い声や態度が、神経を逆なでする。
しかしどんなに不出来な人間性でありながら、紡ぐ音楽はとろけるような至上へとサリエリを誘う。
(このときの役者さんの恍惚と、かつ感涙に咽びそうな表情がすべてを物語ってくれるの本当に素晴らしい。)
この出会いは嫉妬という罪の業火でサリエリを晩年まで苛み、またモーツァルトの人生にも晩年の試練と一滴の甘露をもたらすこととなる。
天の使いを示すアマデウスの名を持つ男は、本作において正しくオム・ファタールであり、その御使いにより人生を狂わす嵐が起こった。
モーツァルトというオム・ファタール
少し脱線しますが、私の使う『オム・ファタール』という語句の解説を先に書き記しておきます。
(こうしたふんわりした概念的な言葉の解釈は、かなり人によりばらつきが出るものと感じるためです。)
Wikipediaの『ファム・ファタール』の項を以下に引用します。
単なる「運命の相手」であったり、単なる「悪女」であるだけではファム・ファタールと呼ばれることはなく、それらを満たしながら「男を破滅させる魔性性」のある女性を指す。多くの場合、彼女たちに男性を破滅させようとする意図などはなく、複数人との恋愛をしたりお金を際限なく使ったりする自由奔放な生き方により、男性が振り回されることになる。
多くの場合、妖艶かつ魅惑的な容姿や性格をしており、色仕掛けや性行為などを駆使して、男を意のままに操る手腕に長けている。
『新約聖書』「福音書」などに伝わるサロメは、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めたとするパロディーにより作為的に作られた代表的な悪女である。古来キリスト教世界から名が知られ、19世紀末から20世紀初め頃の世紀末芸術において好んで取り上げられたモチーフである。
なお、上記のような属性の男性を表す場合は、オム・ファタール(仏: Homme fatal)(或いはオム・ファタル)と呼ばれる。
意訳・抜粋するなら、「魔性により関わった人間を狂わせる」存在ということになるでしょう。
そして、これにより狂うのは他人の人生のみならず、それを持つ自分自身の運命もまた狂うと私は解釈しています。
なぜなら、その魔性と誰より関わりが深いのは持っている本人だからです。
『アマデウス』という作品においては、サリエリの人生はもちろんモーツァルトもまた天からの贈り物である「音楽の才」という魔性に翻弄されており、その様を痛烈なまでに描いています。
モーツァルトの傑出した才は幼い頃に花開き、音楽家としての人生は明るいものと、かつてのサリエリは羨ましく(恨めしく)思っていた。
しかし、その栄華を極めんとする気鋭の作曲家は、もてはやされる一方で集客には繋がらない……つまり金にならないことも少なくなかった。
これはサリエリの根回しにより公演が早々に打ち切られる機会があったことも事実だろうけれど、自身の持つ天賦の力に絶対の自信を持ち、仕事を選り好みしながら湯水のごとく散財する放蕩ぶりが招いたところも大きいだろう。
実際、借金を返さないとの悪評が立つのは、借金をせざるを得ない遠因の一端を担いはしてもサリエリのせいではない。
すっかりウィーンにおいて鼻つまみ者になってしまった彼は、金のため死神からのレクイエム作曲の依頼や大衆オペラの仕事を引き受けるも、妻であるコンスタンツェはそれまでに募った憤りを露わにし、主人に黙って保養のため息子を連れ突然家を空けてしまう。
(もっとも、彼女が最も遺憾だったのは怯え苦しみながらレクイエムの作曲依頼に取り憑かれた彼の心に寄り添えないことであり、その愛はとても深いものです。悪妻とする説もありますが、本作での彼女は良妻といって差し支えないように見えます。)
彼女が虫の報せを覚え保養から戻ると、憔悴しながらもサリエリとともにレクイエムに取りかかっていた形跡が窺え、慌てて楽譜を取り上げて鍵をかけ手離させるも、モーツァルトはそこで事切れてしまう。
サリエリとのセッションのような一晩を過ごしたのちに死するのは、本当に彼が死神となったようで非常に印象深いシーンだと感じる。
才能溢るるオム・ファタールの生涯が閉じられたとき、彼は孤独でこそなかったが、サリエリが思い描くように棺を数多の市民が囲むような華々しいものとはかけ離れていた。
何しろ、彼の人間性と音楽を切り離し、ただの一度も手離さず愛しきった人物は、その才で運命を狂わせたサリエリただ一人だったのだから。
秘めやかな理解者としてのサリエリ
映画の終盤にて、「僕はずっとあなたに嫌われていると思っていた」とモーツァルトが心情を吐露するシーンがある。
病に倒れ顔色の優れない彼に寄り添う家族はなく、そこにいるのは赤の他人であるサリエリ。
ともに音楽家でありながら、切磋琢磨し合う仲ではなかった。
さりとて、モーツァルトのオペラとあらば貴族に向けたものであろうが大衆オペラであろうがすべての楽曲を聞き、そのたび深く感銘を受け苦い思いをし続けた男だ。
作中、『一生節ごとに私は敗北の苦さを噛み締めた。』と、フィガロの結婚の公演の折に心中を語るサリエリのセリフがある。
彼がこのように才への嫉妬を燃やすそばで、ヨーゼフ二世があくびをひとつする。
このとき、物語の走りで語られていた「皇帝には音楽の才能はない」という言葉が瞬時に脳を駆け抜けた。
その後別の楽曲でも、「この場でただ一人自分だけがこの曲を理解した」ともサリエリは述べる。
楽譜を見てハーモニーに浸るたび甘美な響きに酔いしれる彼は、観客の目線でモーツァルトの真の理解者だ。
そして、モーツァルト以外の存在はサリエリにとって徹底して有象無象なのだ。
まるでこの世界における音楽家は、このふたりしか存在しないかのごとく。
それほどまでに、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの楽曲へすさまじい熱を上げる人物。
それが本作におけるアントニオ・サリエリだった。
そりゃ揃って主演男優賞ノミネートだよ……
急に凡庸な表現に着地しますが、あまりにもモーツァルトとサリエリの織り成す調和(意訳)が濃密で、かつ、残酷なまでの才能を誰が見ても明らかなように映像・脚本・役者たちの演技で描き出した結晶である本作。
サリエリもモーツァルトも、いずれも甲乙つけがたいほどに「天より与えられしもの」です。
そして、「これは意図があるのだろう」と思うのですが、この映画のタイトルロゴである『AMADEUS』の文字。
頭の文字とお尻の文字の大きいところ、サリエリのイニシャル。
モーツァルトとサリエリはどちらも主演であるとタイトルロゴも言うてる。
すみません、これはオタク特有の深読みでしかないかもしれません。
(ロゴまで調べていないのですが、ご存知の方は教えてくださると嬉しいです!)
やや妄言な結びになってしまい恐縮ですが、主演男優賞ノミネートの二人の演技はもちろん、冒頭で申しました通り音楽・美術・演技のどこをとっても傑物です。
劇伴が劇場で聞ける機会があったら素晴らしかろうなあ……!
以上、初回の若干映画レビュー『AMADEUS』の感想でした。
また書き残したい作品や、オススメしていただいた作品があれば書いてみますね。
2025.02.22 満ちる
X(Twitter):@michiru_mizu