【無料公開】『地獄くらやみ花もなき』第一怪 青坊主・5
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はっと気がつくと、見慣れた通りに立っていた。
自宅マンションから徒歩十分ほどの細道だ。いつの間にか帰路についていたらしい。けれど一体どうやって屋敷を出たのか、沙月は思い出すことができなかった。
ひょっとすると、すべて夢だったのだろうか。緑のトンネルの先にそびえる洋館も、死に装束めいた和装の少年もまた、何もかも悪い夢だったのかもしれない。
けれど、黒い靄のような胸騒ぎが心にまとわりついて離れなかった。今にも取り返しのつかない何かが起ころうとしているように。
「ああ、嫌だ嫌だ」
思わず呟いてしまって、はっと唇を噛む。
――ああ、嫌だ嫌だ。
この言葉こそが、沙月の母の口癖だった。不平、不満、愚痴の塊のような人で、たとえ何をしていようと、気がつけば「ああ、嫌だ嫌だ」と呟いている。そして〈お隣がヨーロッパ旅行をした〉〈親戚がキッチンをリフォームした〉と、どこからか聞きつけてきては「それに比べてうちは」と、深い深い溜息を吐くのだ。
「ああ、嫌だ嫌だ。どうして私はこんなにも不幸なんだろう」
そんな母を喜ばせたくて、小学五年生になった沙月は、母の日のプレゼントに一万円もするエプロンを贈った。貯めていたお年玉を財布に詰め、苦労してバスを乗り継いで遠くのデパートまで買いに出かけたのだ。
喜んでもらえると思っていた。
笑ってもらえると信じていた。
幸せよ、と笑ってもらえるはずだと。
けれど。
「嫌だわ、エプロンなんて。これ以上、私に家事を頑張れって言うの?」
そう言って母は深い深い溜息を吐いた。
「ああ、嫌だ。お隣はカーネーションの花束をもらったって言うのに」
それを聞いた途端、心の中で何かが爆発するのを沙月は感じた。
「お母さんなんて死んじゃえばいいのに!」
そして、その日を境に沙月の中から母の存在はいなくなったのだ。
塾に行きたいと父に掛け合うと、あっさり塾代と外食費を出してくれた。昔から家に寄りつかない父は、あの母と娘を二人きりにさせている負い目があったのだろう。
同塾の友だちが多かったので、淋しさを感じることはなかった。夜は午後十時までファミレスで過ごし、朝にはテーブルに並んだ朝食を無視して家を出る、その繰り返しだ。
もはや「ただいま」と「おかえり」の声もない。家にあったのは「ああ、嫌だ嫌だ」と繰り返す母の呟きと、氷よりも冷たい沙月の沈黙だけだ。
思えば、あの頃から母はおかしくなっていったのだ。やがて近所中から避けられ、親戚からも疎遠にされた母は、日がな一日虚ろな目でテレビを見ているようになった。
そして、ある日の朝のこと。いつも通り台所を素通りしようとした沙月は、テレビに向かって呟く母の独り言に足を止めた。
「ああ、嫌だ嫌だ。どうして私はひとりぼっちなんだろう」
次の瞬間、自然と唇から声がこぼれていた。
「嫌なら死ねば?」
それこそ、沙月がずっと言いたかった言葉だった。
そんなに嫌なら、死んじゃえばいいのに。
直後、ぐるりと振り向いた母の顔に、沙月はぎょっと息を呑んだ。久しぶりに向き合った母は、まるで何日も食べていないように骨と皮ばかりになっていたのだ。
「じゃあ、一緒に首を吊ってくれる?」
その言葉を無視して、沙月は家を飛び出した。
そして塾を終えて帰宅すると、暗くなったままの台所に、ぼんやりと佇む母の姿があった。電気をつけた直後、床に立っているとばかり思ったその姿が、天井から一本のロープで吊り下げられていることに気がついた。
テーブルの上には、ラップのかかった料理が並び、そこにスーパーのチラシが一枚のせられている。殴り書きの文字で、沙月に宛てたメッセージがあった。
あなたもいつかこうなるよ
救急車を呼ぶよりも先に、ビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。
本当は通報すらしたくなかった。このまま死体を無視して家を飛び出してしまいたい。もしもまだ息があるのなら、この手で絞め殺してやったのに。
それから二年後。
沙月の口から母の最期を聞いた淳矢は、どこか困ったような顔で頷くと、
「沙月が、そうやって怖がる気持ちもわかる気がする」
「怖い? 怒る、とか、憎む、とかの間違いじゃなくて?」
「たぶん全部間違いじゃないんじゃないかな。俺も怒っているし、憎んでるし、怖がってるよ。存在そのものを頭から締め出さないと、いつか親と同じになる気がして」
そう言った淳矢もまた、親に恵まれずに育った子供だった。
背中に火傷の痕があるのは、幼い彼の〈悪さ〉に腹を立てた父親が、熱いアイロンを押し当てたからだと言っていたから。
「けれど、いつかそうやって親の記憶すべてを忘れることができたら、俺にとって沙月が初めての家族になるんだね」
そう言って屈託なく笑った淳矢の顔は、あどけない子供のようにも見えた。
(馬鹿な淳矢、お人好しの淳矢)
このまま一緒に幸せになれると思っていたのに。
「実は、内定を辞退して院に進学したいと思ってるんだ」
そう真剣な顔で淳矢に切り出されたのは、大学四年生の春だった。
優秀なゼミ生が、指導教員の説得に応じて院に進学するのは、割とよくあるパターンだろう。けれど淳矢の場合、壮年の教授に父親の姿を重ねているように感じられた。相手に必要とされることに酔ってしまっているような。
「だから沙月との結婚の約束を、もう少し待ってもらえないかな?」
けれど、沙月は首を横に振ることができなかった。
「わかった。応援する」
「ありがとう。沙月ならそう言ってくれると思ってたよ」
――ああ、嫌だ嫌だ。
そう呟く母の声が、どこからか聞こえた気がした。このまままだと不幸になるよ、と囁きかけるように。
そして。
「あのね、沙月さん。お見合いって興味ある?」
人気クッキングスクールで講師に声をかけられたのは、ちょうどその頃だった。
「甥っ子にね、大手のデザイン事務所に勤めてる子がいるんだけど、よかったらあなたを紹介できないかと思って。ほら、この子なんだけど」
差し出された写真の中では、いずれ夫となる凌介が弾けるように笑っていた。成功者として生きることへの自信に溢れ、不幸など一生関わり合いがないと言わんばかりに。
「叔母バカだけど、なかなかのイケメンでしょ? 年収だって悪くないのよ。まだ若いのにアートディレクターって肩書きだし、有名な広告デザインも手がけてて、ほら最近、テレビCMでもやってるのよ」
講師の口ずさんだCMソングは、沙月でも知っている大企業のものだった。人気料理研究家兼クッキングスクール講師である彼女の実家が、由緒正しい資産家であることも知っている。おそらく甥である彼が、その一員であることも。
「あら、ごめんなさい。私ったら肝心なことを聞きそびれてしまって。沙月さんは、今お付き合いしている方はいらっしゃるの?」
「いいえ、いません」
そう答えたことに後悔はなかった。
けれど、このまま淳矢と別れれば、相手の肩書きや年収に目が眩んで心変わりする女だと勘違いされてしまう。捨てられた淳矢に同情が集まれば、やがては沙月の悪評に繋がり、巡り巡って新たな婚約者となる凌介の耳に入る可能性もあった。
だから。
淳矢にDVの罪を着せたのは、仕方のないことだったのだと思っている。
案の定、沙月の裏切りを知ってなお、淳矢が彼女を責めることは一度もなかった。それどころか、ありもしないDV被害を訴える沙月に、周りが疑いの目を向ける中、他でもない淳矢ただ一人だけが沙月をかばい続けたのだ。
沙月はそんな奴じゃない。何か理由があるはずなんだ、と。
(そんなわけ、ないのにね)
そもそも沙月が淳矢に近づいた理由は、打算以外の何物でもないのだから。母親の死について打ち明けたのも、そうすれば共感と同情を買うことができると踏んだからだ。
誰もが羨む恋人としての容姿と将来性。この二つを兼ね備えた存在が淳矢しかいなかったというだけの話なのだ。そう、これまでは。
(馬鹿な淳矢、お人好しの淳矢、可哀想な淳矢)
周囲の目がどんどん疑惑に染まっていく中で、淳矢は何度も沙月のアパートを訪ねて話し合いをしようとした。
だから沙月は言ったのだ。
「私は、あなたの家族になんて、本当はなりたくなかったから」
どんな言葉が、淳矢を決定的に打ちのめすか知っていたから。
そして。
「そんなにあの親から生まれたのが嫌なら、首でもくくって死んじゃえばいいのに」
沙月のその一言は、確かに淳矢を不幸にしたのだ。
それきり淳矢は、沙月と顔を合わせないままゼミを辞め、噂では実家でヒキコモリ同然の生活を送っていると聞く。
だから、この先もう二度と会うことはないと、そう思っていたのに。
「なあ、一緒に首を吊らないか?」
――四ヶ月前。
同窓会の帰り道で、嫌がらせメールの差出人として沙月の前に現れた淳矢に、かつての面影はどこにもなかった。薄汚れたジャンパーには点々とフケが散らばり、のびるに任せた髪の下から覗く目には、凄まじい隈ができている。
まるで不幸そのものだ。
そう思った沙月は、胸にわき上がる苛立ちと嫌悪から、黙って淳矢に背を向けた。今の彼には、言葉をかける価値すらないと思ったのだ。あの日、首をくくった母と同じように。
その時、首筋に刺すような痛みが走り、スタンガンを押し当てられたのだと気づいた直後には、気絶させられて廃墟に運びこまれていた。そして目を覚ました沙月の前には、淳矢の首吊り死体があった。悲鳴を上げて廃墟を飛び出した沙月は、逃げるようにマンションへと帰宅して――そして、それきりだ。
淳矢は遺書を残さなかったようだ。彼の死は、人生に挫折した元エリートの自殺として世間に受け入れられ、ろくに葬式もあげられないまま忘れられた。ありもしないDVをでっちあげた沙月の罪も、誰にも知られないままで。
何もかも終わったのだ。これでもう彼女を脅かすものは何もない。そのはずなのに。
(妊娠、していたなんて)
日に日に膨れ上がる下腹部と共に、彼女の胸のざわめきもまた存在感を増していった。
もしも淳矢が気絶している沙月に対して乱暴を働いていたとしたら。
心中相手として沙月を連れ去っておきながら、土壇場で道連れにすることを止めた理由が、彼女が淳矢の子を妊娠する可能性に賭けたからだとしたら――。
今、彼女の中で育っている赤ん坊は、取り返しのつかない不幸の種になってしまうのではないだろうか。
(ああ、嫌だ、嫌だ)
さらに夫である凌介の態度が、彼女の不安に拍車をかけた。もしかすると彼は、お腹の中にいる赤ん坊が自分の子ではないと本能的に察して、邪険な態度をとっているのではないだろうか。
(そんなわけないのに)
幾ら自分自身に否定してみせたところで、現に夫は沙月の存在を避け続けている。かつて彼女の父が母にしたのとそっくり同じ、忌々しげな顔つきをして。
――ああ、嫌だ嫌だ、どうして私はひとりぼっちなんだろう。
脳裏に浮かんだその声を、沙月はきつく頭を振って払い落とした。
(頑張らなくちゃ、もっともっと)
誰よりも幸せにならなければいけないのに。
もしも不幸になれば、最期に母が残したあの言葉通り、首をくくってしまうから。
(ああ、そうか)
気づいてしまった。沙月に取り憑いている囁き声の正体は、〈あなたもいつかこうなるよ〉と書かれた、あのたった一枚の紙切れだったのだ。
「あら、沙月さん!」
突然、背後からかけられた声に、沙月はつんのめるように足を止めた。
振り向くと、かつて沙月と凌介の仲を取り持ってくれた講師の姿がある。自称・叔母バカの彼女は、甥っ子の妻となった沙月のことも可愛がってくれ、折りを見てランチやショッピングに連れ出してくれた。
恵まれている、と思う。
けれど、もしも沙月たち夫婦の仲に亀裂が入れば、彼女は間違いなく甥である凌介の肩を持つだろう。だからこそ近頃は顔を合わせたくない相手だった。特に今この時は。
「ちょうどよかった! 近くまで来たから寄ってみたのよ。ほら、この頃、あんまり顔を見せてくれないでしょ。元気にしてるかなーって思って」
「すみません。最近、夫の仕事が立てこんでいて」
「いいのよー。亭主元気で留守がいいって言うけど、一人きりで家を回すのも大変だもの。ね、これから一緒に食事でもどう? 駅前にオープンしたてのカフェがあるのよ」
あのカフェだ、と沙月は思った。
そういえば、もともとそのためにマンションを出て来たのだ。それにエネルギッシュで大らかな彼女といると、次第に気持ちが軽くなるのを感じる。
よし、このまま二人一緒にカフェに行こう。
久しぶりに胸が弾むのを感じた、次の瞬間だった。
「すみません、ちょっと首を吊る約束がありますので」
沙月の口から飛び出したのは、信じられない一言だった。
――今、なんて言った?
「あ、あの、すみません。用事を思い出したので失礼します」
ぽかんとする講師にそそくさと頭を下げて、沙月は逃げるようにその場を後にした。
(首を吊るって――私が?)
そんな馬鹿な、と思うのに、体の奥にはざわざわと膨れ上がる予感がある。はちきれそうになった不安と焦燥は、今にもパンと音を立てて破裂してしまいそうだ。
助けて、と誰彼かまわず叫び出したい。
小さな子供のように地団太を踏んで、私は不幸だと泣きわめきたい。
そんなことができる相手は、淳矢しかいなかったのに。
(マンションは駄目、一人になるから。誰か人のいるところに行かなくちゃ)
どこへ行けばいいのかわからないまま、闇雲に足を進める。どうやら公園に向かっているようだ。どこか他人事のように考えたその時、ぶらん、と彼女の視界に二本の足が垂れ下がった。まるで〈ここでおしまい〉と通せんぼをするように。
(そういえば)
脳裏に浮かんだ母の死体は、沙月が子供の頃に贈ったあのエプロンをつけていた。そして、台所のテーブルの上にはラップのかかった二人分の食事があったのだ。
もしかすると母が骨と皮になるほど痩せていた理由は、もう一度沙月と一緒に食事をとれる日を待ち続けていたせいなのかもしれない。
「お母さん」
ほとんど無意識に口の中で呟いた、その直後。
ざわざわと体の中で蠢いていた何かが、ぎゅっと下腹部に集まって、どろりとした熱の塊となって股の間から流れ出したのがわかった。
――ああ、生まれてしまった。
そう心の中で呟いたのを最後に、ふつりと沙月の意識は途切れた。
◆
ああん、ああん。
暗闇の向こうから泣き声が聞こえる。
小さな子供の声?
いや、違う。赤ん坊だ。
辛くて、苦しくて、悲しくて――淋しくて。
泣かずにはいられないと訴えるように。
助けて、助けて、と誰彼かまわず叫び続けている。
こんなにも私は不幸だ、と。
ああ、早く。
抱きしめなければ。
黙らせなければ。
止めさせなければ。
私以外の誰にも気づかれてしまわないように。
お前は不幸だ、と誰かに言われてしまう前に。
早く首を絞めなければ。
ああん。ああん。
瞼を開けると、そこは冷たいタイルの敷かれた公衆トイレで、今の今まで気絶して倒れていたらしい沙月の傍らには、大きな声で泣きわめく赤ん坊の姿があった。
「泣き止んで」
這いずるように近づいて、その首に手をかける。
途端、ぐにゃりと粘土のように歪んだ頭部が、ひどく見覚えのある顔に変わった。
(お母さん?)
思わず呼びかけようとして、その直後に気づく。
ああ、違う。この顔は――。
〈嫌なら死ねば?〉
そう囁いた赤ん坊は、世にも厭らしい顔で笑った。それが沙月自身だと気づいた瞬間、彼女の手は赤ん坊の喉を絞め上げていた。
こきん、と音を立てて小枝を手折るような感触が伝わってくる。
ああ、なんて呆気ない。
ずっとずっと私は私をこうしたかったのに。
(幸せにならなくちゃ)
誰よりも幸せに。
そうしなければ、私は私を赦すことができないから。
なのに。
何をすればいいのか、不意にわからなくなってしまった。
ああ、どうしよう。
早く早く、幸せにならなくちゃいけないのに。
何をすればいいんだっけ?
ああ、そうだ、思い出した。
――首をくくらなくちゃ。
そして沙月は、肩にかけていたショルダーバッグの紐を換気用の窓にかけると、その端を喉に巻きつけて首をくくった。
……こきん。
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