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上位6人が全てを決める100人の村

結構前に「世界を100人の村にしてみる」という趣向の書籍が流行ったのを思い出した。各分野・分別を統計上の割合で100人に置き換える。というそのアイデアに軽くショックを受けた時だ。
 ショックといえば「世界の富の98%を全人類の内上位数%の者が独占している」という統計の話を聞いた時も驚いた。「持てる側」と「持たざる側」の圧倒的な大差にだ。
 もちろん、自分が「持たざる側」だというのは充分認知していたが、圧倒的多数派だという事をそこまで考えたことはなかったので、純粋に「え?そんなに?」という驚き、同時に「何かのきっかけで、そのバランスは意外と簡単に変わるんじゃないのか」という気持ちになったのも覚えている。

人の集団というのは、数が多い側の経験や意見が主流として進んでいく。とそういう『なんとなくの多数決』的な発想、今になってみればきわめて稚拙で楽観的な「持たざる側」の幻想だった。

今日、衆院憲法審査会で国民投票法改正案の採決が行われた。
国民投票と聞けば、全国民が賛否を決すると、誰だって思い描く。
ところが、ほんの少し、その辺の情報を2~3分読むだけで、この改正に「全国民」という前提はどこにもないということがわかる。
 現行憲法では、その改正にあたって国民投票の過半数の支持を必要としている。そう、【国民投票の】であって、『全国民の』ではない。
100人の村の総投票だって、10人しか投票しなければ、その内の6人の意見が採用される。全体の6%の意見で村は支配されることになる。
 己がこの村で、上位6人の内の一人だとしたら、例えば投票所を村の一か所に設置する。その場所には川を渡らないといけないが、そこに架かる橋に重税を課すだろう。
 納税せず渡ろうとする者が増えたら「緊急事態」を理由に外出自粛を強く要請する。持てる者は実に簡単に勝利を得ることができる。
 重要なのはその先、当初は反対行動や抵抗をする数人はいるだろうが、数日、数週間もすれば平穏らしさが戻る。当然だ、意見の採用されない者達は「周りにも黙って我慢している」者を容易く認識し合い、結果94%もの村人が「隣の同じ境遇」を見て安堵感を得るからだ。
『なんとなくの多数決』が全く幻想となり、上位数人の思惑が支配する社会の出来上がりである。
 質の悪い妄想で済んでくれ。と思わなくもないが、現政権側の描く改憲のイメージを極々普通に読めば、妄想ではない。という残酷な事実だけが鮮明になる。一部の者の間で囁かれ続けてきた「戦前戦中の旧帝国の復活」が、残念ながらスタートラインを切って完全に動き出した。
 まったく夢も希望もないメモになってしまった。
勿論「知性と勇気」を持って抵抗する者もいる。自分もそうである(つもり)し、人間は変わるし、その人間が構成する社会は変えられる。
しかし、その変化を産みだすまでに過去この国は「数千万人の死」を経験した。そしてそれを絶対に繰り返さない。と刻んできた。
 今日現在において、その誓いを過去の命に胸を張って叫べる地点に立てているのか、持たざる94%の中で幻の安堵感に囚われていないか。
 正しく恐れ、しっかりと行動すべき正念場だ。
 

 
 



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