本田です。
先日、ツアーの合間の東京での仕事のついでに、東京国立博物館に行って参りました。
お目当ては、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」です。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2613

「経清X」の取材のため、平泉には何度か足を運びました。
勿論、中尊寺にも参拝しましたが、現在の金色堂は現代的な覆堂に守られており、覆堂に入っても、分厚いガラス越しに眺めることしかできません。
ところが今回の展示は、8KCGの巨大ディスプレイに金色堂が映し出されたり、普段は遠くから目を細めて眺めるしかない国宝仏像11体が間近で拝めるのです。
(寺外に仏像が持ち出されるのは初めてのことだそうです。)

かなり期待を込めて上野に向かったのですが・・・正直なところ、個人的にはあまりシックリと来なかったというのが率直な感想です。
展示自体は素晴らしいもので、学術的な価値も、きっとすごく大きいのだと感じました。
ただ、8KCGも、すぐ目の前にある仏像も、なぜだか平泉で感じたエナジーを失っているような・・・そんな気がしました。

何故、こんなにも近くで、精細な部分まで観賞できるのにも関わらず、胸に響いて来ないのだろうか。
仙台に帰り、劇団員と話すなかで、一つ、気づいたことがあります。
それは、東北の空気がそこになかったからだということです。

平泉の美しい風景、起伏の強い山道、北上川の流れ、鳥や虫の声、線香の香り、木漏れ日を揺らす風、温かな人々。
東北だからこそ、平泉だからこそ、金色堂は斯くも美しいのではなかろうか。
東北の空気のなかだからこそ成り立ちうる「何か」が如実にある。
それは、改めて東北ツアーを巡るなかでも感じていることです。

空気。
土地が持つ空気。人が纏う空気。空間に漂う空気。作品が醸し出す空気。
演劇もまた、この何とも筆舌に尽くしがたい空気というものを味わうところに醍醐味があり、どんな空気を舞台の上に持ち込むのか、作り出すのか、届けるのか、それが肝なのではないでしょうか。

ところで、フィールドワークのなかで、「空気」に圧倒された場所が、特に2つあります。無量光院跡五位塚墳丘群です。
撮影許可を頂いて、無量光院跡をチラシの中面に使わせて頂きました。そして、経清とその一族郎党の墓である五位塚については、当日パンフレットの「ご挨拶」の中で触れさせて頂きました。
この2つの場所は、どちらとも、ほとんど何も残っていない場所です。それこそ土地と空気だけ。
でも、その何とも言えない空気が忘れられません。
何もないからこそ、想像力は強く羽搏くことができる。
「経清X」という作品も、より一層の強い羽搏きを持って、そんな空気を届けられたらと、改めて思ったのでした。
東北ツアーもいよいよ後半戦。どうか一人でも多くの方に今作をお届けできますように。ご来場心よりお待ちしております。

以下、当日パンフレットに書いたコメントを転載して、この記事を終わりたいと思います。

それは、良く晴れた夏の午後でした。
五位塚墳丘という場所があります。藤原朝臣経清およびその郎党の墓とされています。お盆を過ぎたばかりだというのに、お線香や献花の様子もなく、道には雑草が生え、墓石は落ち葉で覆われていました。
足を踏み入れた時、異様に空気が重たかったのをよく覚えています。
これは来てはいけない場所に来てしまった。そんな風に思いました。
心ばかりですが、落ち葉を払い、道の駅で買ってきたお酒を供えて、手を合わせました。
「藤原朝臣経清を題材にした舞台を作らせて下さい」心の内で必死に語りかけました。
ゆっくりと目を開くと、不思議と空気が軽くなり、晴れやかな気持ちになったことも、よく覚えています。
なぜだか背中を押してもらったような、そんな気がしました。
ところで、人間にとって過去や記憶というものは、パソコンのデータのように、どこかに保存されていて、それを探して引っ張り出してくるという仕組みではないそうです。
記憶は、その都度、脳の中で再構築され作り直されているのだそうです。
そこに、過去は現在によって生み出されているという逆説が生じます。
(だとすれば、こんな風に経清を描いても、まぁ良いんじゃないかと許してもらえないでしょうか・・・。)
過去も、未来も、現在の自分に委ねられています。
絶えず、破壊され、再生成される記憶の中で、この作品があなたにとって小さな追い風になればと強く願っています。
本日はご来場頂きまして、誠にありがとうございます。
劇団 短距離男道ミサイルとしての公演はこれが最後となります。
最後まで、どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ。




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