2023年東京大学第1問(古代の国家的造営工事と国家財政・地方支配の関係)
【設問の要求】
①「国家的造営工事のあり方」の変化について、
②「国家財政とそれを支える地方支配との関係を反映」させて説明する。
➂ただし、律令制期、摂関期、院政期の三期に時期区分する。
【資料文の整理】
(1)律令制期:仕丁(労役)と雇夫(庸を財源に労働者を雇用)により工事遂行
→律令制期の国家的造営工事の費用負担者は公民
(2)平安初期:仕丁の不足と雇夫への依存
→律令税制の動揺を示唆
(3)摂関期:中央官司と受領に工事を割当て、以後定例化
→摂関期の国家的造営工事の費用負担者は中央官司と受領
(4)院政期:一国平均役の賦課
→院政期の国家的造営工事費用の賦課対象は国衙領・荘園
以上の内容をざっくり表に落とし込むと【図1】のようになる。
【解説】
次いで、【図1】の空白箇所を埋め、具体的な用語を抽象化してその他の時代と比較可能にする作業を行う。
律令制期において、国家的造営工事は仕丁・雇夫で賄われた。これは税としての労役・報酬を伴う雇用と抽象化できるが、摂関期・院政期と比較するにあたり、労役か雇用かの区別は重要ではない。そこで、仕丁・雇夫という造営工事という負担を担った者としての「公民」に着目してみよう。摂関期には中央官司・受領が造営工事の費用を負担しており、ここから費用負担者が〈公民→中央官司・受領〉に変化したことが指摘できる。
同様に、院政期の造営工事の費用負担者を考えると、一国平均役は荘園・公領に一律に賦課するものであるから、そのトップたる本所・知行国主が費用負担者を代表する者といえる。つまり、国家的造営工事の費用負担者は〈公民→中央官司・受領→荘園本所・知行国主〉へと変化した(設問の要求①)。
より社会的に上位の存在が費用負担者になっていったことがわかるが、これは国家が直接民衆を把握して課税する段階から、荘園などの中間団体を介して地方の富を回収する段階に移行したことと連動している。少なくとも建前上は国家が直接個人を把握しようとした律令制、諸官司・受領が独自に地方と結び付いて富を中央に回収した摂関期、全国が荘園・公領に系列化され、そのトップたる本所・知行国主が院の下に束ねられた院政期、という時代像の変化がここに現れている。
以上の検討を踏まえて【図1】を書き直すと、【図2】のようになる。
次いで、設問の要求①に対応するように、設問の要求②について考える。まず律令制から摂関期への移行については、地方支配の動揺→律令税制の機能不全→財源確保のために中央官司が独自財源確保、受領が地方支配における強力な権限を持って公領を再編、という流れを指摘したい。
摂関期から院政期への移行については、荘園整理を経て荘園・公領の境界が明確になり、荘園公領制が成立したこと、そして知行国主・荘園本所が院の下でその地位を確保したことを指摘したい。
以上を踏まえて、最終的なメモとして【図3】に至る。
以上より、解答しなければならないことは主に以下の3点。
設問の要求①:国家的造営工事の負担者の変化
(律令制)公民→(摂関期)中央官司・受領→(院政期)知行国主・荘園本所
設問の要求②
・律令制→摂関期の「国家財政とそれを支える地方支配との関係」の変化
人身支配の動揺→中央官司・受領が独自に地方を掌握、財源確保
・摂関期→院政期の「国家財政とそれを支える地方支配との関係」の変化
荘園整理令による荘園・公領の境界明確化→荘園公領制の成立
【解答案】
律令制では国家が直接公民を把握したため、公民の人頭税が造営費を賄った。郡司層の没落等で律令税制が維持できなくなると、摂関期には中央官司が地方に独自財源を設け、受領が公領を再編して徴税を請負ったため、中央官司や受領に造営が命じられた。院政期には荘園整理を経て、院の下で知行国主と本所を頂点とする荘園公領制が成立したため、知行国主に加えて本所も造営費用を負担した。(180字)
【あとがたり】
「国家的造営工事のあり方」の変化を問われている訳だから、「法隆寺を建てたのは聖徳太子ではなく大工さんです」的な答え方をしても意味がない。物理的に誰が建てたか、ではなく、造営に必要な富がどう集められたのか、が大事なのであり、中央がどのような回路を用いて地方から富を回収するか、というのが本問のテーマである。なお大学が公表した出題意図も参照。
こうした問題意識は2022年第2問(朝廷の経済基盤)と共通する。また、院政期の寺院造営において、受領が重要な役割を果たしたことについては2012年第2問も参照。
なお設問の要求①について、国家と民衆をつなぐ中間団体が徐々に自立性を高めていく見通しを示したが、この発想は他時代の分析にも応用可能である。たとえば松沢裕作氏は『自由民権運動』(岩波新書、2016)において以下のように述べる。
近世身分社会において存在した「袋」(百姓身分であれば「村」)が、明治に入って消滅し、人びとは国家・社会と直接向き合うことを余儀なくされた。これは本問の想定する古代~中世の展開とは逆であり、よくいえば「個人が地元のしがらみにとらわれず、自身の才能を自由に発揮できる」状況の到来といえる。しかし同時に、失敗した時にすべてが自己責任として切り捨てられてしまう状況の到来でもあった(松沢氏の『生きづらい明治社会』岩波ジュニア新書、2018ではこの問題について「通俗道徳」をキーワードに説明)。
近年、『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020)でブレイクした斎藤幸平氏が提唱する「コモン」の自治も、ここまでの話に引きつけて言えば、消費者が直接巨大企業と向かい合い敗北する現状を打開するために、団結して中間団体を作ろうという話として読み直せる。ここでは中間団体は巨大権力に対する防波堤として位置付けられているが、近世村に領主支配の末端という性格と村内自治の担い手という面が同居していたことを思えば、中間団体がもつ二つの側面のうち、どちらを重視するかで評価が異なるのは自然なことと言えるだろう。
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