摂関政治の前提について
東大2021年第1問を解くにあたり、そもそも摂関政治とは何であるか、その前提条件とは何か、を確認しておく必要があると考え、本記事を作成した。各社教科書における摂関政治の説明と、通史類にみえる摂関政治の前提条件をみていく。
【教科書における摂関政治の説明】
手許にある詳説探究・実教探究・新日本史(一般向け上下巻版)を参照した。
詳説日本史・実教探究では、摂関政治の定義を摂関が政権を掌握した時期とした上で、政務の運営方式を〈太政官の審議→天皇(もしくは摂政)の決裁→文書発給による執行〉と説明する。決裁権者はあくまでも天皇であり、摂政は天皇の代行に過ぎないことが読み取れる。
ただし、両社の相違点として、山川は「天皇が太政官を通じて中央・地方の官吏を指揮」、実教は「摂政・関白を中心に公卿が政治を運営」とあるように、政務運営の主体については見解を異にする。この差異は、天皇にどれだけの主体性を認めるかによるものであろう。
天皇の主体性を適切に評価するには、決裁権者たる天皇、それを代行・補佐する摂関、実務部隊たる官僚機構の太政官、この三者の関係を明らかにする必要がある。この点で新日本史は有益な説明を提供する。
新日本史によれば、天皇と摂関はともに太政官を指導する立場であり、陣定の結果について決裁を行ったとされる(↔天皇もしくは摂政を決裁権者とする詳説・実教との対比)。「天皇・藤原氏を中核とする貴族連合体制」という表現に現れるように、天皇と摂関の一体性・協調関係を強調した叙述である。そして天皇・摂関が太政官を指導して国政運営を行うが、太政官を構成する公卿にも一定の自立性があったことを指摘する(引用を省略したが、太政官で実務を担う弁官が「劇務」である旨を載せるなど、古記録を読んでいないとやや共感しがたい説明もある)。
※新日本史(というより大津氏)の摂関政治理解の前提を知りたい場合は、橋本義彦「貴族政権の政治構造」(橋本『平安貴族』平凡社ライブラリー、2020年、初出1976年)参照。儀式・故実の成立、貴族連合体制の成立、家格の形成、藤原道長の権力基盤など、摂関期から院政期までの重要なトピックが簡潔に整理されている。
以上みてきた教科書の説明からわかるポイントを挙げる。
①摂関と天皇は必ずしも対立関係で描かれていない
…もちろん対立する局面は個別にあるにしても、構造としてはむしろ協調性が前面に出ている(なお個別局面における緊張を強調する見解として、[古瀬2011,22頁以下]参照)。
②天皇を決裁権者として積極的に位置付ける
…決裁権者としての天皇の存在が、摂関政治の重要な前提となっている。
➂摂関は太政官を指揮
…指揮される太政官が弱体・機能不全では全国支配はできない。きちんと機能する太政官の存在も、摂関政治の重要な前提である。
そこで以下では、決裁権者としての強力な天皇の登場と、官僚機構としての太政官の確立に注目して整理を試みる。
【決裁権者としての天皇の確立】
奈良時代の後半に、藤原仲麻呂や道鏡などが実権を掌握し、混乱が生じたことは周知の通り。平安時代初期は、天皇大権を天皇以外が行使する状況の改善が行われた。具体的には、太上天皇・皇后の天皇大権行使からの排除である。
①太上天皇[佐々木2018,19頁]
平安時代初期まで:天皇と太上天皇のどちらが君主権を握るかは未整理
→孝謙上皇が淳仁天皇を攻撃、平城上皇が還都宣言するなど混乱
嵯峨朝以降:太上天皇の地位は新天皇の認定により獲得されるものとなり、「もう一人の天皇」から一私人(とはいえ隠然たる影響力をもつ)に変化
※この「隠然たる影響力」が払拭されないままであったことが、院政が登場する条件となる[坂上2001,69頁]
②皇后[佐々木2018,21頁]
奈良時代まで:皇后は天皇と同等の権能を行使可能(ゆえに皇族出身者が前提とされた)
平安時代:皇后と天皇大権の関係消滅
奈良時代後半~平安初期にかけての混乱を経て、天皇としての権能は天皇のみが行使する状況が整い、摂関政治の前提たる決裁権者としての天皇が登場する。
摂政・関白はともに天皇からの要請で開始したが(応天門の変による混乱を収拾するべく清和天皇が藤原良房に摂政任命、老齢の光孝天皇が基経に後見を命じるために関白任命[古瀬2011,8-10頁])、これも決裁権者としての天皇が前提にある。
【官僚機構としての太政官の確立】
平安初期の天皇主導の諸改革の中で注目すべきポイントの第一として、嵯峨朝に行われた蔵人所・検非違使の設置がある。これは
・天皇個人が任命:代替わりすると新天皇が任命
・律令制官職を本官とする:天皇が官僚機構の状況を的確に把握しつつ、自身の意思を効率的に官僚機構に伝達[佐々木2018,21-23頁]
の2つの特徴があり、これにより天皇と官人が直接結びついていく傾向が発生した。天皇が有能な官人を個別に抜擢すること自体は、改革を加速する要因となったが、(平城・)嵯峨・淳和の複数皇統の並立により、官人集団が天皇別の派閥に分かれ対立する負の影響ももたらした。その様子は以下の引用に詳しい。
こうした官人集団の対立は、承和の変で先鋭化する。現体制に不満を抱き、皇太子恒貞親王に期待をかける官人たちと、仁明天皇の下で順調に昇進する官人たちとの対立が、嵯峨上皇という調停者の死によってクーデタ計画の露顕まで激化したのである。
承和の変により、恒貞親王は廃太子され、皇位継承は複数皇統の持ち回りではなく直系継承に定まった。これに伴い藤原氏・源氏が天皇のミウチの地位を独占する中で、官人集団内の派閥対立も沈静化した。
※もっとも、直系継承は皇位継承候補者の数を減らすことになるので、天皇が若年で崩御した場合に政務能力のない幼帝が登場するリスクを伴う。それが実際に起きたのが清和即位である。
第二に重要なのは、これも嵯峨朝を中心に進められた官人の能力主義化である。具体的には以下の2点。
・大学制度の運用:平城朝で10歳以上の諸王・五位以上の子孫は全員大学入学を義務化。「学業の習得を出仕の前提として位置づけ」る[春名2019.25頁]
→藤原氏の勧学院など、大学別曹の設置→有能な官僚を供給
・嵯峨朝:官人に実務能力の前提として、学識を要求(cf.「経国」)
⇒家柄ではなく学識(≒実務能力)を基準に人事をおこない、文人官僚が登場
以上の経過を経て、藤原氏・源氏のもとで団結して機能する官人集団が形成された。
参考文献
・坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』講談社、2001年(のち講談社学術文庫)
・古瀬奈津子『シリーズ日本古代史⑥ 摂関政治』岩波新書、2011年
・佐々木恵介『天皇の歴史3 天皇と摂政・関白』講談社学術文庫、2018年、元版2011年
・春名宏明『〈謀叛〉の古代史 平安朝の政治改革』吉川弘文館、2019年
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