“現在”につながる原体験
vol.2
ゲスト:小池 巌(こいけ・いわお)
愛称:小池ちゃん。
都内の設計事務所勤務。
前置きという名の謝罪。
ほんとにすみません。
小池ちゃんと会ったのは、2023年の暮れも押し迫る時期。近鉄桑名駅の改札で待ち合わせをしたのだが、真正面にいる小池ちゃんに私は気づかなかった。「オレ!オレ!」と声をかけられて、帽子にサングラス、マスクの人物が小池ちゃんだとようやく気づく。曰く「ふだんはこういう服装なの」。すみません。
正面にいるのに気がつかない――これって、今回の小池ちゃん取材の本質だったなあと後になって思う。“小池巌”という人のとらえどころのなさというか、いや、とらえたいところはあるのにうまくそこがつかめない。で、2か月近くたっているのに原稿が書けなかった。ほんとにすみません。
実は、かなり長時間、いろいろ話してもらった。例えば、音楽でいうと、小3の夏祭りで聴いた大音量のYMO、小6でRCサクセションに出合ったこと、小・中・高とバンドを組んだ友だち、ラウドネスTシャツを着ていた時にばったりと出くわしたナイトレンジャー御一行様、高校時代にライブをやったらD&Sに説教をくらって気絶したこと、今は高崎晃モデルのギターを手に入れてYouTubeなどを見ながら楽しんでいること、娘ちゃんから黒柴をねだられたタイミングで家族に相談してJohn Sykesモデルを購入したこと…音楽だけでなく、釣りやアウトドア、マラソンについてもいっぱいいっぱい、話してくれた。
エピソードがおもしろくて、私は首をブンブン振りながら、メモを取った。が、そこから導き出されるものとはいったいなんだったのか?とツボにはまってしまい、まとめられなかったのだ。いや、小池ちゃんに限らず、一人の人間の来し方をそんなにかんたんにまとめられるとは全く思っていないのですけれども。それにしても、申し訳ないのと自分が情けないのと。すみません。
というわけで、今回は、主に小池ちゃんの生業、建築に関するところにしぼって書いてみた次第。許されるならば、“小池ちゃんパートⅡ”にいずれ挑戦したいです。すみません。
“現在”につながる原体験
子どもの頃から身近にあったモノづくり
小池は、大学卒業以来、都内の設計事務所に勤めている。研究施設、生産施設などを設計する会社だ。雑誌に載るようなカッコいい建築物をつくっているわけではない。「設計者の名前も残らないし、お客さんは事業としてつくるわけだからコストや人件費も抑えないといけない」。アートではなく経済性、効率が優先の建築だ。
「でもね」と小池は続ける。建築に携わった自動車会社の工場を一例に挙げ、「“世界一のものを生産する工場”をつくってるんだと思うと、ちょっとうれしい。誇りを持てるよね」。
父方の祖父は新潟に住んでいて、役場に勤めていた。祖父の家には薪をくべるお風呂があり、杉の葉で火を起こす作業を小池も手伝ったという。何より、その家には大工道具や端材がたくさんあり、子どもだった小池はそれらで自由に遊ぶことができた。「端材って言っても、ベニヤ板ぐらいの大きさのもあってね。そういうのって、ふつうは子どもは買ってもらえないじゃん?のこぎりもカンナもおとなの大工道具だし、さわれないでしょ。でも、それを使って、好きなように切ったり古釘で打ちつけたりして、すごく楽しかった」。
父は、港湾施設を建築する会社に勤めていた。何年もかかって現場に取り組み、終わると次の場所へ転勤する生活を送り、沖縄、イラクなどへ単身赴任していた。一家が桑名市に住まいを購入したのは小池が小5のころ。両親とも、桑名市や三重県にゆかりがあったわけではない。
小池は理工学部建築学科、父は工学部土木学科と学科は異なるが、同じ大学の卒業生である。同じ大学に行きたいと強く希望していたわけではない。担任の教師Tからすすめられるまま、成り行きで推薦入試を受験したという。「面接官から、“お父さんも卒業生だそうですが、何年生まれですか?”と質問されて、答えられなかった(笑)。なんでそんなこと聞く!って思った」。不合格だ、まいったなと思いつつ帰宅したが、数日後に届いたのは「合格」の通知だった。
就職活動もほとんどせず、今の会社しか受けなかった。内定をもらい、入社。「そのうちカッコいい建築に行きたいなーとも思ってたんだけどね」。そのまま勤め続け、現在に至っている。
大事に育てた、建築への興味
建築に携わってきたことを「ちゃんと考えてそうしたわけじゃない」「成り行きでこうなった」と小池はよく口にする。照れ隠しも多分にありつつ、ずっと建築が好きだったに違いない。
あるとき、中学時代の恩師から西岡常一『木に学べ』を手渡されたという。西岡常一(1908~1995)は宮大工棟梁として、法隆寺や薬師寺の再建に携わった人物だ。本の中で、“小・中学校には行かずに修行をしないと宮大工になるには遅い”と西岡が書いているのを読み、小池は「中学校まできてしまったオレはもう宮大工にはなれないと思った」という。それは、大工という職業を意識しているからこその感じ方だ。先生も、大工や建築に興味を持たない子どもに『木に学べ』を渡さないだろう。
学生時代には、愛車・ヤマハSR400で京都・奈良をはじめ全国の古寺旧跡を巡った。桂離宮や修学院離宮、京都御所を回ったときには、ねん挫した足でバイクに乗って行った。離宮や御所の見学は申し込み制のため貴重な機会である。ねん挫しても何とか乗れるんだから、行こう!というところだろうか。ちなみに、宿の人から「ガイドしましょうか?」と言われ、丁重に断ったそうだ。確かに、建築学科の学生に対して、“ガイドしましょうか”は余計なお世話…。自分の眼で、自分の思うように、味わったに違いない。
「なんとなく」とは言いながら、やっぱりなんとなくではないだろう。“薪のお風呂”、大工道具や端材で遊んだ、幼いころの原体験をもとに、モノづくりや建築に興味をもち、その芽を大事に育てていったように見える。
また、父は港湾インフラ、小池は生産施設をつくっていて、地に足ついたモノづくりに携わっていることも興味深い。“産業空洞化”とは、ちょっと違うところで生きているなあと思う。
おまけ
小池ちゃんの原稿に悩んでいた時に、「再現力」という言葉を投げてきた人がいた。うーん。再現力…。そこか…。
例えば音楽であれば、私たちの世代って音楽を聴くだけでも大変だった。テレビにラジカセを近づけて、「ちょっと、しゃべんないでよ!」と家族に頼んだ経験がある人、多いはず。そうしないと音楽が聴けないのだ。とぼしいおこづかいでLP1枚、CD1枚を買うのは、学生には大変だった。楽器を買うのはもっとハードルが高い。楽器があっても音楽を“再現”するための資料もデータもなにもない。
音楽もアウトドアも、とにかく“見て覚える”“真似をする”しかなかった。建築だって図面から空間に立ち上げる作業なわけで、なんだか似ている。そういえば、小池ちゃん、「最近の若いやつらは、自分で調べないんだよなあ。なんでも聞いてくる。聞く前に自分で調べろってー」とぼやいてた。あー、あの言葉は“再現”とつながる…。
次にお話を聞く機会があるなら(それが許されるなら…)、そのあたりを聞いてみよう。ほんとにすみません。