豊川海軍工廠跡を見学
豊川海軍工廠平和公園を見学した。
豊川海軍工廠は、全国5番目の海軍工廠として1939年に開かれた。186ヘクタール(=東京ドーム約40個分)の広さ、電気・水道・電話など当時最新のインフラを誇り、航空機や艦船が使用する機銃、弾丸、双眼鏡などを生産した兵器工場である。建設の予算は当時の金額で400億円(今ならいくら?)。
多い時には6万人が生産に従事し、敷地の周囲には病院、学校などが整備された。1943年には4つの町村が合併して豊川市が誕生、いわば人工的につくられた「軍需産業の街」として成長していく。
平和公園は、実際の海軍工廠の100分の1=3ヘクタールしかない。そこを歩くだけで汗だくになった。実際にはどんな大きさだったんだよう…。
地下に埋められていたという送電線、ダイヤル式の電話、水道管の敷設。信じられないのだが…。
配電盤、大きな鉄の扉、厳重なダイヤル式の錠前、振動を防ぐために敷かれた潜水艦仕様の床などを見て、「最新の設備」のレベルの高さに驚いた。
※以下、ガイドさんの見学ツアーでないと入れないところもある。
火薬庫は終戦後、占領軍が使用しており、その際に描かれたと思われる文字も残っていた。
外に出ると、街灯があった。位置は動かしたが、ものは当時のもの。電球部分はない。電線は地下に埋められており、すっきりしたデザイン。
現在、街灯の奥には民間の工場が建っている。
次に、信管置場に移動する。万が一爆発した時のために、周囲に土塁を設けている。
めっちゃ歩いた気がするが、地図を見ると、せまーいところだけしか歩いていない。逆に、この海軍工廠の広さがよくわかる。
しかし、「すごいね」で終わらせるわけにはいかない。「東洋一」のこの工場でつくられていたのは兵器。「すごい」からこそ、豊川海軍工廠の「加害」の面を考えなければならないはず。
工場で働いた多くは、女子挺身隊、動員学徒、朝鮮から強制徴用された人々だった。そのなかには、12~13歳の子どもたちもいた。
1945年8月7日、午前10時13分から39分までのわずか26分間、B29の4編隊・合計125機が3,356発の500ポンド爆弾を投下。人々は避難する余裕もなく、2,600人余りが亡くなり、工廠は焼け野原になった。
敗戦までわずか1週間、どうしてこの人たちが殺されなければいけなかったのか。そもそも避難させるつもりがあったんだろうか?と思える工廠内の貧弱な防空壕などについて聞くと、悲しくなってしまう。
ウクライナもパレスチナも日本から遠いけど、わずか100年さかのぼれば同じ状況が身近な場所にあった。そのことをしっかり考えていきたい。
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