説明がヘタになっている話。
誰かに最近の出来事や、面白かったドラマの話などをする時、
「話が迷子」になる度合いが増えた気がする。
現在気になっている要素は2つ。
その1。
「話したいことの地図」というものがあったとして、
ちょっと入り組んだ細かいことを話しているうちに、
今の自分の位置が、地図全体のどの辺なのかが
分からなくなってくる。
その2。
人やモノの名前がパッと出てこない。
主にこれらの2つが、私の障害になっている気がする。
若い時は1に陥ったとしても、名詞がパッと出てくることによって
そのロープをたぐり寄せ、地図の真ん中に戻って来られていた、と思う。
今は、そのロープが、大分頼りないものになってしまった。
細~かったり、途切れていたリ、ロープ自体現れなかったり・・。
文章の場合助かるのは、
書いていて仮に迷子になったとしても、「あれ、おかしいな」と思った時点で戻ってこられるということ。
戻って来て、じっくり考え直す時間がある。
書いている時は、誰かがそこにつき添っているわけじゃないからだ。
つまり、話が迷子になって困るのは、その場に相手がいるからなのだ。
話が迷子になってしまってから、復活するべくあたふたしている間も
その相手が様子を見聞きしている。
あたふたしている時、私がしていることは、
・そもそも何を一番話したかったのかを思い出し、
・話の全体像を再考し、
・今の自分がいる場所との距離を測り直すことだ。
この一連の「やり直し」をしている時間を、
相手にもつき合わせるのが、なんとも気まずく、恥ずかしい。
そして、ちょっぴり悲しいのは、
若い時の感覚のまま、
「こうすれば出来るはず」のやり方を使おうとしても、
それが実行出来ないということ。
「出来てたじゃん!」という感覚がある分、
そのギャップに驚くし、ガッカリしてしまうのだ。
あるいは、「そんなはずない」とどこかで思っているために、
出来ていないことを見逃していることもあるだろう。
悲しい気持ち、ガッカリする気持ちは大事にしつつ、
出来なくなっていることにはフタをせず、
出来ることを考えてみたい。
冷静に考えてみると、
・話の地図そのものは、なくなったわけではない。
・ロープにはあまり頼れない。
・時間をかければ、地図の真ん中に戻ってくることは出来る。
そこから考えられる、今の私に出来そうなことは、
「迷子になった自分」を上手くキャッチして、
相手に迷子になったことを告げて、時間をもらうこと。
かなぁ?
まずは親しい人から、試してみようと思う。