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ダルカラ『アンチフィクション』

コロナ禍、谷賢一氏が、演劇として何を書くべきか、何を上演すべきかを悶え苦しむ様が、そのまま時代を描き出す一作。この4連休、生で3作、オンラインで1作観劇した。そして、この微かな異臭のするような空気感は何なのか、考えた。谷さん、観客も同じ、わからないんだ。何が観たくて、どうして足を運ぶのか。
リアルがフィクションを凌駕する、想像を絶する世界。芸術は安心あってのもの、3.11の時は、再び上演することが震災に克つことだった。対コロナはどうだ。演ることが正しいか、どう演れば正しいか、そもそも演劇でなければならないのか。我々観客の心の揺らぎも、同じかもしれない。何が観たいのか、どう観ればいいのか、観てもよいのか。だから、居心地が何となく悪い。
災害は、皆が被害者だ。しかし、今回は皆が当事者だ。元々演劇は俳優と観客が「場を創る」芸術だが、このコロナ禍はその当事者性、共創性ををさらに強めたのではないか。同じ舟に乗り、悩みながら場を創る。想像を共有するのが人間の特性ならば、演劇はなくならない。それは、誰かのために演じ、観るものではなく、思いを通じ、他と共感する営み。新しい日常の中で、カタチは変わっていくかもしれない。誰かに指図されるのではなく、思いを通じる場として演劇のカタチをつくる苦しさを我々も共にしていきたい。谷氏の訴えをきっかけに、自分自身が心動かされた。本日千秋楽。アーカイブ配信あり。