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盲目の天使 第二章 

はじめに/序章/第一章 瞳

第二章 禁じられた気持ち


「貴方、誰?」
「え?」
 港町の昼下がり。
 秋の鋭い陽が容赦なく照り付ける路上に、ひとり迷子がいた。
「あ、あの、姉上?」
「姉上?何で私が貴方のお姉さんやらなきゃならないの。」
「え、しかし姉上……」
「何なの!?もう付いて来ないで頂戴!」
 遠ざかっていく足音。取り残された。
 少年、早鬼は路上にぽつんとひとり立ち尽くした。詰まりこれは、今年何度目かの、迷子。
 今日、早鬼は姉上と共に買い物に出ていたのだが、途中から別の人を追っていたらしい。この時間は人出が多い。目の見えない早鬼にとって、町歩きは容易でないのだ。
 恥じらわず手を繋いで貰えば良かった。

「姉上……」
 途方に暮れ、宛てもなくよたよたと歩き出した。
 途端、勢いよく向かってきた何かに強くぶつかった。反動で身体が投げ出され、地面に激しく打ち付ける。
「痛っ……」
「きゃ!!ごめん!!」
 ぶつかった相手は人間で、女性らしい。鈴のような声が近づいてくる。
 立ち上がろうと動いた早鬼の手に、何か触れた。それはふわふわしていて、温かい。何だろう、心地よい手触りだ。
「ひゃあっ!?や、やめて!」
 悲鳴の様な声がして、ふわふわは手からするりと逃げ出した。無意識のうちに、そのふわふわした物を握ってしまったらしい。
「わっ、ごめん!」
 女性はわざと、むぅ、と不機嫌そうな声を出した。
「いいよ、許すよ。」
「ごめんなさい、ありがとう。」
 女性のものだろうか、柔らかな手が早鬼の手を握った。手にぎゅっと力が込められる。
「あの、ええと……」
「仲直りの握手!ふふっ、握手をしたら今日からあたしと貴方は友達だよ!」
 早鬼は驚いて見えない目を見開いた。
 ーー友達?友達って、何?
 自分に関わる言葉として考えたことがなかった。思考が追いつかず、早鬼は固まってしまった。
「ねぇ、どうしたの?何で遠くを見てるの?」
 今、この目は遠くを見ているのか……。見えていないけれど、目線が遠くに向いているんだろう。

「何でずっと、真っ暗を見てるの?」

「えっ……」
 早鬼は固まった。
 ーー真っ黒。そう、確かに真っ黒を見ている。見えないということは、言い換えれば、真っ黒を見ているとも言えるだろう。
 でも何故、彼女はそれがわかったのだろう。
「貴方、寂しいんでしょう?だから遠くを見てるの?」
「寂しい?」

「だって……貴方、死んでるよ。」

 死んでる?
 でも、今、生きている。何が死んでいるというのだろう。僕は生きた肉体に、死んだ部分を同時に連れているということなのだろうか。生と死が共存しているとでも言うのか。僕はいまどんな姿をしている?寂しさとは何だ?それと死に何の関係がある?
 疑問が渦を巻き、混乱を極めた。
「君の言っていること、僕にはよくわからない。僕は今、生きていると思うのだけれど……」
「あっ!」
 彼女は大袈裟に驚いた声をあげた。もどかしそうに再び早鬼の手を握る。
「貴方、まだ見つけてないのかもっ!本当の自分と……本当の気持ちっ!」 
 早鬼は眉根を寄せた。
 難解だ。この人はさっきから、何を言っているんだろう。本当の自分、本当の気持ち。そんなもの見つけて何になる。見つけなくても、生きていける。そもそも彼女の言う"本当"のそれの定義とは何だ。
「君は見つけたの?」
「勿論!ちゃーんとね!」
 彼女はとても嬉しそうに答えた。
 そんなに嬉しいことなのだろうか。
 早鬼は立ち上がると、彼女が居るであろう方に向き直った。
「……おーい、どこ見てるの?」
 方向を間違えたらしい。背後から間の抜けた声が聞こえた。
 そちらに向き直ろうとした時、彼女は急に「あーー!」と納得した様な声をあげた。前方に彼女の気配を感じるや否や、がしっと肩を掴まれた。

「貴方、目が見えないんだ!?」

 ーー気付かれた。
 目を覗き込まれているのだろう。彼女の吐息が頬にかかる。
「そう……でしょ?」
「そうだよ。」
 距離が不快で、早鬼は数歩後ずさった。
 人と話すときはいつも、顔を見られないよう俯き気味でいるのに。勘の鋭さがより早鬼を不快にさせる。先刻からの人を見透かす様な物言い、あけすけな態度。悪気は無いのだろうが、正直不愉快だ。
「じゃあ、僕はこれで。ぶつかってしまい、すみませんでした。」
 その場を去ろうと歩みを進めた途端、腕を強く引っ張られた。
「ねえねえ、あたしはルラナ。貴方のお名前は?」
 腕に絡みつくように彼女が身を寄せてくる。
 変な人に関わってしまった様だ。早く立ち去りたい。適当な事を言って逃げてしまえばいいと考えた。腕を引き剥がしつつ歩みを進める。
「ええと、ルイです。ごめんなさい、もう行かないと。人と待ち合わせしていて……」
「嘘はいけないよ。貴方のくすんだ心が見える。」
 早鬼の動きが止まった。胸の奥がきゅっと軋む。

 ――見抜かれた。

 何故、わかった。今度は顔も見せていないのに。
 早鬼の喉仏がゆっくり上下した。首筋に汗が伝う。
 彼女は絡めた腕を解き、先程とは違って落ち着いた声音で続けた。
「本当の名前は?」
「……僕の名は、早鬼。」
 ふっと、彼女から明るい色の波動が溢れた。
「早鬼だねー!宜しくぅ!」
 彼女、ルラナは早鬼に挨拶程度のハグをした。早鬼の身体は緊張で強張る。
 一体この娘には自分の何が見えているのだろう。見透かすような物言いなどではない、”見透かしている”のだ。それも、正しく。

 強張った彼の頬に、ふわり、と何かが触れた。
 指で確かめると、先程握ってしまったふわふわした物と同じ手触りがした。全身の緊張が解ける。
「わわっ、それは駄目だってば……!」
 早鬼の手は止まらない。
 指先に意識を集中する。これまで一度も得たことのない感触だ。しかし、初めて触れたにも関わらず、やはり心地よく、何故か癒される。懐かしい気すらする。
「これは何?何か付けているの?」
 もう触れるなと言わんばかりに早鬼の手を引き剥がし、ルラナは言った。
「んもぅ!これは付けてるんじゃなくてね、付いてるの!」
「それは、何?」
「んーと……」
 彼女は少し躊躇って、でも嬉しそうに口を開いた。
「羽。」
「……え?」
 自分でも驚く程間の抜けた声が出た。
 今度は幾分自信のついた声で、彼女はもう一度言った。

「羽だよ。あたしの。あたし、天使なんだ。」

 天使――――。
 それは神の使いで、生き物に幸も苦も、あらゆることを齎す。でも実際には存在しない人間の妄想の形だと、母上に教えられた。

「まあ、強いて言えば堕天使なんだけどね。」
「嘘でしょ?だって、天使はこの世に存在しない。居る筈が無いんだよ。」
 彼女は息を大きく吸った。小さな白い手を爪の食い込むほど握り締める。声音を変え、言い聞かせるようにゆっくりと言葉にした。
「居るよ、ここに。」
「嘘だ。」
 沈黙の後、ぽたりと水滴の落ちる音がした。ぽたりぽたりと、静かに音が続く。
 雨……?違う、自分は濡れていない。この音は…………涙。 

「ルラナ……泣いてるの?」
 早鬼は手探りでルラナを探す。手に、ふわふわした物が触れた。
 羽だ。本物の、彼女の大切な、羽だ。
「ごめん、ごめんねルラナ。本物だね、君の羽は。」
 早鬼は子供を撫でる様に優しく、彼女の羽を撫でた。
「うん、本物だよっ……当たり前でしょ……!」
「ごめん。傷付けてしまった……」
「そうだよ!!自分の存在否定されっ……ぅぇ……」
 感情が昂ぶり言葉を続けられなくなった彼女は、とうとう声を上げて泣き出してしまった。
 今度は羽を、そっと両腕で抱いた。小刻みに震えている。悲しみに沈んだ色の波動を肌に感じた。
「ごめん。でも、もう否定しない。天使、信じるよ。」
「うん……ありがとう。」
 彼女はぐっと唇を結んだ。それでも抑えきれず漏れる嗚咽に、肩を震わせる。
 早鬼は彼女が落ち着くまで待とうと、そのまま動かずにいた。

 言葉では肯定したものの、まだ天使という存在を受け入れ切れていない自分にも気付く。
 今、自分の腕の中で脈打つこの羽は、本物の天使のもの。この世に存在しない筈のものが、今温度を持って確かに自分に鼓動を伝えている。
 鼓動……
 ふと、早鬼の脳裏にあることが過った。
 ここに居る天使が、本物ならば――。天使の心臓は、どれほど価値があるだろうか。母上に差し出したら喜んでくれるだろうか。
 喜んでくれるはずだ。必ず。

「ルラナ。」
「ん?何、早鬼。」
 早鬼の腕から羽の感覚が抜けた。ルラナが後ずさったらしい。
「あたしを殺すの?」
「えっ……」
 ――バレた。
 何故わかったんだ。彼女の名を呼んだだけなのに。こちらに背を向けていたのに。
「不思議でしょ?」
 彼女は涙声のまま、ゆっくり続けた。
「あたし、……いや、天使はね。生きているもの全ての気持ち、心が読めるの。」
 早鬼は絶句した。”全て”……。それが嘘でないことは、声のトーンから、そして、発せられる波動から感じ取った。
「ねえ……」
 彼女は静かに、しかし鋭い声で、言った。

「貴方、人を殺すこと、怖くないの?」

「怖くない。もう慣れてしまったから。」
「嘘。怖いくせに。」
「えっ……」
 早鬼は戸惑った。
 『怖い』なんて、人を殺すのに不必要な感情だ。『怖い』なんて、思ったことが無い筈だ。思う訳が無い。一番最初に母上に抜き取られたのが、『怖い』の感情だったのだから。
「人を殺す時怖くない人間なんて、人間じゃないよ。」
 人間……
「だって、貴方は人間だもん。怖くない筈、無い。」
 僕は、人間……?
「貴方は、生きた人間だよ。」

 早鬼は混乱した。ゲシュタルト崩壊だ。
 人間って、何だ。人を殺す時怖くなんてない僕は、彼女の理論では人間ではない。一方で、生きた人間だという。なら僕は何者なんだ。
 母上がいつも優しく教えてくれる。生物はどうせ死ぬんだから、殺されたって生かされたって、いつか死ぬんだから。殺すのは悪いことじゃない。悪いことじゃないのに何故、『怖い』と感じなければいけない?

「貴方、自分の心を見失ってる。だからそこにあるのに、感じていることに気付けないんだ。もっと色々知らなきゃいけないかも……」
 ルラナは少し考え、何か閃いたのか、急に早鬼の手を取り走り出した。
 早鬼の身体が大きくよろけた。足が追い付かない程、強く引っ張られる。
「な、何!?どうし……」
 コツン、と地面を蹴る音がした。直後。宙に浮いた感覚と共に、全身に強い風を受けた。
「空だよ、早鬼!空ーーー!」
「空……?」

 手を伸ばしても決して届くことのなかった、大きな空。
 "そこ"に今、自分は居るのか。
 強風が穏やかな風に変わる。空中で止まったらしい。早鬼の全身を優しい風が撫でる。
 ――この感覚。覚えがある。でもそれが何であるかは思い出せない。海底に鎖で繋がれた様に、どうしても浮かんでこない。覚えている。懐かしい。何を覚えている?何が懐かしい?この感覚は何だ。

「ねぇ早鬼、気持ちいいでしょ?」
 ルラナの幾分はしゃいだ声で我にかえった。
「今、あたし達お空の上だよ!あたし達、飛んでるのっ!」
「飛んでいる……」
 ルラナの羽がバサバサと音を立てている。時々頬に当たってくすぐったい。
 この音、感覚……。遠い昔、同じような事が無かったか。

 ――誰かとふたりで、大空を飛んでいる。――

 生涯盲目である筈の早鬼の脳裏に、あるイメージが浮かび上がった。
 ひとりは女性だ。もうひとり居る。少年だろう。ふたりの背に何か生えている。ふたつ、大きく羽ばたいている。これは、もしかして、"羽"か。
 少年がこちらに振り返った。金色の目をしている。その目と、目が合った。少年の唇がゆっくり動いた。

 直後、早鬼の背中に激痛が走った。
 何かが体内で暴れている。
 痛みが絶頂に達したとき、早鬼の背中に純白のものが現れた。
「は、早鬼っ!……翼!!」
 遠くからルラナの声が聞こえる。手に、彼女の感覚は無い。

 ――僕は今、ひとりで浮いている?

 背後で聞き覚えのある音がする。それはバサバサと、規則正しく耳に届く。これは……
「僕の……翼?」
「そうだよ!!早鬼凄い!貴方、天使だったんだっ!」
「天使?」
 今までずっと、存在しないと思っていた幻の存在。
 それが、自分?
「空に連れてきて良かったー!何だかここにヒントがある気がしたの、直感でね!」
 ルラナが小さな体で早鬼にしがみついた。
「立派な翼……素敵だよ。」

 早鬼はまた混乱した。自分が天使だなんて、人間ではなかっただなんて。しかし疑いようもなく、背後の音は響き続ける。
 もし本当に背に翼があるとすれば。これが天使である証だったならば。
姉上はきっと、自分を軽蔑するだろう。母上も、もう家にも入れてくれないかも知れない。"存在しない"と信じているのだから。
 幾多の不安が押し寄せ、早鬼は吐き気を覚えた。

「ねえ早鬼、貴方が盲目な理由、やっとわかった!」
 ルラナの指先が、早鬼の前髪を掻き分け眉をなぞった。
「貴方も堕天使なんだ。」
「どういうこと……?」
 眉をなぞった指が鼻先に移り、小さな手のひらが早鬼の目を優しく覆った。
「天使は地上に堕とされる時、五感のうちひとつを失うの。神様に背いた罰。貴方は視覚。あたしは、嗅覚を失ったの。」

 堕天使?神様に背いた?
 でも、早鬼は生まれ付き盲目だったと聞かされている。堕とされてなどいない筈だ。失ったんじゃない、はじめから無かったんだ。
 でも、じゃあ何であの時ゆいなが見えた?何でさっき、見たことも無い筈のイメージが浮かんだ?何で、あのイメージの中の少年は、僕を見た?少年の目の色は、ゆいなと違っていた。あの色は何だ?彼は何か言おうとしていた。何を伝えようとした?僕に、何か伝えなければならないことがあるのか?

 疑問が拡大するに連れて、早鬼の意識が遠退いていく。
 思考の渦に飲み込まれる様に、早鬼は意識を失った。

 気づいた時には固く冷たい所に横たわっていた。
 意識がぼんやりする。空中での記憶が蘇るが、途中で途切れて思い出せない。何があったのだろう。
 起き上がろうと力を入れると、身体の節々が痛んだ。
「あ、早鬼ぃ!!大丈夫!?」
 やっと起こしかけた上半身にルラナが飛び掛り、再び横になった。あまりの痛さに、早鬼は小さく悲鳴を漏らす。大丈夫ではなさそうだ。
「ルラナ。ええと、ここは……?」
「地上。ベンチの上だよ。」
「地上……」
 慌てて背中を確かめる。何もついていない、普通の背中だ。
「翼……」
「ああ、翼は途中で消えちゃった!」
「消えた?」
「っていうかね、すぅーっと背中に吸い込まれた。」
 彼女はそう言って、どんな顔をしたらいいかわからず、笑った。

 早鬼は困惑した。
 翼が生えた記憶は本物だった。そしてそれが消えたこの背中も本物だ。嘘であってほしい現実は、全て紛れもない真実だと知らされてしまった。不安と緊張からか、脈も乱れる。
 目が見えたり、見えなくなったり、翼が生えたり、消えたり……。ここのところ立て続けに、不可解なことばかり起こる。一体自分の身に何が起きているというのだろう。

「ねえ、ルラナ。これは夢じゃないんだね?」
 不覚にも声が震えた。
「夢じゃないよ。」
 彼の苦悩を感じ取ったルラナは、慰めるように彼の手を握った。
「……空で僕に何があったのか、全て教えて。」
「うん。」
 早鬼は出来るだけゆっくり身体を起こすと、ベンチに腰掛けた。
 身体を寄せるようにルラナも座り直す。覚悟を決め、深く深呼吸した。光の射さない金色の目を見詰める。ルラナがゆっくりと、語りはじめた。
「翼が出て間もなく、早鬼は気絶して……そのまま、地上に落ちたの。その途中で翼が消えたんだよ。」
 握った手に力が篭る。
「あの時の早鬼、まるで死人だった。」
 ルラナの身体が短く震えた。手を通して伝わってくる。
「本当に、ストン、って落ちたの。全身からあらゆる力が抜け切ったみたいに。それから暫く動かなくって……ベンチに寝かしてもひとつも反応がなくて……やっと、今……」
 ルラナの声はどんどん細くなり、最後には泣き声にかわった。
 早鬼は手を握り返し、声のする方に笑いかけた。自分では笑顔のつもりで顔を向けた。
「そっか、ありがとう。助けてくれたんだね。」
 声を出してみて初めて、自分も震えていることに気が付いた。自覚した途端、震えが止まらない。
 ルラナは握った手を解き、両手を目一杯広げて早鬼を抱擁した。
「大丈夫だよ早鬼、貴方は生きてたよ。」
 泣くのを必死で堪え、それでも震える声でルラナは「大丈夫」と繰り返した。
 彼女の慈愛の波動を受け、少しづつ脈が整っていく。人に抱かれるというのは、こんなに心安らぐものか。不安も緊張も水に溶けゆく様に少しづつ流れていく。
「ありがとうルラナ。家族でもないのにこんなことまで……」
「いいんだよ。だって、私達は友達だもんっ。」
 友達。
 彼女は先程も、自分に友達だと言った。自分と彼女は、友達。同じ天使の、友達。苦しい時、慰めてくれる存在。危機から、救ってくれる存在。そうか、これが、

 ――"友達"。

 胸の奥に、陽だまりが出来ゆっくり溶けゆく様な彼の知らない感覚が起こった。
 直後。早鬼の瞳に眩しいものが映った。

「光……」
「えっ?何、早鬼?」
 ――光だ。世界が見える。目に、色が映る。
 自分を抱き締める彼女の腕を解き、顔を覗き込んだ。
「見えた。」
「えっ?」
「君が。」
 ルラナの動きが止まった。目線が交差する。
「本当……目が生きてる!!!」
 彼女は歓喜の声を上げ、早鬼に抱きついた。

 何故また急に見えたのかは解らない。でも確かに、今、視界には色とりどりの情報が飛び込んでくる。再び見えた世界は、何て明るくて、何て美しいのだろう。目のみならず心にまで光が射すような感覚が沸き起こった。
 早鬼もそっと彼女を抱き返す。抱くと、ふわふわした物に手が触れた。先程脳裏に浮かんだイメージの中の、ふたりの背に付いていた物と同じ形をしている。
 これが、"羽"か。
 感触を確かめるように、指を走らせた。見えると、何故だか愛おしい。
「きゃあああ!」
 ルラナは反射的に跳び上がった。手からするりと羽の感触が逃げる。
「待って、もっと触らせて。」
 早鬼は焦って彼女の肩に手を伸ばした。
「もっと触りたい。これが天使の証なんだよね。もっと僕に見せて。」
 早鬼が肩を引くと、今度は力いっぱい突き飛ばされてしまった。
 顔を真っ赤にし、彼女は肩が上下する程怒りを露わにした。
「さっきから羽は不用意に触らないでって言ってるでしょ!」
「どうして。」
 おかしい。早鬼は疑問を抱いた。何度か触れたがその度に、彼女からは喜びの波動を感じるのだ。今だって、こんなに怒っているのに何故か波動は甘い。
「……喜びながら怒っているのはどうしてなの。」
「えっ!?ななな何言ってんの?」
「触れる度に、君から嬉しい時の波動が伝わってくるんだよ。僕が読み違えているのかな。」
 ルラナは絶句した。そうか、彼は天使だ。天使ならば、彼は自分と同じ様に相手の心が読める筈だ。詰まり、偽りようのない波動を受け取ることが可能なのだ。今正に巡っているこの考えも、きっと波動になって彼に伝わっている。隠せない――。

 ルラナは警戒するように早鬼の目をじっと見つめた。暫く見つめ合うと、彼が突然、ふっと笑った。
「……わかった。」
 口元を隠しながら、決まりが悪そうに俯く。幾分頬が赤らんで見えた。
「思い出した。前にもこの手の波動は人から感じたことがある。思い出したよ……そうか……」
 彼が口篭る。
 彼の波動が伝わってきて、ルラナは益々赤面した。
 お互いの心が読めるというのは、何と気まずいことなのだろう。もう双方言葉も出てこなくなり、真っ赤になって押し黙った。
 言葉に出来る筈もない。ルラナは羽の触覚刺激で、甘い疼きを覚えてしまうのだ。その疼きは、身体の奥深くからしとしとと湧き上がる種類のものだった。単なる"心地よい"ではない、所謂、"快感"と呼ばれるものだ。言える筈が、ない。

 早鬼は初めて抱く逆上せる様な感覚に目眩がした。
 以前、この"甘い疼き"の中に人を陥れ、命を奪う手段を取らされたことがあった。状況がそうであれば、その手段が最適であれば、母上からのテレパシーが早鬼を誘いどんな事でもさせられてきた。
 けれど、今は違う。今は夜じゃない、これは命を奪う手段ではない。消せないなら、どうしたらいい。
 伏せた顔を上げ、もう一度、ルラナを見た。彼女も応えるように、顔を上げる。喉仏がゆっくり上下した。
 彼女の波動が、自分を呼んでいるのを確かに感じ取った。
 ――僕も、君の側に行きたい。

「触りたい。」
 心臓が高鳴りすぎてザワつき、自分の声が音になったのかすら掴み取れない。彼女の手に触れると、今度は離れなかった。岩のように身を固くして、早鬼を見上げる。触れたところが熱を持ち始める。
「羽にもう一度触れたい。変なことはしない。……お願い。」
「や……だって……」
「君が見えて嬉しいんだ。ルラナ、とても綺麗だよ。羽も、こんなに美しいんだね……」
 同意を待たず、正面から羽に再び指を触れた。掌まで埋める。そのまま両の手を伸ばし、包み込むようにした。脈の打つのを感じとる。
 ルラナは困った様に顔を歪めた。
 ふたりの目が合う。
 彼女の甘く歪んだ表情はとても魅力的だった。初めて目にする甘美な苦悶に、早鬼は得体の知れない胸の震えを感じた。
 ルラナの手がそろりと動き、弱々しく早鬼の手を押さえた。小さく震えている。
「お願いルラナ。もう少しだけ……」
 熱い息に乗って、自分でも聞いたことのない声が出た。しかしそれを恥じらう程には、もう理性が働きを放棄していた。
「お願い。」
「……本当に、少しだよ。」
 ルラナは顔を伏せた。彼を押さえる手に力が篭る。
「ありがとう。」
 彼女の同意が自分でも驚く程嬉しくて、早鬼は胸の奥で知らない感情が暴れまわるのを感じた。なんだろう、これは。ゆいなを見た時に似ている。あの時の様に、身体のあちこちにまた痺れに似た感覚が起こる。
 ルラナの固く握った手を解き、その手を羽に伸ばした。撫で、握り、感触を手指に刻み込む。
 これが、天使の証、羽。
 胸がこれ以上なく高鳴るのを感じる。少しでは足りない。駄目だ、止められない。
 そのまま指を滑らせ、彼女の髪に触れた。滑らかな髪に指を通す。それからその手を、彼女の顔に運んだ。ひとつひとつ見える形を確かめるように、頬を撫で、唇をなぞり、唇の際から口内に指を差し入れた。指先が舌に触れる。更に指を這わせると、彼女は反射でえずいてしまった。
「あ、ごめんっ……」
 目に涙を浮かべ、ルラナが咳き込む。
 それを目にすると、背にぞくっと何か走った。
「ごめんね。」
 申し訳ない気持ちと裏腹に、確かに高揚する自分に気付く。抱いたことのない、知らない感情だ。全身の血液が湧き上がるような感覚がある。これは、何だ。
 身体が問いに答えず、主の意思を摺り抜ける。制御が、きかない。

 再び伸びた早鬼の手が、ルラナの顎を捕らえた。自分の方に顔を向ける。目を真っ直ぐに見つめ、親指を彼女の下唇に添えた。ゆっくり、顔を近づける。
「や、やだ待ってよっ」
 ルラナは唇を固く閉じ、素早く顔を逸らしてしまった。両手で真っ赤な顔を覆う。
 早鬼は驚いて動きを止めた。
「嫌なの?」
 何も答えず、指の隙間からチラチラ早鬼を見ている。
「何。何かついてる……?」
「ううん、違うの。あの……」
 彼女が口篭る。
 早鬼が焦れて苛立ったのを、ルラナは敏感に感じ取った。
「じゃあ何。」
「だ、だからね……」
 ルラナは意を決して、真っ赤な顔で早鬼を見上げた。そして、ほとんど叫ぶようにして、言った。
「キスするんなら、あたしと結婚して!!!!!」
「……え?」
 思いがけない言葉に、早鬼は目を丸くした。

「結婚しないならキスしないもんっ!!!」
 彼女のか細い叫び声が空間に響き渡った。通りを行く人々がちらちらと此方を見ている。絞り出すような声で、ルラナは続けた。
「初めては、結婚する人って決めてるの!絶対絶対、そうじゃなきゃ駄目っ……」
「わかった、わかったよルラナ落ち着いて。」
 早鬼はいなすように彼女の手を握った。抱き寄せて肩をさする。
「ごめんね、驚かせてしまって。」
 ルラナは顔を真っ赤にして、肩を上下させながら半ば睨むように早鬼を見上げた。
 周囲から刺さる好奇な目線に気付く。ここではもう、話しを続けられない。
「早鬼、聞かせてよ!貴方の気持ち!」
 そう言うと、早鬼の手を引き走り出し、地面を蹴って飛び上がった。翼が音を立て、上へ上へと昇っていく。細い腕のどこに潜んでいるのか、ルラナは物凄い力で早鬼を抱えたまま時計台の上まで一気に飛んだ。

 降り立つと他に人の気配はなく、鳥がたまに小さく鳴く他はしんと静まりかえっていた。
「うわぁ……!これは僕らの住む町……?」
 始めて目にする高所からの景色の美しさに、早鬼は感嘆した。
「うん、そうだよ。綺麗でしょ?」
「とても綺麗。町ってこんなに広いんだ……」
 ふたりの住むこの町は、自然に恵まれ緑に溢れている。立ち並ぶ家々も絵の具のパレットの様に個性を持って色とりどりだ。海にも面しており、大小様々な船も確認出来る。夕方には地平線に沈む夕日が街全体を朱く染め、この時計台は絶好の観覧スポットになる。
「あの揺れているのは木々。色は緑色というの。町に続く、あの広い空間は海。空と海のこの色は、青っていうのよ。海の中にも、海の生き物の町があるの。それからあれはね……」
 無邪気に喜ぶ早鬼を見て心が落ち着き、ルラナは子供に教えるように優しく町をあれこれ説明した。早鬼は目を輝かせ、うんうんと相槌を打ち熱心に聞き入った。
「ねえ、海が途中で切れてる。空との境目。あそこで終わりなの?」
「ううん、海も陸もずっと続いて繋がっているの。あの切れ目は、水平線っていうんだよ。」
「水平線?」
「切れ目が陸なら、地平線。見えている景色は線で途切れても、海も陸もずっと続いて、ひとつに繋がっているんだって。このままずっと真っ直ぐ進んでいったら、いつかこの時計台に戻ってくる。この星は球体なんだってさ。」
 片手を握り球体に見立て、その周りを指でぐるりとなぞって見せた。
 早鬼も同じように握りこぶしをつくり、地上に居るより少し近くなったお天道様に翳して見せた。拳がぼうっと赤くなり、後ろから光が漏れ出す。
「早鬼、その拳がこの星だとしたらね。太陽が当たっている側が昼。今見える、陰っている側が夜。星が毎日ぐるぐる回って一日をつくって、昼と夜をずっと繰り返しているんだよ。」
 陰っている側が、夜。
 では自分は、太陽から隠れるようにして夜、人を殺めているのだ。そう思うとバツが悪くなり、掲げた拳を引っ込め、太陽に背を向けた。
 早鬼の気持ちを察知したルラナは、何も言わず慰めるように肩に手を添えた。
 ふと、反対側の肩に小さな青い鳥が止まった。
「これは?」
「鳥。青い鳥。私たち天使と同じ、羽を持って空を飛べるの。」
 鳥は首を傾げ早鬼を一瞥すると、くちばしで優しく肩を啄いた。
「あはは、鳥さんが早鬼を許してくれるってさ。」
「え、そうなの?」
 ルラナが笑って鳥を指先で撫でると、鳥も気持ちよさそうに指に身を寄せた。
「しあわせの青い鳥っていってね。きっと落ち込んだ早鬼を見つけて励ましに来てくれたんだよ。捕まえたら色が変わっちゃうんだけどね。」
 鳥がチュチュと小さく鳴くと、ひとまわり大きい親らしき鳥も現れ、二羽で飛んでいった。二羽は仲良さそうに連なって、やがて見えなくなった。
 鳥を見送る早鬼の脳裏にふと、またあの映像が浮かび上がった。
 ふたりで空を飛んでいて、ひとりは女性で、もうひとりは少年で……。イメージを凝視しても、少年は今度はこちらを振り返らず、楽しそうに女性の手をとりどんどん先へ行ってしまう。

――待って、行かないで、僕に気付いて……――

「早鬼はさあ。」
 ルラナの声で我に返った。遮られ、イメージはパッと消えてしまった。
 ルラナの柔らかな掌が早鬼の冷たい頬に触れる。
「何で自分が人の心が見えるのか、知ってる?」
「え……?」
 ルラナがふっと笑った。
「天使は人の心が読めるよって、さっき言ったでしょ。それはね、発せられる波動が色になって見えるからなんだよ。」
「……どういうこと?」
「貴方はこれまで目が見えなかったけど、それでも波動の色の識別はイメージの中で無意識に行っていて、それを捉えてきたはずだよ。」
 確かに――人や生き物、あらゆるものと対峙したとき様々な波動が伝わり、それに意味があることは何となく理解できた。あのイメージと、視覚で捉えるこの世界に存在する様々は、一致する部分が確かにある。
 だけどひとつ不可解なのは、何故だか全く解らないのだけれど、その色のイメージは遠い昔、この目で見たことがあるような気がするのだ。生まれ付き盲目だった筈の自分に、そんなことある訳がないのに。
「早鬼。でもね、貴方の心には私にも読めない部分があるの。」
 頬に触れた手を胸元まで下ろし、丁度心臓のある真上辺りに翳した。
「どんなに読もうと集中しても見えてこない。おかしいの。何だろう、鍵みたいなものが見える。それも、たくさん。」
「鍵……?」
 早鬼も自分の胸に手を翳した。触れて確かめられるものではないだろうが、ルラナのイメージを自分も掴みたい。
 ふたりで気を集中する。
 ふと、早鬼の脳裏に扉のイメージが浮かび上がった。ずしっと重く、暗くじめついた空間に、その扉はある。大きさはわからない。ドアノブも見当たらない。それの全貌を確認するのが困難なほど、沢山の鎖で雁字搦めにされ、いくつもの錠が繋がれていた。
 と、イメージが流れ込むや否や、それを遮るように早鬼の胸に鈍い痛みが走った。これ以上触れるなと言わんばかりに、心筋を引き裂かれるような痛みが胸に広がる。
 早鬼は痛みのあまり、低く唸り声を上げながら踞った。
「え、大丈夫!?」
 声が出ないかわりに全身から冷や汗が吹き出す。肩ががくがくと震えだし、呼吸も浅くなっていく。
 ルラナは早鬼を抱きかかえ、懸命に背を摩った。

 ルラナには確かに見えていた。早鬼の中にある扉、そして、そこに潜む二つの瞳が。
 何か、彼の中にいる。
 それはあまりに強い魔力で身を隠し、姿を覗かれまいとしている。ひとの中にそんなものは、これまで見たことがなかった。初めて見るそれは厚く堅い壁を張って、早鬼の心にへばり付くようにそこに居た。直感で、早鬼には今このことを伝えるべきではないと察した。

 考えることを止めると、胸の痛みも遠退いていった。
 汗でぐっしょり濡れた額を拭い、早鬼は大きく深呼吸をした。大きく息を吸うと、まだ胸のあたりが突っ張って痛む。身体に力が入らず、ルラナに身を預けたまま呼吸が整うのを待った。
 ルラナから心配と不安と、"恐怖"の入り混じった視線を注がれていることに気付いた。「もう大丈夫だよ」と言おうとしたが、うまく声が出ない。言葉になる手前の、掠れた声だけが弱々しく漏れた。
 ルラナはひとつごくりと唾を飲み込むと、汗に濡れた早鬼の肩を恐る恐る抱いた。
 先程見えた目が、こちらを見ているようで恐ろしくて堪らない。あの扉に気付いてから、早鬼から出る波動は急激に弱まり、ルラナにはほとんど読み取れなくなっていた。きっと"あれ"にブロックされている。あの分厚い壁が層を増し、波動を遮っている。自分の存在を、"あれ"は警戒している。
 早鬼はルラナから伝わる負の波動を受け取っていた。
 恐れ、不安を抱く彼女を早く安心させてあげたい。まだ完全にいうことをきかない腕に何とか力を込めて、細い肩と羽を抱き返した。もう一度呼吸に集中し、声を出すことを試みる。
「だ……大丈夫……だよ……」
「い、いいよ早鬼、む……無理しないで。」
 意図せず出た震える声に戸惑いつつ、ルラナは恐怖を悟られまいと元気に笑って見せた。彼女の心遣いを察し、早鬼も笑い返す。
 暫くそのままじっとした後、段々と弱まっていく痛みを呼吸で更に逃がしながら、徐々に感覚の戻り始めた腕でもう一度ルラナを抱いた。羽に指を沈め、出せるだけ腕に力を込める。
「ねえ、ルラナ。また……」
 消えそうな細い声が出た。掠れてしまい言葉の後半は風に散ってしまった。
 ルラナは耳を澄ました。
「え、なあに?聞こえないよ。」
「だからね……」
 早鬼は優しい目でルラナを見つめ、耳元に唇を寄せた。そして、消え入りそうな声で言葉を続けた。

「また僕に、目に見える色のことを教えて。僕の知らない、この世界のことを教えて。これからもずっと、ずっと傍にいて、たくさんのことを僕に教えて。たくさんのものを、一緒にこの目で見ていきたい。」

 聴き終わる頃には、ルラナの目は大粒の涙に溢れていた。顔を真っ赤に染め、ひくひくを喉を鳴らしている。
 早鬼は笑って頭を撫で、それから頬にくちづけた。
「死ぬ時も一緒がいいな。手を繋いでさ、眠るように一生を終えよう。あ、でも天使はどうなんだろう。死ぬのかな?」
 はは、と力なく笑って、もう一度強くルラナを抱きしめた。
 涙で一杯の真っ赤な目で早鬼を見上げ、ルラナもぎゅっと抱き返した。
「どうだろうね。死ななかったら、ずっと一緒だね。ずっと一緒に居たら気持ちがかわっちゃうかな……?」
「まさか。きっともっと君を好きになる。出会ってからどんどん、僕は君に惹かれていっているんだよ。きっと、ずっとそうだよ。君なら僕の知らない僕を見つけてくれる。僕も、君を見つけていける。」
 ルラナの目を真っ直ぐ見つめ直し、早鬼は声に力を込めた。

「結婚しよう。」

 返事を待たずに、ルラナに唇を重ねた。
 答えは、波動がもう既に伝えていた。
 優しく頬が触れる。もっと近づきたくて、頭を掻き抱いた。唇を開き、小さな唇に分け入る。涙の味がした。
 脚の力が抜け、ルラナがよろけた。彼女を支えるように腰をだき抱え、更に唇を開いた。それに合わせる様にルラナの唇も開く。無抵抗に唇を吸われ、彼女の唇から熱く震えた吐息が漏れる。
 頭の中が溶けゆく様で、思考の全てが停止する。
 触れ合った唇まで溶け合い、ひとつに繋がる心地がした。

 ふと気配を感じ見上げると、先程の青い鳥が青い薔薇を咥えふたりの周りを飛んでいた。小さいので子供の方だ。
「あ、さっきの鳥だ!」
 ルラナが手を伸ばすと、鳥はその手に青い薔薇を押し付けた。
「くれるの……?」
 手に取ったのを確認すると、薔薇を放しチチっと鳴いてどこかに飛び去ってしまった。青い鳥の去ってゆくのをぼうっと見つめ、見えなくなるとふたりは目を見合わせ笑った。
「僕らを祝福しに来てくれたのかな。」
「きっとそうだよ!青い薔薇の花言葉はね、”奇跡”や”神の祝福”なの。昔は"不可能"だったんだけど、近年青色の薔薇をつくるのに成功して意味がかわったんだって。」
「わあ、そうなんだ?君は何でも知ってるね。」
 嬉しそうに微笑んで、早鬼はルラナの頭を撫でた。
 彼女も赤みの残った頬を上げ、誇らしげに笑った。
「私たちにぴったり。神様も私たちのこと、きっと許してくれたんだよ。鳥さんはそれを伝えに来てくれたに違いないわ!」
「じゃあさっきのは、誓いのキスだね。」
 思い出して、ルラナはまた耳まで真っ赤に茹で上がった。
「キ、キス、はじめてだったの……!」
「初めては、結婚する人って決めていたんだもんね?良かったね、夢が叶って。」
「う、うんっ……」
 思いがけず上擦った声が出てしまった。
 そんな姿を愛おしげに見つめ、彼は再び彼女に唇を重ねた。

 嗚呼、まただ。
 触れたところから溶け出していくような感覚。最早この唇が自分のものか早鬼のものかすらわからない。恥かしさからか嬉しさからか、また瞳から涙が溢れ出す。見つめ返したいのに、早鬼の顔が見えない。

 キスが始まると、先ほどの鳥が母鳥を連れふたりの元に戻ってきた。
 後ろから、一緒に祝うかの様に青く美しい鳥たちが次々と集まる。鳥たちがふたりの周りを楽しそうに飛び交った。
「あはは、こんなにお祝いしてもらって、まるで結婚式だ。」
 早鬼が笑うと、ルラナも笑った。
「うん、そうだね。結婚式だね。」
 早鬼はルラナの手をとり、左手薬指に優しく口づけ、言った。
「一生君を、愛することを誓うよ。」
「私も誓います。」
 ふたりが見つめ合うと、どこからかファンファーレが聴こえた気がして、それに応える様に鳥たちも美しい鳴き声を響かせた。
 天使の秘密の結婚式。
 それはそれは、素晴らしいものだった。

 儀式を終えて、ふたりは地上に降りた。
 身体に甘い気怠さを残しながら、翼は一層美しく風に吹かれている。
 ふたりは手を固く結び、とても幸せそうだった。

 今は夕方。そろそろ日が落ちるだろう。
 初めて見る夕暮れの空に、早鬼はときめいていた。隣には愛すべきひともいる。
 日が暮れたら次に何が来るのかなんて、考える暇もない程に胸が高鳴っていた。


「ココアでいい?あ、珈琲もあるけど……」
「ルラナのおすすめで。」
「じゃあココアかなっ!」
 ルラナは嬉しそうに戸棚からカップを取り出した。
 ふたりが今いるのは、ルラナの家。一人暮らしの小さな部屋だ。
 空にはもう月が浮かんでいて、無数の星が散りばめられている。
 夜、だ。

 早鬼の元にココアが届いた。ほんのり甘い香りが漂う。並々注がれた器から白い湯気が立ち上る。
「僕ココア好きなんだ。こんな色をしてるんだね。いただきます。」
 カップをそっと持ち上げて、ゆっくり口元に運んだ。ルラナはそれを幸せそうに眺めている。
 が、次の瞬間空気が一変した。

 ――ガシャンッ
 早鬼の手からカップが滑り落ちた。
 破片と中身が床に散らばる。衣服とソファがみるみるココア色に染まった。
「早鬼、大丈夫!?ごめん入れすぎたかなっ」
 慌てて駆け出そうとしたルラナに早鬼の濡れた手が触れた。見ると、ルラナの方に手を伸ばしている。その手が、僅かに震えていた。
「……どうしたの?早鬼……」
 早鬼の手はルラナを確認すると、しっかりとそれを掴んだ。それからゆっくり、一歩一歩探るようにして彼女に近付く。動きが、明らかに鈍い。
「あっ……」
 ルラナは漸く早鬼の置かれている状況に気付いた。胸がぎゅっと軋む。彼は――

 彼は再び暗闇に連れ戻されたのだ。

 ……そう思った。
「早鬼、大丈夫だよ!あたしは此処に居るよ!」
 無反応。何かおかしい。 
 早鬼の中のふたつの瞳が潜む壁が強く拒んで、彼の波動がルラナに届かない。心がひとつも読み取れない。
「早鬼、どうしたの?」
「うっかりしていたよ。」
 漸く口を開き、早鬼は顔をあげた。
 その瞳に、ルラナは映っていなかった。そこにあるのは出会った時と同じ、暗闇を見つめる金色の瞳だった。言葉にせずとも心が読めずともわかる、やはり彼は暗闇に連れ戻されたのだ。
 視線の絡まない早鬼の目を、じっと見つめる。
「何をうっかりしてたの……?」
 酷く冷たい声で、早鬼は答えた。
「もう夜だ、ルラナ。」
 そう、夜だ。それが何だというのだ。
 疑問を抱きながら次の言葉を待つ。
 恐ろしい程美しい彼の無表情な顔は、月明かりを受けて神秘的でさえある。
 言葉を探しているのか、また彼は黙ってしまった。
 服を掴む彼の手に自分の手を重ねた。
「今夜は月が綺麗だよ、早鬼。」
「そうか月が……綺麗なんだね、ルラナ。」
 早鬼の拳に力が篭る。
「僕には、その月が見えない。」
 ルラナに触れた片手の感覚を頼りに、もう片方の手でルラナを抱き寄せた。
「君のことも。」
 わかってはいても、改めて言葉にされると深く胸に突き刺さる。突きつけられた現実を確かなものにされ、ルラナの目には堪らず涙が溢れ出した。涙に誘われる様に感情も雪崩込み、抑えきれず呻き声が漏れる。
 ルラナの震え出す肩をもう一度強く抱きしめ、早鬼はそのまま手探りで彼女の首を捕らえた。
「夜に、必ずやらなければならないことが僕にはある。」
 首に手を添えたまま、軽く一度唇を重ねた。添えた手に少しだけ力を込める。
「僕は今夜、女の子の心臓をひとつ持って帰らなきゃならないんだよ。」
 ルラナは涙をたくさん抱え込んだ眼で、目前の彼の白い顔を見据えた。
 冷たい声で淡々と話し続ける彼は、まるで別人だった。

 嗚呼、視力と共に彼は連れて行かれてしまった。
 目に光の射さない彼は、心にもきっと光が届いていない。愛とは、光だ。彼は今、それの届かない場所にいる。
 ルラナは壁が分厚くなる前に読み取った彼の心の記憶から、状況を察知した。気付いた途端、奈落の底に落ちる様に悲しみの波が押し寄せ、全ての気力を奪っていった。

「……早鬼……。そっか、あたしを殺すのね。」
 ルラナは彼の手を力なく払い除け、崩れるようにソファに座り込んだ。溢れたココアが衣服に染み込む。それに気付かない程、ルラナは放心していた。
「ルラナ、今僕は君が見えない。だから、殺すのも怖くない。」
 早鬼は表情を変えぬまま、冷たい声で言葉を続けた。
「僕が失敗すると、僕の姉上が仕打ちを受けるんだ。何も出来ない僕が唯一生きるために出来ることが、この仕事なんだと母上が言うんだ。わかって欲しい。」
「何それ……」
 ルラナは俯いたまま、はは、と笑った。
「わかった、いいよ。早鬼がそうしたいんなら。あたし、夫には尽くすって決めてたんだ。」
 震える身体に負けない様に、お腹に力を込め、続けた。
「でも、忘れないでね。ルラナのこと。大切な、妻のこと。」
 よろよろと立ち上がり、ココアで汚れた彼の身体を抱いた。
 振り切れて整理のつかない感情に、訳もわからず笑いが漏れる。止まらない涙が彼の服に染み込み、ココアと交ざっていった。
「生まれ変わったら早鬼の子供になりたいなあ……早鬼が誰かと結婚したら。あ、でも天使って死ねるのかな?何か変な感じに生き延びちゃったらやだね、そしたらごめ……ん」
 ルラナの言葉を、早鬼の唇が遮った。
 そのまま頬に唇を滑らせキスをし、瞼にまたキスをする。
 ルラナは驚いて早鬼の頬を押さえた。
「早鬼……?」
「ルラナ、声がずっと震えてる。ずっと泣いてたの?」
「えっ……」
 彼女の押さえる手を払い除け、早鬼は彼女を強く抱き上げた。
「ごめん、怖かったね。」
 早鬼の身体が小さく震え出した。
 抱く腕に更に力が篭る。
 彼が泣いていることに、ルラナは直ぐに気が付いた。

 『一番怖かったのは、私じゃない。貴方だ。』

 声に出さなかったけれど、ルラナの想いは早鬼に波動で伝わった。
「うん、僕は怖かったのかも知れない。だから気持ちを殺そうとしたけど、出来なかった。」
 声までもが震え出す。
「君のこと、大切だから。例え使命でも殺めたりなんて僕には出来ない。もう目に光は届いていないけれど、君の愛はちゃんとずっと受け取っていたよ。」
 ルラナは彼の震える声を聴いて安心した。声が、温度を取り戻している。本当に、心から、言葉を掛けてくれている。心が読めなくても、声を聴けばわかる。喜びが胸に溢れて、自分からも力いっぱい抱き返した。
「出来るはず、ないんだよ。」

 失うことが、最も怖いから。
 大切なものを失った後が、恐ろしくて仕方ないから。

「うん、早鬼には出来るはずないよ!だって私の自慢の夫だもん!」
 ルラナにはわかっていた。早鬼の言葉のひとつひとつに、嘘や偽りは全くないということを。全て本当だから、彼は正直に全てを話してくれるから、心から信じる事が出来る。きっと、これからもずっと。
 愛しさが溢れ出し、そっと自分からもキスをした。
「早鬼、大好き……」

 その時、早鬼の耳にルラナではない者の声が届いた。

『何故、殺めない。』
 声の主は、母上だ。

『怖がるなんて情けない。お前にはこれしか出来ることがないのに。』
 でも、この子だけは……
『殺れ。』
 出来ません。
『殺らねば今度は姉上の命がないぞ。』
 ……えっ!?
『どちらか選ぶか。どっちを見捨てる。』
 そんな……
『迷うとは愚かな。この娘を殺れ。』
 しかし……
『殺れ。』
 …………
『殺れ。』
 …………はい。

 直後。
 早鬼の心から”愛するという感情”が抜かれた。
 もう誰も愛せない。
 だから、”大切なひとを失う苦しみ”、”恐怖”も、感じることが出来なくなった。

「ルラナ……」
 早鬼は彼女を片腕で抱きしめたまま、片手をナイフの入ったポケットに忍ばせた。何とか片手で鞘から抜いたものの、手先がもつれ床に落としてしまった。咄嗟にバレないように自分もしゃがみこむ。
 ナイフが床にあたりカツンと音が鳴った。
「え、何の音?」
 早鬼は息を長く吐いた。ルラナのいる側と反対から音がした。きっと、見えていない。立ち上がろうとする振りをしながら、背中の後ろをまさぐった。不審に思われる前に早く見つけなければ。
 チクン、と指先に痛みが走る。これは、ナイフだろうか。拾い上げるとそれはカップの破片だった。
 ルラナは早鬼を心配そうに見つめる。
「カップのこと思い出しちゃった?それは気にしないでね、本当に。破片なら私が片付けるよ。」
 彼女は勘違いしている様だ。なんと御誂え向きなことだろう。早鬼にとっては都合がいい。
「本当にごめんね。今踏んでしまって驚いたんだ。見えなくて怖いから片付けてもらっていい?」
「そうだったのね!わかった、直ぐに片付けちゃうね!」
 ルラナの足音が一度遠ざかり、カサカサと音を立てながらまた近付いてきた。袋を広げる音がする。カチャカチャと陶器の擦れる音がした。拾い始めた様だ。
 早鬼は音のする方に手を伸ばした。手に衣類の感触がある。間違いない、これはルラナだ。確信し、早鬼はそれを力いっぱい突き飛ばした。
「きゃっ……」
 小さな悲鳴と共に、ガチャガチャと陶器の音がした。

「わあ、ごめん!よろけてしまったよ。」
 状況を確認する為に声をかけてみる。
 返事は無く、その代わり押し殺すように小さな呻き声が聞こえた。今まで感じたことのない波動が一瞬強く雪崩込み、弾けるように消えた。それ以降、物音がしなくなった。
 的中し、死んだのだろうか。
 早鬼はしゃがみこんで、ルラナであろうものに触れた。羽に指が触れる。握ってみた。反応がない。それを下に辿って、くぼみにたどり着く。何だろうか。衣服が折り重なって肌に届かない。
 諦めて、手を上に辿った。何か尖った物に触れる。指先で形を確かめると、それはナイフであった。それは肌に、突き刺さっている様だ。突き飛ばした先に偶然あったのだろうか。
 指を擦ると濡れていることに気付き、そこ一帯が濡れていることがわかった。きっと血だ。出血しているのだ。血に濡れた髪が手にへばりついてきて、それが頭部周辺であることを知った。

 今、ルラナはどんな姿をしているだろうか。
 自分の想像通りに死んでいるだろうか。見たい、という気持ちが胸に溢れる。どうなんだろう、見たい、見たい……

 その時、彼の耳に突然ドアの開く音が届いた。
「誰……?」
「私。」
 緊張が直ぐに安堵にかわる。
「姉上。」
 聞き慣れた声の方向に笑いかける。
「お疲れ様。その子、羽生えてるわね。」
「ああ、うん。……天使、だから。」
「へえ、そう。」
 特に驚く様子もなく、姉上は死体に近付く。
 驚かない姉上に、早鬼が少し驚いた。
「死んでるよね?」
「ええ。」
「良かった。今日"天使は死ぬ"ってことがわかった。」

 ならばきっと、いつか自分も死ねる。
 こんな日々に終止符を打てる。

「姉上、死体はどんな格好をしてる?」
「えっと……」
 姉上は珍しく口篭ったが、直ぐにいつもの調子で静かに答えた。
「うつ伏せで、カップの破片がたくさん刺さっているわ。」
「ナイフも刺さってない?」
「ええ……刺さってるわ。首にね。」
「そっか。」
 早鬼はほっとした。思ったとおり、偶然急所に刺さったのだ。
「でも下向いてて心臓取りにくそう。」
「ごめん。」

 姉上は、嘘を付いていた。
 本当のルラナの姿は、カップの破片など刺さっていない。当たって出来た傷はちらほら見られるが、擦り傷程度だ。ナイフが刺さっているのは本当だが、ひとつ彼には隠してることがある。きっとこのことは伝えるべきではないと、直感がそう語りかけていた。

 ナイフを両手で握り締め、首にあてがうこの少女と、何かあったに違いない――。

 何か、特別なことがあったに違いないと、そう思うのだ。
 早鬼、貴方はこの子を殺してなどいない。
 ”この子は自分で自分を殺めたのだ。”
 苦悶の表情で歯を食いしばり、絶望のその先を捉えた眼で。

 姉上は早鬼に近づくと、じっと目を見つめた。
 早鬼は自分にかかる姉上の吐息で、今目の前に姉上が居ることを確認する。
 姉上が口を開いた。
「死んだわね、あんた。」
「え?」
 何を言っているんだろう、姉上は。
「生きてるよ。」
「いや、死んでる。あんた心が死んでるわよ。」
「え……」
「可哀想に。母上に殺されたのね。もう人を愛せないわ。」
 早鬼はそっと笑みを浮かべ、姉上を抱き締めた。
「わかってる。でも、もう失った後だから……怖くないんだ。」
「早鬼っ……」
 姉上の身体が震えた。姉上の頬があたる肩に湿り気を感じる。これは、泣いている。
「何で……姉上が泣くんだ。」
「あんたが泣けないから、代わりに泣くのよっ!」
「姉上……」
 早鬼は困惑しながらも、不思議と温かい気持ちになった。これは、何だろう。
「早鬼っ……可哀想に、早鬼っ……」
 やがて号泣にかわり、姉上は暫く泣きじゃくっていた。
 そんな彼女を抱いて、何か感じている自分が居る。それが何かは、やはりわからない。だけど――今まで一度も泣き言ひとつ漏らさず、いつだって冷静だった彼女だ。その彼女が初めて自分の腕の中で涙を流している。何か特別なことが起きているということは、逃れようもなく感じ取ることができた。
「姉上……」
 早鬼は自分の頬に何かが伝っていることに気付いた。さらさらと、止めど無く流れている。それは、紛れもなく彼の涙だった。
 何故流れているのかはわからない。けれど、それは止まることなくずっとずっと流れ続けていた。

 その日、ふたりは心臓を持ち帰らなかった。
 ひとしきり泣いて、気付くと死体は姿を消していたのだ。不思議と不気味には感じなかった。
 そのせいで母上には酷く叱られ、厳しい体罰を受けた。
 でもふたりは、それで良かったと思った。


 この日、早鬼は大切なものを手にし、同時に失った。
 それは自分にとって初めての仲間でもあり、最愛の妻だ。
 今となってはひとつの後悔もない。ひとを愛するという感情を失ったから。心が死んでしまったから。ひとを愛せないということは恐ろしいことだけど、失った後では何も怖くなかった。
 でも彼は、”失う”と共に”得る”こともしていた。
 彼に自覚はなく、全く気付いてはいないけれど。
 確実に彼は近付き始めている。

 全ての真実に――――




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