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#34 中学生・宗教・科学・現在

#33で宮沢君がこnoteのスタートからの振り返りをしてます。
たまたまですが、この時、自分の時間軸を振り返ることをしてました。中学時代の小さなこだわりと、今現在のつながり。宗教と科学の問題です。

宗教と科学はある同じ源泉から生まれた西の魔女と東の魔女。それは人間の思考と認識から生まれた「認識のちがい」である。いま倫理思想を高校生に教えていて、ふと中学時代のあるエピソードがつながってしまった。

中学生のとき、書道の自由お題で何を書くか迷った。
それで「科学と宗教」と書いた。教室背面にクラス全員分がはりだされ、同級生の一人が、題(の宗教と科学)は何の関係もない、ということをいって、バカにして笑った。何十年も前にすでに学校では科学的思考こそ重要という洗脳があったんだろう。

この題は当時の経営雑誌からとったもの。内容はわすれたが、科学と宗教という崇高な概念が印象に残った。壁にはりだされたときの自分の墨書の画像は今でも教室空間とともに再生できる。

なるほど、宗教と科学は相いれない。科学は経験論と合理論の世界であり、近代を認識する道具である。一方、宗教は西洋キリスト教世界を構築し封建社会制度を生み出した道具であり、そこには神の存在がある。対立構造。

この対立構造をに整合性を持たせるため、西洋では神の存在証明が必要とされ、社会が形成されてきた。神の証明のためにギリシャ哲学は活躍した。これが中世世界。哲学は神学の侍女、とは、哲学が神学に大いに貢献したということだ。

哲学者カントは神の世界を切り離す。人間の認識の限界を指摘し、神の存在認識を認識の外において(留保して)、認識の対象にしないことで、認識できうるもののみの世界観を提供した。これにより科学も進展した。

近代の成熟は、この科学の隆盛と宗教の位置の排除ゆえの宗教の存在意義の余地と位置をあたえた。その余地と位置とは、今日、宗教団体が近代社会に編入される可能性を残し、近代ビジネスにまきこまれる宗教的世界のイベントを巻き起こす

宗教的世界のイベントは宗教性の稚拙な表現による似非宗教と似非科学の様式をまとって、近代教育をうけてきた人たちにより醸成され支持された。そこに商業主義がはいり資本主義が発展する。まさにウェーバーのいう、資本主義とプロテスタントの倫理が一体化する。

もともと宗教から派生し脱皮した科学は、宗教がその意味を喪失したおかげで、お勉強の科学情報雑誌となり、科学そのものの耐性が低下した。当然対抗軸の宗教自体もその耐性を減じてしまう。

カントによれば、
「物自体」を認識するこはできないし、物の「現象」を認識しているのすぎない。その現象は認識の枠組みでしか理解できない。ゆえに認識そのものが疑わしいという。

宗教も科学も現象の認識でしかないすると、その認識そのものが疑わしい。というより、その認識から出発するしかない限界性がある。

中学時代にこのようなことに気づいたわけでは当然ない。#31で宮沢君が講義をきいて泣きそうになった理由も、このくらいの時間軸で理解できる世界を必要としているのではないか。つまり、認識そのものは時間を経過していくことで認識でき、記憶の変遷は認識の再構成を促すのだろう。