雪かきをすると思い出す教え
数年ぶりの大雪
昨夜から今朝にかけて、数年ぶりに、金沢にしては大雪となりました。出社しようと駅まで歩くと、膝の高さくらいにまで積もっていて、融雪されていない歩道を歩くのに、一苦労しました。
結局いつも利用している路線の電車は、Webで確認していた情報から変わらず運転見合わせとなっており、自宅へ引き返し、アパートの自室分の駐車スペースの雪かきをしました。
雪かきって、嫌いじゃないです。余裕がない分無意識のうちに集中しますし、進捗がわかりやすいので達成感も感じられるから。何より、良い運動になります。
雪かき中の、トラウマ的な出来事
数年前(十数年前?)にもこんな大雪があり、やはり雪かきをしました。
今回とは違い、出社後に雪が積もり、午前のうちに会社から帰宅命令が出たため、日中に帰宅し、昼も夜も雪かきをした記憶があります。
帰宅する妹の車を入れられるようにと、暗くなってからも懸命に雪かきをしていたときです。
同じアパートの上の階の人が降りてきて、言いました。
「この物置の前に雪を積まないでほしいんですけど。灯油缶が入れてあるんで、物置の扉が開けられなくなると困るんです」
必死に、また、共用通路(少しですが)の雪もどけるなどある程度気も遣いながら作業しているときに、ものすごい剣幕でそう言われたことに、今にして思えば相当のショックを受けました。私としては指摘された場所にうず高く雪を積んだつもりがなかったこともあり、まさか迷惑行為になっているとは、完全な想定外でした。
人それぞれに、都合や望みがある
そう言われたときは一瞬、感情が沸点に到達しかけました。2階に住んでいるという理由でアパート前の雪かきをするつもりなどまったくないあなたが、その雪かきをしている私に対して、よくもそんな態度を取れるものだな、と。
でも、ショックすぎたからこそ、そのことをずっと考え続け、思い出し続けた後に、思ったのです。
私は、雪をどかしたかった。
その人は、物置の中の灯油缶が必要だった。
それだけだったのだということ。
彼女が悪いわけじゃない。もちろん私も。
彼女を責める道理もなく、また、私が悪かったと自分を責めなくてもいい。
その思いに至ったときに、彼女のそのときの態度に過度にフォーカスしない自分になれました。
それは、アチーバスにもつながる
今はアチーバスを知ったから、そのときの感覚を、もう少し抽象的に考えることができるように思います。
アチーバスのゲームの中で、私が体感した学びのひとつが、
「メンバーひとりひとりが、違う価値観や行動習慣をもつ個人であり、
(私を含む)この人たちが、この人たちのままが、ありのままの世界であり、
その人たちの集まりで、最善の結果を得ることができる。
それを、まず私自身がそう考え、信じる。」
ということでした。
雪かきをしていると、自分が必死に(笑)集中している分、そのとき見かけた人の行動を、とても直球的に感じることができます。
「おはようございます」「お疲れ様です」「(手伝わなくて)すみません」と声をかけてくれる人。
挨拶はしてこないんだけど「そこは掘らない方がいいよ」と指南してくる人。
スコップを持っていなくて、近くの作業中の人に、気を遣わせる人。
話はしないけど、黙々と雪かきに勤しむ人。
私をとりまく世界は、そんな人たちでできている。あるがままの世界。
そこに怒りやイライラや失望を、もつ必要はない。
私がそう思っていさえすれば、私は雪かき中に出会う人の行動を気に病むことなく、どの人にもフラットな気持ちで挨拶ができ、私の雪かきは、雪の捨て場がないなりにも他の人に迷惑をかけぬようにとの思いで黙々と進めることができ、ついに私は無事に雪かきを終えることができる。この雪の中をがんばって出社し無事に帰ってきた妹は、きっと安心して車を停められるだろう。
それが、私の、今日の最善。
あとはこの気持ちを、もっと近しい人や仕事で直接的に関わる人たちにもいつも持てたなら、きっと、より気持ちのよい日々を過ごせますね。
ちなみに今回雪かきの後のお昼に食べたラーメンが、とても美味しく感じました。