【公演レポート】パリ・オペラ座バレエのエトワール、ミリアム・ウルド=ブラームが「ジゼル」でアデュー
2024年5月18日(土)19:30- パリ、オペラ・ガルニエ
優雅で可憐な集大成のジゼル
2月のパリ・オペラ座バレエ団来日公演から約3カ月。
ケネス・マクミラン振付「マノン」でマチュー・ガニオを相手役にタイトルロールを踊り、日本で最後の全幕の舞台でその輝きを見せつけたミリアム・ウルド=ブラーム(以下、敬称略で失礼します)。パリ・オペラ座の精緻なテクニックと優雅さを体現するエトワールが、いよいよ本拠地のパリ・オペラ座ガルニエ宮で、その舞台とパリの観客、そしてカンパニーに別れを告げる日がやってきました。
演目は「ジゼル」。パリ・オペラ座で1841年に初演されたロマンティック・バレエの名作です。
このタイトルロールについては説明不要という方も多いかと思いますが、素朴で可憐な村娘と、そのジゼルが非業の死を経て蘇るこの世のものならぬウィリという、2つの全く異なる表現が求められることから、全幕バレエでも屈指の難役とされます。ミリアムは、首から肩、背中、腕の美しいラインと美しい甲を持つその繊細な足元から生まれる精緻なテクニックを通じて、優雅さと可憐さ、崇高さまでも自然かつ自在に表現できる抒情性と演技力を示し、第1幕、第2幕ともに非常に充実した集大成のジゼルを見せてくれました。
どの瞬間もミリアムのラストダンスと思うと、どうしても目が潤みそうになります。しかし、二度と生で見ることは叶わない踊りが刻々と繰り広げられていくとのこちらの感傷とは裏腹に、ミリアムはどの瞬間も自然に軽やかにそのふわりとした可憐な微笑みで瞳に光を宿しながら、脳裏に焼き付けるにふさわしいパの完成度で観客を魅了しました。
まずは、相手役の若きエトワール、ポール・マルクが演じるアルブレヒト(第1幕では身分を偽ってロイスと名乗っている設定ですが、込み入ってしまうので本文中役名はアルブレヒトで統一します)のノックに家から姿を現す、その第1幕の出から、観客の盛大な拍手と歓声がミリアムを迎えます。そしてアルブレヒトとジゼルが戯れるまさにラブ・コメディと言いたいような一連の場面では、微笑ましさゆえに観客から笑い声が漏れるのが印象的でした。
群舞との自然なコミュニケーションと息の合った踊りを通じて、周囲に抜きん出る美しさと優雅さを持ちながら、皆に愛されて穏やかに生きる幸せなジゼルの姿と、互いに思い合うアルブレヒトとの関係が印象的に伝わります。ミリアムの完成された一挙一動によってあらゆる瞬間が見せ場となっていく中で、特にジゼルが村の皆に囲まれて踊る第1幕のバリエーションでは、優雅なアラベスク・パンシェやランヴェルセ、アティテュードトゥール、チャーミングなポワントでのバロネと優雅なロンドジャンブ、素晴らしい速さの快活なマネージュと、さまざまな要素が詰まったその最初の大きな見せ場を、見惚れるばかりの精緻で軽やかな足捌きで一切の力みなく踊りこなし、大きな喝采を浴びました。
ラ・フィユ・マル・ガルデでエトワールに任命された彼女の変わらぬ個性なのでしょうか、可憐な親しみやすさと共に、周囲とは一線を画した優雅さの同居するジゼルの表現に魅了される中、母ベルタが弱い体をおして踊ることを愛するジゼルを案じて物語るウィリの運命に魅入られるような表情を目に浮かべる瞬間は、ジゼルの奥に潜む不安と予感を露わにするようで印象的に映ります。
バチルド姫との心温まる束の間の交流を経て迎えた狂乱の場では、深い悲しみと衝撃のゆえに自分の心の内に籠り、アルブレヒトとの思い出を一つ一つ辿りながら現実と非現実の狭間に囚われていくような演技。決して大袈裟ではなくあくまで優雅でありながら、その説得力と可憐さで観客の心の痛みと涙を誘いました。
ミリアムを一瞬でも見逃すまいと息を詰めて見つめるうちに、あっという間に終わってしまった第1幕。その演技は、アルブレヒトを演じた相手役のポール・マルクや、ジゼルを諦めきれずに恋慕うヒラリオンを演じたプルミエ・ダンスールのアルチュ・ラヴォーなど、カンパニー全体との息の合ったコミュニケーションを通じて成り立っていました。それについては、後ほど振り返ることができればと思います。
第2幕、ジゼルの踊りは、ウィリとして生まれ変わる瞬間の湧き上がる旋風のような高速回転、続く羽の生えたような軽やかなジャンプの連続から見どころが続きます。一瞬一瞬が、観客への、また続く世代のダンサーたちへのミリアムからの贈り物と思われましたが、中でもその白眉はやはり、アルブレヒトとのパドドゥでした。
上体を保って滑らかに上がるデヴロッペ・ア・ラ・スゴンド、体重を感じさせない超絶技法のリフト、そして、実体を持たないウィリとなったその体が空気の抵抗にも押されてしなるかのような空中姿勢。それらに寄り添うヴァイオリンとチェロの感情豊かな音色はジゼルの美しい心情を思わせ、ジゼルが降らせる白い花は彼女の涙でもあり、彼女そのもののようにも見えます。
アルブレヒトを死から救えたことに安堵し、彼に夜明けを指し示しつつ、その腕からすり抜けて地中へと戻るに至るまで。心を癒すかのような、慈しみにも似た崇高な愛と優しさを感じさせるジゼルでした。
華やかなカーテンコール
地中に姿を消すジゼル=ミリアムを見送り、それまで息をすることを忘れていたかのようにため息を漏らした瞬間、一つの完結が訪れました。そして終幕、一輪の花を手に立ち上がり、力無く歩み立ち尽くすアルブレヒトに幕が落ち始めた瞬間から、満場の観客から拍手とブラヴォーの声が盛大に湧き上がります。
カンパニーのアイデンティティと言える作品で飾るアデューは実に彼女に相応しく、一貫して極めて美しいものでした。ここからはその第3幕とも言える、盛大なカーテンコールの始まりです。
まずは通常の公演のように、コールド、脇のキャスト、そして主演キャストが順に登場して観客の歓呼の声に応えます。さらに、指揮者とヴァイオリン、チェロの独奏者が加わってのカーテンコール。そしてさらに幕が開き、共演者のポールがミリアムを舞台の中央にエスコートし、ミリアムは美しいレヴェランスで観客に応え、下手に退いて背後に控えるウィリはじめ共演者へと礼を送ります。
観客の盛大な拍手と歓呼の声の中、下手から現れた芸術監督のジョゼ・マルティネズが、白とピンク系でまとめられた大きな花束をミリアムへと渡しました。それを皮切りに、頭上から星を象った煌めく金色の紙吹雪が舞い始め、さらに多くの花が舞台へと投げ入れられます。
この日、客席には、ミリアムのエトワール任命時の芸術監督のブリジット・ルフェーヴルや、ミリアムを指導し道を示した当時の偉大なエトワール、マニュエル・ルグリの姿が、エリザベット・プラテル、パトリック・ド・バナと並んで見られました。また、すでに引退したエトワールのレティティア・ピュジョル、ステファン・ビュリオンらの姿も。
ミリアムは舞台上でポールとかたく抱き合います。次いでミルタを演じたエトワールのヴァランティーヌ・コラサントともハグ。
ミリアムの下のお子さん、ブルーのセーターを着た小さな男の子が駆け寄り、花束を渡します。そのまままたパタパタと駆け足で離れていく我が子を、ミリアムがハグしようと手を伸ばして追いかけ抱き止める様子に、客席から微笑みが漏れます。夫君のミカエル・ラフォンと上の息子さんも登場し、心温まる家族の一幕を皆が見守りました。
総裁のアレクサンドル・ネフや、さらに現在は指導を手掛ける古のエトワール、クロード・ド・ヴュルピアンはじめ、舞台にはブリジット・ルフェーヴルや、ステファン・ビュリオン、レティティア・ピュジョルが次々と現れ、ミリアムにハグをします。
また、現役エトワールのマチュー・ガニオ、ドロテ・ジルベールもカジュアルな様子で現れ、ミリアムとハグを交わし、笑顔で拍手を贈ります。飾らない彼らの姿に、カンパニーの温かい絆が見えるようでした。
ブリジット・ルフェーヴルがルグリらの座るバルコン席を指し、ミリアムに彼らの存在を教えたのか、ミリアムがそちらに笑顔を向けレヴェランスする姿も。
鳴り止まない拍手と歓声を浴び、ジョゼからの花束や投げ入れられた花を手に笑顔で優雅なレヴェランスを繰り返すミリアム。観客の前に最後の幕が引かれてもなお、拍手はその姿を惜しむように続きました。
ポール・マルクのアルブレヒト
今回、ミリアムの相手役としてアルブレヒトを務めたのはエトワールのポール・マルクです。2021年、コロナ禍中での配信による「ラ・バヤデール」でゴールデン・アイドルを踊り、世界中のバレエファンが注目する中、23歳でエトワールに任命されました。今年の日本公演で会場を熱狂させた「白鳥の湖」ジークフリード王子役も日本のファンには忘れがたく刻まれています。
彼の演技は気取りなく自然で、持ち前の優しさと人懐こさが溢れるようです。その身分からするとややカジュアルで気取らない面が強調されていますが、そうした性格からジゼルに惹かれるに至ったのかとも想像させます。第一幕、村の皆で踊った後に母ベルタからジゼルを隠す場面では、多くのカップルが背中合わせになる中、バックハグをする様子が非常にキュート。ジゼルがバチルド姫からもらったペンダントを見て動揺を見せる表情も、実に自然でした。
踊りではもちろん、彼の持ち味が遺憾無く発揮されます。高いジャンプと全身のコーディネーションの見事さからくるブレのない回転、確かなバランスと音楽性、そして余裕ある美しいフィニッシュ。高いカブリオールが印象的な第二幕のバリエーションはじめ、すべてがハイレベルな中で、第二幕のウィリに強いられて踊る場面のアントルシャシスは、そもそも高い観客の彼への期待をさらに上回り、初回のジャンプの高さに驚いた客席からざわめきが起こるほど。その直前、ジゼルがバリエーションの後下手の袖に入るのを追うグランジュテの高さにもすでに目を見張るものがあったのですが。
ジゼルが地中に戻り、ひとり残される終幕では、ウィリとなった彼女が再び彼の前に現れ、墓前の彼に降らせた白い花を一輪手にします。その素朴さもまた、ポールが踊るアルブレヒトの持ち味とジゼルへの心情が一体となって観る者の胸を締め付けます。
ミリアムがこの夜見せた数々の美しい踊りと演技は、その多くがポールとのパートナーシップから生まれたものにほかなりません。そして彼自身の見事な踊りもまた、この日足を運んだ観客が大きく期待し、期待を上回る大きな満足をもたらしたものでした。
ミリアムという優雅な美しさを極めたエトワールから、ポールという比類のない才能を持つエトワールへと、確かな線が引かれ、バレエの美しい伝統とパリ・オペラ座の栄光が受け継がれる様を、このアデューは象徴的に見せてくれていたように思います。
脇を固めるキャストたち
この日、ヒラリオンにプルミエ・ダンスールのアルチュ・ラヴォー、ペザント・パ・ド・ドゥにはスジェのマリーヌ・ガニオとジャック・ガストフ、ミルタはエトワールのヴァランティーヌ・コラサント、ドゥ・ウィリにはマリーヌ・ガニオとオルタンス・モーランが配され、いずれも特筆すべき素晴らしい演技を見せてくれました。
まず、ヒラリオンを演じたアルチュ・ラヴォー。登場時のマイムと表情で自分がジゼルに思いを寄せているが彼女には好かれていない、けれども諦められない、という心情をしっかり見せる自然な表情が印象的でした。それによって、その後のアルブレヒトへの嫉妬、想いを受け入れてもらえないことでアルブレヒトとジゼルにも向かう悲しみと怒り、そしてそれらが、ジゼルをアルブレヒトが騙していると勘づいた時に皆の前で暴露するに至る、彼なりの正義感で正当化された暴挙の理由を、しっかり理解させてくれました。
ヒラリオンにはヒラリオンの物語があり、それがジゼルやアルブレヒトの物語と絡み合うことで、物語に厚みが増す、ということを示すこの日の彼の演技は非常に好ましく、狂乱の場やウィリたちによって死に追いやられる場面でも、説得力のある自然な感情表現が印象的に見られました。
若手のホープがテクニックを見せるペザント・パ・ド・ドゥは3月のラ・フィユ・マル・ガルデで主演デビューを飾ったスジェのマリーヌ・ガニオとジャック・ガストフが息のあった演技を見せました。ジャックはバリエーションの最後で珍しく思わぬ転倒があり、客席が息を呑みましたが、それまでの踊りは連続するプチ・バットゥリーを含む難しいステップも見事。コーダでは持ち直して見事なフィニッシュを決め、満場の拍手を浴びました。
マリーヌ・ガニオのペザントは定評ある演技。ラ・フィユの経験を経てでしょうか、快活でチャーミングな表情に、より表現力が増したように思われます。快活なペザントから悲しげなウィリへの変容も、同一人物かと見まごうばかりに見事。ドゥ・ウィリのバリエーションをゆったりと大きく踊りましたが、足音を抑えてウィリの密やかな存在感を見せるなど、ジゼルにも通じる第一幕第二幕の演じ分けを見せてくれました。
オルタンス・モーランもラ・フィユで主演デビューを飾った新英です。ジゼルの八人の友人の一人として精彩を放ち、ドゥウィリでも見事なバリエーションを見せました。今は指導者として活躍する往年のエトワールのエリザベット・モーランを母に持ち、くっきりとした顔立ちの可愛らしい小柄なオルタンスは、印象的な演技とキレのある確かで心地良い踊りを見せ、間違いなく今後が楽しみなひとりと思われます。
今回のジゼルで組まれたキャスト中、エトワールで唯一ミルタを演じているのがヴァランティーヌ・コラサントです。華やかな美貌と洗練された強いテクニックの持ち主で、ミルタの登場シーンからバリエーションまで、美しいポーズやアラベスク、ミルタを特徴づける大きなジャンプなど、そのすべてで高い満足感を与えてくれました。女王としての威厳もさすがのひとこと。ヴァランティーヌは英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、マリアネラ・ヌニェスの客演日にもミルタを踊る予定ですが、どのような競演になるのでしょうか。
最後に、マニュエル・ルグリのグループ公演で日本でも脚光を浴びたスジェの頃から、長らくその芸術を通じて喜びを与えてくださったミリアム・ウルド=ブラームに、心からの感謝と敬意を捧げます。
優雅で暖かく美しいその存在感と精緻で繊細ながら確かな踊りは唯一無二でした。幕がおりる最後の一瞬まで、本当に素晴らしい舞台を、ありがとうございました。