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和牛券の使い道

ひとが喰らうとニュースにはならないがひとを喰らうと騒ぎになる。

数多い日本の報道モノは金品を渡すか広告を出すか、政治家に頼むかなどと要はおカネを払えば黒いモノでも白くして報道してくれるモノばかり。その多くが操作された情報を流してくれるか真実を黙って触れずにいるメディアばかり。

そんな中で唯一信用している文藝春秋の文春系。特に文春オンラインだけは毎日欠かさず触れており、そこでふと目にしてしまったものが大正4年に起きたヒグマが民家を襲った”三毛別羆事件”を題材にその地を筆者が一昨年に訪れたという記事『「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」史上最悪の獣害“三毛別羆事件”現場復元地を訪れると…』でした。

この手の手記原稿、読んでみて何を思うか?は読者との関係性に由来してしまいひとそれぞれではありますが、今回のものはたぶんその読んだひとほとんどが「怖い」「恐ろしい」というざっくりとした感想しか出ない話なのではないでしょうか。私も途中まで何の面白みもなく読ませていただきましたが、最後の最後に『クマの祟り』に面白さを見出しました。私の伴侶ならきっと「熊の住む場所に家を建てて住み始めたひとが悪い」と言うであろうことも含めてラストが面白い。

熊とひとの棲み分け、祟りという私の一番面白いと思う部分はひとまず置いておき、熊が民家に出没するという話は私自身田舎が群馬という山に接して育ってきたこともあり「帰りは気をつけなさい」という先生の話が脳裏に残っています。ひとが襲われて内臓から喰われという話は都市伝説(田舎伝説?)として口から口、親から子へ伝えられ、襲われる人数が増えるとこうして何十年経っても記事になって残るようです。しかしその数以上に毎日繰り返し殺されて喰われている牛や豚、鶏がニュースになるのはその動物達が盗まれるという工程を経るか病気で大量殺処分ではないと話題にすらしてもらえません。

牛や豚、鶏などが”殺されて喰われる事”が「怖い」「恐ろしい」にはならないのはやはり各自の生活の中に”殺されて喰われる者”としてそれが当たり前のようになってしまっているからなのでしょう。例えるならば、殺されて肉として売買されるモノが牛や豚、鶏ではなくヒトであったとしても、それが流通で食卓に並ぶモノであったならば何らおかしくないのでしょう。物事がおかしい、おかしくないという感覚、そのことを養うものも日頃からの報道や情報からだったり、慣らされていたり、常識にされてしまっているからなのではないでしょうか。

政治家にカネを渡し、自分たちのやりやすいようにしていることも鶏肉協会の献金がバレたことで明らかになったし、昨年のちょうど今頃、どさくさに紛れて税金を使い国民に和牛券を配ろうとした自民党幹事長で明るみになりました。彼ら動物肉業者の団体、協会は何のために賄賂を政治家に渡さなければならなかったのか?を考えてみたら答えは自ずと見えてきます。このご時世外食産業が次々に経営難に陥りお店をやむなく畳んでいる中、焼肉店が店を閉めて空き家になっている場所を見ていません。いやむしろ唐揚げ店を中心に店舗数は増え続けている気がします。

日本だけでみてみると、犬を殺して肉として食すことは韓国、中国からの話としてそんな時代を経てきました。猫に至っては「某最大手ハンバーガーチェーンの肉ではないか?!裏に皮が剥いであった」などと話題になる時代を経験してきました。実際今でも続いているところもあります。ではこの犬猫の肉と牛豚の命の違いとはなんでしょう?!

犬や猫は繁殖して高価に売買されるから食べずに生かされているのでしょうか? 牛豚は殺して肉として出荷されることが前提に繁殖されているから当たり前のように殺して食べられている?!のでしょうか。もし仮にヒトを肉として売る時代が訪れ、繁殖して臓器は医療用として高く売り、他の肉は肉で高く売る時代がやってきたら普通にヒトの肉を食べられるでしょうか?!実際に世界では歴史を調べたらそんな時代も実際にあったようです。肉食だけではなく殺して毛皮を剥ぐアパレルブランドもだいぶ少なくなってきました。時代は流れています。

あなたが動物の肉を食べている限り政治家は太り続け、テレビ局や報道機関は広告出稿をもらえ、そして何よりあなた自身は祟りで寿命を短くしている。

この文春オンライン原稿最後に書かれていた祟りによって命を落とした話だけではなく、”祟り”と言ってしまえば片付けられる不可思議なことは多々あります。そこで従事している人々の亡くなり方、平均寿命を調べたら面白い結果になると思います。

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石島 道康 / Michi ISHIJIMA
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