吹っ切れた。
noteを変える。
noteというプラットフォームの概念を俺が覆してやるとかそういうパラダイムシフト的ドデかいことを言っているのではない。
己のnoteの書き方を、根本的に変えようと思う。
こう決断するに至った理由はなんだろう。
大学の先輩から紹介していただいたベストセラー本の課題を毎週こなしていくことで創造性、そして行動力が向上してきたことだったり、
最近同じシェアハウスに越してきた友人のnoteの文章に感化されたことだったり、
他にも色んなシンクロニシティだったり様々な要因があるだろうと思われる。
しかしながら、
極めつけは間違いなくこれ。
”芸術は爆発だ”、でお馴染みの岡本太郎氏の著書、『自分の中に毒を持て』。
起業家、芸術家など多くの著名な方々がバイブルにもしているとされているこの本。最近Youtubeを見ていたらあるチャンネルで紹介されていたことから、興味を持ってKindleにて購入。著者のあらゆる言葉が熱を帯びており、ずっと心に刺さり続けた。
損得勘定なんていい。ありのままで、純粋に生きろ。そんなメッセージがひしひしと伝わってくる。
この本を読んでいた時、ふと思ったことがあった。
俺がこれまでにnoteという媒体を用いて表現した俺は、ありのままの俺か?
否
媚びてるだろうが
今まではです・ます口調の文体でどんな人が読んでも分かりやすく、そして失礼のないように、当たり障りのないような文章を書いてきた。
雑記ブログは読まれにくいという情報を知り、時勢を鑑みて主にeスポーツにテーマを絞ったnote記事を作成した。
多くの人を惹きつけるために、できるだけ多く画像を貼ることを念頭に記事を作っていった。
だがそれは人に見られることを意識しすぎているのではなかろうか。
言葉を選ばず言えば、媚びている。
そのような表現法が自分の伝えたいことを伝えるのに最適解な書き手も当然多くいらっしゃるだろうし、方法自体を否定しているわけでは全くない。
が、自分がその方法を用いて本当に表現したいように全力で表現できていたかというと、素直に頷けない。
表現。
そうだ。学生時代にやっていた落語のような、人前で何かを演じることだけが表現ってわけじゃない。書くことだって、列記とした表現なのだ。
僕は表現するにおいて、昔から絶対曲げたくない自分のポリシーがある。
100人にそこそこの評価をされるより、数人にゴリゴリに刺され。
作品とは時折人を大きく動かし、人生観そのものをガラッと変えてしまう。
現に僕は前述した岡本太郎を筆頭に、数多くの作品、表現によって大きく変えられた、そして文字通り救われたのだ。良い方向に。
そんな力が表現という行為にはあることを僕は知っている。
だからこそやるからには受け手がふーん、そっかー、納得…くらいのもんで終わらせたくない。
やりたいんは、
心臓にズシンと響くやつだろ。
人を感動させるのは、いつだって自己を飾らず投影したものだ。
それはある種不細工でカッコ悪いものかもしれない。
だからこそ万人受けはおそらくしない。
だがそれがいい、それでいい。
そうだ、取り繕う必要はない。
脳みその中に渦巻く衝動、感動、レイジアゲインストザ何とかをそのまま画面上に表現しろ。
チバ、ベンジー、向井、の子…自分の精神の礎となっているミュージシャン達だってみんなそうしてきたはずだ。
カブってる猫は捨てた。いや捨てるのはかわいそうだから部屋の隅において念仏を唱えよう。人間が偽物を演じる度に毛皮にされる猫という生き物もかわいそうったらありゃしねぇ。
読まれるか読まれねぇかなんかで不安になるな。曝け出しきれば必ず誰か、何かはついて回る。ビビったってしょうがねぇ。弱気はかっ飛ばす。とらドラのみのりんが言ってたろ。
これからはざっくばらんに、書きたいこと、書きます。バーンとやりゃええのよ。やりゃええの。