1009/1096 私が毒物だったころ
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1009日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1009日目。いやいやいやいや、ない!ないでしょう!もう1000日目から9日も過ぎちゃったぞ?覚悟がついていかないじゃないか~!
三年先を、どれだけ先のことだと思っていたのだろう。感覚的には、三年の投稿なのに十年やっても終わらないような気でいたのだと思う。人はよく知らないものや重要だと思うものを過大に、よく知っていて重要でないと思うものを過小に見るところがある。だから、あらゆるものごとを、いつも個人的な重要度設定によっていろんな大きさに拡大縮小して見てしまっている。
わたしは、常々自分が重要だと思うことをまったく重要ではないと考えてみたいと思う。また逆に、今の自分が重要ではないと思っていることを、重要なのだと思ってみたい。
そうやって見ることが、なにか良いことだったり、自分を変えてくれたり、そのほうが真理に近いからかもしれないからだったり、より視点が大きくなるからだったり、執着を手放せるように思えるからではなく、ただ面白そうだからだ。それによって驚きたい。概念がひっくり返ることが面白そうだ。だまし絵を見ると、人は自然と見方を切り替えてみたくなる。それは、自分を変えてくれたり真理に近づいてみたり人生を良くできるかもしれないからではなくて、ただハッと驚きたいからだ。それと同じように。
1096日が終わったときに、実は大した重要なことが起こったわけではなくて、「ただ三年間書いただけじゃんw」という覚めきった感想を持つ可能性がちょっとあることに対して、オープンでいたいという自分がいる。
それが虚しい気がするからといって、「感動で涙が出ちゃう!!」みたいな捏造を加えたくないと思う。自分に正直でいることは、いつもわたしたちにとってチャレンジ性のあることだな!
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わたしがクラブで働きはじめて間もない日に、Nさんというお客さんの席についた。Nさんは店の常連さんで、VIP扱いを受けている人だった。
Nさんはお店でNやんと呼ばれていた。Nやんは社長にもボーイにもホステスたちにも人気だった。なぜなら、店に来る頻度が高く、大盤振る舞いをし、遊び慣れていて、話が面白くて優しかったからである。
Nやんは、有名な老舗食事処の御曹司であった。そして、どうしようもない道楽息子であった。という噂だった。5日開店するうちの、3~4日は顔を出す。そして、VIP席で数十万を使って、そのあともホステスたちを連れて飲み歩いていた。
Nやんから、わたしはたくさんのことを学んだ。恩を着せずにお金を使う姿がそのままみんなの学びだった。Nやんは、夜の世界の常識について教えているという立場をとらないで、それをエンタメのひとつとして面白おかしく語って楽しませてくれる人だった。お店を出てから飲むときには、明日起きてから食べるものはあるのかと心配してくれる優しい人だった。そして、目から火花が出るくらい高いお弁当を、知らぬ間に電話で頼んで作らせておいて、帰りに持たせてくれたりするのだった。
わたしはそんなNやんに、自分の意識をひっくり返された経験がある。
ある日の接客中、彼が「歌舞伎町は世界一の歓楽街ですよねぇ、専務。表も裏も合わせると、動いている金がラスベガスの比じゃないからね」と言った。夜の仕事をしていることに対する自分の感覚が、それ一発で折り紙を裏返したかのようにきれいに塗り替えられたのだ。
わたしは「まだ新人です、この店しか知りません」というひよっこ気分でソワソワしながら出勤してきて、ひとつのお店でホステスさんごっこをしているような感覚でいたのだ。けれどもNやんのその言葉で、自分がどういう場に所属しているのかを、いきなり視力を得たかのように理解した。ひとりひとりのホステスが、ホストが、風俗嬢たちが、ボーイたちが担っているのは、その巨大な夜の世界を形成する細胞たちである。どれほどちっぽけな存在であろうとも、自分も間違いなくその世界の住人なのだった。
わたしがいたのは歌舞伎町ではなかったにしろ、昼間眠って夜起きて、日本の経済にネオン街から関わっていることに変わりはない。そのことが、突然にして見える化したのを感じた。着飾って、酒をふりかけあって、迫り、迫られ、目配せとメッキの笑顔を叩き売って、生まれるときにもらった純粋さを仕舞っておく袋の膜を破って、そこに金の束を突っ込んで。
あのときにわたしはやっとはっきりと、「自分はクラブ勤めのホステスなのだ!」と思った。自分にそのラベルをデカデカと貼った。あれによってわたしは、自分がなにをしているのかがわかるようになったと言える。罪の意識が生まれたのも、あれからだった。
まだ30代だと言うのに、Nやんはとても太っていて、顔色が悪かった。お酒の飲み過ぎなのだろうか、それはわからないけれど、でも豪遊の副反応で間違いがなさそうだった。いつも寝不足で、一体彼はどのようにして生活していたのだろう。わたしはNやんが心配だった。
わたしはすぐにNやんの指名をいただくようになった。彼の身体が心配だったにもかかわらず、Nやんがお店に来ると嬉しかった。嬉しくなってしまうのだった。わたしはバカ女郎だった。Nやんは本当は飲まないほうがいいのだろうし、確実に眠ったほうがいいのだろうと思うのに、売上が上がる。諭吉さんが微笑んでいる。だから嬉しかった。わたしは罪の意識に耐えながらボトルの注文に手を叩いた。
ごめん、Nやん。まだ若いNやんの顔色が悪くて、腹部のシャツがはちきれんばかりで、金色のカードからチロチロと血液が抜かれ、お金の脈拍が弱くなるのをわかっているのに、喜んでごめん。Nやんの接客をするたびに、自分が汚れるのを感じた。自分はどうしようもなく穢れてしまった。生分解できない、都会の汚物。太陽の当たる、草の育つ、そよ風の吹く世界に戻ってはいけないと思うほど、自分を毒物のようだと思った。自分が川に浸かったら、実際に微生物が死ぬような気がした。Nやんのおかげで、わたしは自分の仕事にも罪悪感にも、自覚的になれたのだった。
わたしが外で力仕事をはじめたのはこの後のことだった。土を掘って、植木の手入れをして、汗に血が混じってしまうと思うほどに働いた。全身が痛くて、頬に張り付いた髪の毛を払おうと腕を上げるだけで、筋肉や腱の位置が蛍光のペンで縁取りされたかのようにはっきりわかる。端から端まで痛いからである。
そうやって何年か、子どものように土にまみれ、男のように働くことをとおしてでしか、わたしは自分を許せなかっただろうと思う。汗はすごい。汗にはその人の懺悔が含まれているのではないだろうか。人の血には罪悪感が溶け込んでいて、力を使って筋肉を通ったときにだけ、その罪悪感は毛穴にすくい取ってもらえる。そして汗に雑じるときには懺悔となって下界に出ていくような気がする。汗水たらして働くうちに、自分をあんなにも悪いものと思っていたことが、まるで過去生のように、別の時間軸での出来事として思い返せるようになっていた。
それから今に至るまで、わたしは散々に自分の汚れを見て生きてきた。
でも、それでも、そうだというのに、わたしは自分を許している。
なぜって、理由なんかなくて、だってしょうがないじゃない(和田アキ子『だってしょうがないじゃない』参照)と思うからだ。なんの強力な説得力もなく、丸腰でこんなことを言っても仕方がないのだろうけれども、それでも、理由がないからこそ誰にでも言いたい。しょうがなかった。総合的に。わたしは宇宙の細胞で、つまりこれも宇宙の選択であるからして、と思ってしまっている。そう、わたしは力仕事や心の勉強によって、この宇宙を勝手に良いところだと解釈し、あのヘビーな罪悪感からここまで回復できたのだ。
そんなわたしは、あなたが今のようであるのは、仕方がないじゃないかと本気で思う。いいじゃないか。結構いいと思うよ。弱く醜くとも、でもやっぱり生きていいと、生きていてくれと、自然界がそう言っているのだから。まだやれることがあるから。筋肉も毛穴もあるし、たくさん試せるから。まだまだ遊べるのだから!
朝目が覚めたのなら、それは神さまからの「今日もやっていこうぜ~!」のお誘いなのだ。あなたとダンスがしたいのだ。自分が目覚めたとき、この世界を担う細胞のひとつが今日も起こされたと思ってみて。
あなたは、過去にどんなふうに生きていたって、それはしょうがなくて、今日は遊ぶ日で、未来はよりどりみどりの希望でいっぱいだ。だって、それを否定する方法がないでしょう!
自分を毒物だと思ったって、大丈夫大丈夫。わたしたちの、「あたしは世界の毒なの。生まれた意味のないつまらない存在なの」みたいな感覚ってもう、ただの自意識バリバリの厨二病なだけだものね。それに、そんなに大した毒になれやしないから、大丈夫。川に入っても、雑魚すら死なないよ。なんだかんだ、今日もこの世界に調和して生きられてしまったでしょう。そんなあなたはこの世の自然物です。
というわけで今日は、つれづれな毒物時代の思い出と、そこから開放されている今の気分のシェアでございました。
それではまた、明日ね。