見出し画像

1027/1096【往復書簡】ほら見たことか、少しは生きたままやりたいことがあるじゃないか

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1027日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1027日目。つぁっ…!!とうとう70日を切って、残りは69日となってしまったではないか。恐ろしい!!もはやゴールは恐怖ですらある!!このままでは、あっという間に60日を切ってしまう!!なんたること…!!

こうなってくると、一日の進みの速さたるや、禍々しいほどである。

この分では、自分はすぐに死ぬ。わたしはこんなにもこの世界に恋をしているというのに。こんなにもこんなにも、世界ランキングで上位に食い込むのではないかと自惚れかねないほどに、青空や海や草や夕焼けたちと、別れ難いと思っているのに。だからなる早でこの世界に飽きて、「お前とはもう終わりにしたいんだ」とかなんとか言ってこっちからフッてやりたいのに。そう思えば思うほど、後ろ髪惹かれてしまうのだ。

早く飽きるには、相手を知り尽くすことだ。
知り尽くすには、どんどん脱がして飽きるまで好きなようにしまくることだ。けれども、そうすればするほど生は光り輝き、この世の魅力を知ってしまう。生きるとは、なんと切ないことだろう。

この切なさ、プライスレス。毎日投稿を始めて、よかったなあ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!避難所生活を終えて、また荒野に放たれたのですね。圭吾さんの身を案ずる者としては複雑な思いがします。深い部分ではいつも大丈夫だとわかっていながらも、表面的な情けが言うことを聞きません。寒い、暑い、寂しい、心細い、などの思いが、軽くあってほしいと常々思ってしまいます。早く遊びましょう!!わたしもなる早で日本に帰国します!!思いの丈を語りあい、また一緒に歌いましょう!!

わたしは自ら『気随身体術』と名付けた、身体の好き勝手に動くというおかしなことをしております。これはなかなかに奥深く、トレーニングと呼ぶことのできないものです。なぜなら、練習や訓練ではないからです。そのため、なにかがうまくなったり、なにかを達成できたりはしません。ただその場で動きたい動きをするだけなのです。しかし、えも言われぬ満足感や解放感のある不思議なものです。わたしはこれがとても好きです。

今日は胸の前で両肘から先をぴったりくっつけて、拳をにぎってこちらに向けて、その拳を一旦前方に倒してから顔の前まで持ってきて、そのまま肘の方から左右に離し、肘をそのままかぎりなく水平に保ったまま背中側で近づけ、また胸の前に持ってきて肘から先をぴったりとつけ、同じことを繰り返す…という動作を目を閉じて中腰のままやりたいと感じて、意味不明にしばらくやっていました。なぜ身体がこの動きをしたかったのは、わたしには不明です。しかし、繰り返してやっていくうちに、無心になって流れるように動くことができます。そして、ハッと気づけばわたしはイタリアにいて、いつもどおりの家にいることに驚きます。そのあとはなぜか気分爽快です。身体は不思議です。

身体の好きなようにしようとすると、「身体ではなくて、心の好きなようにしているのではないか」という疑問とどうしても対峙することになるのですが、ここが深遠なポイントです。でもわたしが勝手にやっていて発見した限りのことですが、その疑問は答えが出て解決するのではなくて、その疑問自体が成立しなくなる時が来ます。身体と心は別のものなのではないと感じたり、「好きなようにしている」という言葉の定義が変わったりして、いつの間にかどうでも良くなっています。この身がひとつあれば、われらはいつだって自分と出会い、楽しみ、遊ぶことができますね!!

不謹慎な思いなのかもしれませんが、戦争が起こる理由が少しだけわかりました。悲劇的な出来事は、できることならば避けたいと思います。しかし、悲劇的な出来事に触れた体験を通じて、何百年も語り継がれるような物語が生まれたり、何百年も歌い継がれるような音楽が生まれたりすることがあります。残酷さと、美しさは、セットなのかもしれないと思いました。

本当にそうですね…われら人類の過去の悲劇的な出来事は、わたしたちにとっての大切な宝なのだと思います。もしもわれら人類のそれぞれの個体が『ひとつの生命体』の各細胞のようなものだとすると、これまで亡くなった人の経験は、その『ひとつの生命体』の過去の記憶のようなものだと思います。

過去に亡くなった人達の経験は、子孫や関わった人たちの記憶に残り、あるいは語り継がれてそれを知った人たちの思いとなります。それは、わたしたち個々人が、自分の過去の経験から学ぶのと似たようなことだと思います。われら人類がみなで違った経験をして、それは次の世代に記憶や思いとして受け継がれ、その世代がそれを教訓や踏み台や知恵として使いながら生きることで、人類というでっかい一生物が少しずつ進化していると思うと嬉しいです。その生物は、つまりはでっかい自分です。若い世代の人を、わたしはその一生物の、新しい細胞だと思うのが好きです。また、年長の世代の人を、その一生物の進化をもたらすための知恵をくれた、馴染みのある細胞だと思うのが好きです。そしてそれらは一生物の細胞同士なので、まったくもって他人などではないと考えるのが好きです。

そう考えてみると、悲しく残酷な出来事も、われら一生物の痛ましい過去の経験であり、ひとつも他人事ではないのだと思います。とても変な話なのですが、だからこそどんなことも各細胞におまかせして良いということでもあると思います。わたしが胃の細胞なら、肝臓の細胞の代わりはやってやれません。でも、肝臓が元気でいてくれないと、胃も元気がなくなります。だから、胃の心配なんてしてくれなくていいし、胃の細胞になろうとしなくていいから、肝臓として輝いてくれたらいちばん助かります。自分の命も他者の命も”でっかい自分”の各細胞だと思うと、自分と他者との境界線はくっきりと明確になり、かつ完全に溶け去ってなくなります。俺たちは一蓮托生の一生物であり、それぞれの持ち場がそのまま使命のようなものですね!!

過去や未来に対する執着がない人間を、無敵と呼ぶのだと思います。恐れや不安は、常に過去や未来から来ると思います。だからこそ、徹底的に今を生きることが、絶望の拒否になるのだと思います。今を生きる限り、誰でも、この瞬間から幸せになります。今、幸せじゃないのだとしたら、それは今意外に囚われているからだと思います。今。今。今。今。今という言葉を連呼することは「生きる」と連呼することと同義です。徹底的に今に集中することで、生命力を取り戻すのだと思います。

過去や未来に対する執着がない人間を、無敵と呼ぶ。まさにそうですねー!わたしは過去や未来のことを思うとき、いつも「今」というものの不思議さを思います。いろんなところにおなじことを書いてしまっていますが、過去は0.000000001秒前も過去ですし、未来は0.000000001秒先も未来なので、今というのは過去と未来とを突き合わせたときの境界でしかなく、それは海と空気の境界のようなもので、そこには一切の幅がないことを思います。幅がなく、猶予がなく、今というのは「どこで過去と未来とを分けるのか」という分割点でしかないことを思います。

つまりそこには隙間がないので、今に完全にいるということは不可能なのだと思います。わたしたちは、ちょっと過去しか感じることができないのだと思うからです。どうしても、感じたことを神経を伝達して脳が判断して「こういう感じでした」とやるのに時間がかかるためです。脳の伝達レポートを受けるのにはわずかながらでも時間がかかるので仕方のないことですが、このことを踏まえて今に集中するとなると、「今の己の感覚の一切合切が過去である」と感じることになるのだろうと思います。それはもう過ぎ去ったことなので、そこにいかなる執着を持っても仕方のないことだとわかるのは、すごいことだと思います。自分を捨てるということは、捨てようと捨てまいとすでに終わってしまっていると気がつくことから始まるのではないかと思うのです。自分は過去と未来とを分ける分割点でしかなく、そこから観察している観察眼でしかなく、その経験者でしかないと思うと、あまりに極端な「何者にもならなくて良い自由」のために、自分がいないと感じます。「今に集中する」ということは、なんと奥深いことなのでしょうね!!

生きることが自然なら、死ぬことも自然です。なぜ、生きることは肯定するのに、死ぬことを避けようとするのか、覆い隠そうとするのか、いけないことのように扱うのか、生と死はセットではないのか、死に方を考えることは生き方を考えることと同義ではないのか、など、色々思います。

はい!!本当に!!わたしは、死を丁寧に扱うことは大賛成ですが、まるで悪いことのように扱うことが寂しいことだと思います。死は成長の一環であり、死による別れは心情的には寂しく切なく悲しいものですが、悪くはないし、不幸なことでもありません。こう書いたら語弊があるのは重々承知ではあるのですが、死別もまた広い意味で幸せのひとつだと思います。

わたしたちは、新しい細胞となって生まれ変わって、過去の教訓を生かしていく必要があるのだと思います。永遠の命を得たとしたら、わたしたち人類には知恵の新陳代謝が起こりません。同じ人が永遠に生きることによってそれを起こすのは、不可能なのだと思います。同じ人がもう一度全てを忘れて、もう一度子どものようにいかなる執着もなく新たな経験をするということは、すでにたくさんの経験をこの世界に残してきたものにとって実質不可能と言えることなのだと思います。

死の他にも、生殖に関することもそうです。性行為や出産や授乳をいかにも悪いことのように扱うのは寂しいことだと思います。それらを奥まった美しき秘めごととして丁寧に扱うのは好きですが、恥ずかしいこととして扱うのが嫌いです。誰もが自然と興味をそそられ、生命力と喜びを感じることだというのに、はしたないことのように扱ったり、グロテスクなこととしてまるでホラーのように扱ったりするのは悲しいことだと感じます。出産がめでたいことなら、互いの喜びとともにある性行為もまた、めでたいことであるはずです。性を否定して誕生だけを祝うのは、種まきを忌み嫌って収穫だけを喜ぶという、ある角度から見れば大変浅ましいことのような気がします。

なんとなく生きている人間は大量にいるけれど、生きる意思を感じさせる人間は少ない。多分、私はそこに腹が立っていたのだと思います。正確には「怒りを使って、自分の神聖な部分を守っていた」のだと思います。

これを読んで、幼い頃の思い出が蘇りました。わたしは冬のある日、母がこたつに入っているわたしに「掃除がしたいからどけ」(母の会話文は標準語に訳してあります)と言ったときに、「どうして掃除がしたいの」と訊きました。すると母は「したくなんかないが、しないと気分が悪いからしたいんだ」と言いました。これが、当時のわたしには理解できませんでした。

わたしには、母が掃除をしたいのか、したくないのかがわかりませんでした。したくなどないと言っているのなら、したくないのではないか。掃除をしたあとの部屋だけが目的なら、できれば誰かにやってもらいたいのではないか。掃除を自分の手でしたいわけではないのなら、それは「したくない」ということになるのではないかと思いました。

でも今思えば母は突き詰めれば掃除がしたかったのだと思います。サボったとしてもずっと気分が悪いし、かといって誰かに無償でやってもっても申し訳なく感じるし、だからといって自分が元気なのにお金を払ってまでやってもらうのもモヤモヤするし、詰まるところは自分の手でやりたかったはずだと思うのです。ただ、母がなにも考えずにただ「やりたくない」と思っていただけで、実際にやらずに済ませることを考えてみたことがないがために、本当はやりたいということを自覚していなかっただけなのだと思います。

これと同じように、なんとなく生きていて、「別段生きていたくなんかないのに、しかたなく生きているだけ」だと思っている人は、本当は生きていたい自分に、自覚がないのだろうと思います。ものすごく生に執着のある自分を、認識していないのだろうと思います。なぜなら、実際に「生きない」「人生がなくなる」ということについて考えてみていないからだと思います。死について、リアルに考えたことがない。死がぼんやりしてしまっている人にとって、生もまたぼんやりするのは当然のことだと思います。

「生きたくないのに、仕方なく生きている」と思っている人を間違っているとか悪いとかおかしいとは思いませんが、個人的には「別におふくろのことなんかなんとも思わない」「いても邪魔なだけ」と考えていて、いざ亡くなってみて初めてショックを受けてべそをかいている人に似ていると思います。そういう人には敏感な人にはない強さがあったりしますが、わたしはたとえば「いざ母を失えば悲しきことだろう」というように、自分の感覚を探ろうとして、そこに自覚を持とうとする人と一緒にいるのが好きです。

「生かされているから、仕方なく生きている」と思うことを、意図的に選んでやっている人はすげえと思います。たしかにね!と思います。わたしは、「今回の生を、とにかく死なずに生き抜ければいいんじゃねえの」と考えるのも好きです。「なにかを成さねばならない。財を得なくては、結婚しなくては、子どもを残さなければ、学歴を職歴を立派にしなければ、なにかを身に付けなければ、生きる資格なんかない」などと、どれだけ人生にプラスを得ようかと考えるのよりも、「生き延びられれば成功」「あとはおまけ」「ただの娯楽」と考えるほうが好きです。エナジーエコだし無駄がないし優しいし広いし賢いと思います。

けれども、”「なにかを成さねばならない。財を得なくては、結婚しなくては、子どもを残さなければ、学歴を職歴を立派にしなければ、なにかを身に付けなければ、生きる資格なんかない」のに、それができないから生きたくない、ただ死ぬわけにもいかないから仕方なく生きている”、というのは悲しい。たまには頭を使って、錆びた思考に油をさしてみやがれと思います。「じゃあてめえいざ目の前に押したら死ぬボタンが現れたら躊躇なしに押しやがるのかァ!!」と思います。いや、いくらなんでも急すぎるので、押す前にこれをしてあれをして、、と思うくらいなら、その”この世界への執着”を刮目して見てみないのはなぜなのかと思います。ほら見たことか、少しは生きたままやりたいことがあるじゃないか!!と思います。

死を思うことはいつだって、わたしたちの今の「生への思い」を浮き彫りにしてくれますね。わたしは死に支度だと思って生きるのが好きです。

壇珠さんの存在が、永遠のロックンロールスターのように、孤独な男(俺)の夜空を煌々と照らします。もう、迷わない。崖っぷちな時ほど本領発揮してきた我々高燃費モンキーズ、必ずや崖の上で会いましょう!!

俺たち、今世では友になりました。幽霊は見えないので霊感めいたものはないのですが、自称シックスセンスの鋭いわたしは、圭吾さんのことは、出会ったことがまるで約束されていたかのようなことだと感じております。なにかを選ぶときに、たとえばそれがこの服を買うかどうか、今この一言を言うかどうかという些細なことであっても、自然と「いずれ死ぬのだから」というところから意識して選んでいるのだろうと思う人にはめったにお目にかかりませんが、圭吾さんには初見からバリバリにそれを感じ取りました。それもあって、圭吾さんとはあの世での会話のようにこの書簡を書いています。実際われらは、今この生きていた時代のことを「いや~生きましたね」「やりやしたね」と懐かしく思い起こすときの意識で話をしていますよね。語尾に、ね。とつけてしまえるほどの共感があることが、いつも嬉しいです!!

今回の書簡も、それを土台としているからこその安心感を持って書きました。こんなふうにやり取りができる相手が存在していることは、やはり超絶ラッキーなことだと思います。死んだところから話をして、死んだらと考えて道を選んで生きる自分は、今生きている自分を見て、今こうしてオンタイムで生きてるのヤバすぎるんだけど!!つかライブ放送じゃんなにやってんのすごすぎねえ?!と思ってしまうのですが、こんな変なことを言っても圭吾さんがノリノリで乗ってくれることを確信できて嬉しいです!!ありがとうございます!!この書簡も、死を意識して、死前書簡として書きやしょう!!生きているということは、”死ぬ前”だということである!!生きているということを、単に”死ぬ前”なのだと思いながら、生きろ!!ああ、こういうことを思うのが好きなのもわれらの共通点ですね!!死ぬから、生きやしょう!!ヘビーで羽の生えたメッセージを剛速球にしてぶん投げます!!いくぜぇ!!うおリャァアアアアア!!!(球速150km

それではまた、明日ね。


いいなと思ったら応援しよう!

菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)