1028/1096【質問回答】子どもの夏休みで自分のペースが乱される…
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1028日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1028日目。毎日投稿を始めたころ、そう言えばいつもいつも、文章が長すぎることに困っていた。書くことに慣れていなくて、調整ができなかったのだった。書き始めると、だあーーーーーっと書いてしまうため、つい長くなってしまう。それで、こんなに長いブログを誰が読むというのだろう、と頭を抱えていた。
もちろん、なかなか量を書けないことで困る人もいるのだと思うのだけれども、わたしは書きすぎてしまうことで困っていた。書くたびに、抑えたつもりでもひとつのブログ記事でダラダラダラダラと8000字ほどになってしまう。それで、毎日のように、そこから削り落とすことをしていた。そして数日に一回は、無駄が多すぎたり全部気に入らなくなって全ボツにして、新たに書き直して、そこからまた削っていたのだった。
そんなことがずいぶんと長く続いて、これは一生こうなのだろうなと思いながら格闘するうち、800日を過ぎるころには削り落としや全ボツがだいぶ減ってようやく少しだけマシになったと思ったら、三年のゴールが目前になってしまった。
人生はそんなに長くはないから、成そうと思うこととの付き合いとはこんなものなのだろうと思う。いつまでも磨けるし、いつまでも向上するし、一生学びなのだろうと思う。だから、努力を傾けるものの成長の喜びは一生続く。どこかに到達しなくていいものに取り組むのは、幸せなことだと思う。
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今日はこちらのご質問にご回答いたします。
わたしも娘が夏休みに突入し、しょっちゅうわたしの部屋に入ってきては、執筆を中断します。この期間は当たり前なのですがそれまでのようには動くことができないので、それに適応して毎日を過ごしています。
こういうことって、スパッと解決する、を目指さないことが大切です。なにか便利な方法で一発で解決できたら楽ですけれども、そうではないことですよね。なので、丁寧にバランスを探って行くしかないのです。
子どもと楽しく過ごしたい。でも、完全に自分のペースで動きたい。そこは比べていてもどうにもなりませんよね。いつまで経っても答えが出ません。どちらもできるだけ大切にして、自分で自分のためにちょっとずつ妥協して、調整して、譲歩しなくてはならないときです。
ここでポイントになるのが、「子どもの望みのために自分の自由が侵害される」という考えのままだと、どちらかひとつを取らなくてはならないという発想になって、選ぶことが困難になってしまうということ。
まずは「子どもと楽しい時間を過ごしたいというのは自分の望み」だと考える発想の転換が必要なのですね。
そしてそこから、「子どもと楽しく過ごすことも自分の望みなのだから、その時期はそれを大事にすることもまた、広い意味で”マイペース”だと言えるのではないか」と認識を発展させることもできます。
実際に子どもを誰かにずっと預けるとか、あるいは存在を無視して完全にマイペースに過ごすことを考えてみると、それはそれでさほどハッピーではありませんよね。もやもやするし、罪悪感を感じたりさみしかったりします。
子どもの幸せそうなところが見たい、子どもと楽しい時間を過ごしたい、と思っているのは「自分」なのだいう自覚を持つことは、大きな助けとなりますよ。子どもと楽しく過ごすことも、「あくまでも自分をもやもやさせないためなのだから、自分の望みなのだ」という自覚があると被害者の気分にならずに済みます。
マイペースでフリーでいたい、という望みもあり、でも子どもとも楽しく過ごしたい、という望みもあり。こういうことって、子どものことに限らず、これからもたくさんあると思うのです。
わたしで言えば、今日は疲れているからなにもせずに寝ていたい!という望みがあり、でも毎日投稿は途切れさせたくない!と、相反する望みを持っている日があったりします。こういうときは、自分の中の優先順位をしっかり決めて、自分で自分のために譲り合いをする必要があります。
一日サボる喜びを、これまで1000日以上もゴールを目指して書いてきた毎日投稿をやめてまで買うのか。これでは、飴玉ひとつのために会社を辞めるくらいに馬鹿らしいことです。優先順位をはっきりさせたら、答えは出ます。迷いが断ち切れます。サボろっかな、ということが選択肢にも挙がってこなくなります。
わたしのこの例でいうと、わたしにとっての毎日投稿が、質問者さまでいえばお子様のことが、自分にとって「どれだけ大切なのか」が揺れているときに、こうして他と比べさせられる気持ちになるのです。
なにかの状況によって、もしも毎日投稿が途切れてしまったら。もしも子どもと二度と夏休みが過ごせなくなったら。わたしたちはその時なって初めて、それを鬱陶しいと思ったことがどれだけ愚かだったのかを知ります。「あなたが尊重したいものに対する大切さがわからなくなっていますよ、ちゃんと目を開きなさい!」という神さまからのサインなのですね。
わたしたちは、自分の持っているいくつもの異なった望みのために、自分で自分のために時間を割いたり努力をしたり、たまには我慢をしたりすることも必要です。それはすべて、自分のため。「自分の気ままなペースを乱してくる存在を愛している自分」を、そのまま大事にしてあげてくださいね。それもまたあなたのリズムであり、あなたのペースなのです。
日によって、心を込めたのに無駄になったと感じたり、ちょっとしかやることがなくてもとても大変に感じる日あり、大変な日だったはずが意外と楽に楽しく感じる日あり、子どもと過ごす期間って、心がグラグラに揺れる日々ですよね。
でも、この迷いながらのてんてこ舞いの日々こそが、子育ての醍醐味なのではないでしょうか。なんの迷いも苦労もなく子どもを育てている、というほうが怖い。親らしさよりもロボットのような機械的なものを感じます。自分のやることは完璧だという信念のもとでの子育ては、子どもを萎縮させてしまうのだろうと思います。
子育てについてのご質問はたくさんいただくのですが、迷いをなくしたい、楽になりたい、正解が欲しい、というものがほとんどです。でも、正解がないのが正解、迷いがあってこそ順調なのだとわたしは思いますよ。友人関係や夫婦関係だってそうですが、手探りだったり迷いがあったりしてこそ健全なのだと思います。人付き合いとは、ボタンを押せば解決するようなことがひとつもなく、葛藤と難しさがあるからこそ、最高にやり甲斐と感動のあることなのではないでしょうか。わたしたちは機械ではないのですもんね。
子どもは、親が葛藤したり迷ったりしながら、それでも投げ捨てずに自分を育ててくれる姿を見て「自分が葛藤したり迷ったりしたときに、その状況を投げ捨てずにホールドして物事に取り組む姿勢」を学びます。ですからこの迷いながらの子育てそのものが、親らしい、親からのプレゼントなのだと思いますよ。
お互い頭をたくさん悩ませながら、心と身体を使って、子育てがんばりましょう!子を思って迷うお母さんは素敵です。
さて今日はここまでにします。
それではまた、明日ね。