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806/1096 完璧じゃないのが、われらの”完璧”

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で806日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

806日目。天気も悪く、寝不足のために眠たくて、コロナの規制でいろいろ制限されていて、ゲームのことでかなりがっくりきていて、元気がない。そんなわたしは今日も絶好調だ。

なぜにそれで絶好調なのかと言うと、人生山あり谷あり、こんなものだからだ。今ちょっとした谷にいるのだ。つまりこのあとに山があるってことなのだし、天気はそのうち良くなるし、眠れば眠気はどこかに行くし、ゲーム上の失敗は学びだ。なにより今日も生きている。死んでいないとは、これぞ好調な証拠だ。

わたしはたとえば真剣にやっているゲームですら、どうやら複数の方面に気を張っていることが恐ろしく苦手だ。無理すぎる。とくに、面白くない方面へ気を配ることができず、記憶喪失ですか?というくらい100%抜け落ちてしまう。これはもう真にどうにもならないようだ。目の前のこと+気になること、にしか集中が向けられない。だからこれはつまり、わたしは複数の方面に気を張らなくてもいいということなのだ。そういうことが得意なようには生まれついていないのだ。

しからばわたしはここで、たとえば今後、忍者やスパイになることを諦めようと思う。探偵、刑事もダメだ。他にも、同時に複数の方面に気を張ることはしないで生きよう。梁の下にいる仇敵に集中していると、背後から近づく殺し屋に気が付かないだろうから…

毎日ブログを書くことは、そう考えれば「やれること」だったのだな。毎日コツコツなにかをするのよりも忍者のほうがはるかに向いている気がしたのに、人が自分に持っているイメージなんて、劣等感や自己否定を材料にして作った添加物たっぷりのものだと思う。

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わたしが意識の勉強を始めてからいちばん乗り越えるのが難しかったことは、ぬぁんと、今はこんなんですが、意外にも、こう見えて、「完璧主義」でした。わたしは「完璧主義」だったのです。ウホホ!!今となっては嘘のようですよね。なんだか前世のことみたいに、昔々のことに思えます。

自分でそうだとは気がついていなかったのですが、なかなか自分の思いたいように思うことができなくて、小さなツッコミをやめられなかったのでした。たとえば自分をこのままで完璧だと認めることができなくて、「いや、自分はろくでもない盗人だ」とか「気の小さいチンピラ崩れさ!」とか「卑屈で自分勝手な情けない人物だよ…」とか「三日坊主でまともにお勤めさえできない負け犬じゃないか!」などと考え、とてもじゃないがこのままで完璧だなどと言えない!!と強く強く思ったりしていたのです。

それを脱した時の喜びを、今も覚えています。喜びでもあったけれども、同時にもうただただ、自分で見えていなかったものが見えて、見ていたものが幻だったとわかったときの「うわあああああなんてこった、ただそう決めるだけだったのかよ~~!!」という脱力がすごかったのでした。

真剣になんとかしようとして必死こいているところで、小野ヤスシが『ドッキリ』と書かれたフリップを持って現れたのを見たような感覚でした。ごめん、昭和すぎたか…(『スターどっきり㊙報告』参照)

自分を認めることについて、わたしはドッキリに引っかかっていたのでした。「完璧というのは”他者と比べて優れている”ことが不可欠だ」という価値観に染まった世界にいてもがいていたのに、種を明かせば「はい他者関係ありませんでした~」「はい優れている必要ありませんでした~」というドッキリだったのです。それにまんまと引っかかっていたのです。悔すぃ~!

わたしが完璧にわたしであるために、他者と比べる必要なんてどこにもなかったのです。わたしであれば、完璧にわたしです。ただ生きているだけで、もうそれは達成されていることなのでした。

たとえば虎一匹を見たときに、みなさんは完璧な虎だと思いますよね。虎はたしかに、どの虎も完璧に虎です。怪我をしても、死ぬ直前でも、オスでもメスでも子どもでも、みな完璧に「虎」です。

怪我をしたから一部が虎ではなくなる、ということはありませんよね。「あ、こいつ怪我してるから一部は犬だね」ということはありません。怪我をしてもなにをしても、虎はそれ単体で、虎100%です。完璧に虎です。完璧に虎であるために、別に他の虎や他の動物よりも優れている必要はありません。

虎がもし、「俺ライオンよりも弱いんだよ、だから完璧に虎とは言えないと思う…」と悩んでいたとしたら、どうでしょうか。「いや、お主めっっっちゃ虎だと思うよ。100%完璧に。つか虎でしかないよ」と言っちゃいますよね。これと同じことだったのでした。

わたしはなにをしていてもわたしで、これで完璧なのです。ダメでも壇珠さん、腐っても壇珠さん。ただ単に、そういうことかいな!!と思えばよかっただけなのでした。もう世界にこの個体しかいないし、いろいろダメなところがあるにしろ、そう創られているのです。虎はアリクイのように長い舌を持っていないし、魚のようには泳ぎが上手くありませんが、完璧に虎です。それが虎で、そう創られたのですね。わたしたちだって、同じだと思うんです。わたしはこのままで完璧に、壇珠さんです。

わたしたちは、完璧を目指してしまいがちですよね。ついつい。完璧主義だった頃の自分は、自分が100点ではないということばかり考えていました。マイナスの部分ばかりに目を向けていたのです。1点悪くてもそこばかり気にする。99点の良いほうを見ないで、1点のダメを気にして「いや完璧じゃないです」などとやっていたのです。

けれども、それは終わりのない戦いです。どこまで良くなっても、人って完璧になることはないから、ずっと戦いは続いてしまいます。

これを終わらせるには、今の自分がそのまま、これで完璧だと思うこと。これは、もうまったく向上しなくていいとか、良くない点がないとか、これ以上はないなどという意味ではないのです。誰しもがもっと成長できるし、心構えが良くなったり悪くなったりなどの波もあるのです。人ってそういう生き物ですよね。もうその時点で、完璧です。これで完璧なんです。

それを認めるというのは、「~になれば、~さえできれば、完璧になりうる」という概念が落ちるということ。不完全なのがわれらの完璧な姿です。するとほら、じゃあなにが完璧でなにが完璧でないのかが、よくわからなくなってきますよね。そんな観点で採点する必要がそもそもないのです。ほらここで、小野ヤスシがフリップを持って出てきましたでしょう?!(笑)

これでいいのだとわかるとき、今後変化してもいいのだともわかります。ものすごく諦めた態度に見えるかも知れませんが、こんなんでいいのだから、どんなんでもいいのですよ。(笑)自由に変化していっても、それでまったく無問題です。

こうしたことに気づいてからわたしは、心理的には劇的な衝撃を受ける気付きとともに、完璧主義から足を洗いました。あいや~~ただ自分はいつだって、「今」以上でも以下でもなく、「今」の自分だったでねえか!!!と思った時の脱力と、同時に感じた「なんだっていいんだもの、好きにやってこ感」が嬉しかった。一生の思い出になる記憶です。

というわけで今日は、自分でつくった完璧主義の檻から出よう出ようとしていて、「檻自体が幻でした~」と誰かがドッキリのフリップを持って現れたときの感覚についての、簡単な説明のシェアでございました。考えてみればあのフリップを持って出てきたのは、自分自身だったなあと思います。本当に自作自演だったのですね。いい思い出です。

今の自分を受け入れたいけれどもできない、という人は「人よりも優れなくてはならない」という思い込みについて、疑いの目を向けてみると面白いかも知れません。虎がそのままで100%虎であるように、アキラ100%さんがそのままでアキラ100%であるように?、あなたもそのあなたしかこの世にはおらず、そのあなたで完璧完全にあなた100%ですね。そう創られたのだから、そこから生きればいいのです!!誰かの発想の刺激になりますように。

それではまた、明日ね!


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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)