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1038/1096【往復書簡】その二択の外に正解がある

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1038日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1038日目。日本のコンビニには鬼滅ラーメンなるものが売っていると知り、震えている。そんなにもあちこちに鬼滅の世界が見られるってどういう感じなのだろう。落ち着いて街を歩けない気がする。

イタリアにはヌーディスト・ビーチなるものがあって、そのビーチではトップレスの女性や全裸の男女がいる。現地に行くと意外とほのぼのとしているのだけれど、それを日本にいて想像すると、とんでもないことに思えるのと似ている。

あちこちに煉獄さんが、実弥が、義勇がいるだなんてヤバすぎる。いや~なんだろう、もうすごすぎ。祖国が遠い遠い黄金の国ジパングに思える…

この三年毎日投稿も、終わったあとにはとんでもない日々だったと思うような気がする。意外と今日のように落ち着いて書いている日も多いのだけれども、終わって離れたところからは、死にもの狂いの三年間だったとかいう印象になりそうな気がする。今がその渦中であることを思うと面白い。

生きることだってそうなのだ。終わってみたら、なんちゅう日々だったんだろう、地球に実際にいるという夢の中にいただなんて!と思うのだろう。

生きるということは、ヌーディスト・ビーチのど真ん中にいるようなものだ。

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圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!移動の時間を使って素早いお返事をくださってありがとうございます!!またすぐに返してしまい、ちょっと早すぎてウザくてすみません!!わたしはこの往復書簡の返信も毎日投稿にあげているのですが、できるかぎりこの貴重なやり取りを三年間の軌跡に残したいという心理が働き、お返事を書くのに抗えませんでした!!

どうしても自分のことを異物とか社会不適合者とか卑屈に構えた物言いをしてしまうのですが、実は、そこに誇りを抱いている俺です。俺の役割は俺が俺であり続けることだと思っている俺です。もっと言えば、俺が幸せであることがみんなの幸せになる、だから俺は容赦無く幸せであることが大切だと思っている俺です。

ぬぐぁ…!!この、容赦無く幸せであることが大切だという記述に胸打たれました。自分の幸せを遠慮する人が多い現代では、幸せであることに対して、容赦なく、と書くのが適してしまっているのだと改めて思いました。

多くの人が自分の幸せを考えることに遠慮を感じるのは、自分が幸せであるということが、わがまま勝手に居ることだという認識があるからだと思います。わたしはそこに一石を投じたい!!いや、もう多くの人が日々たくさんの石を投げているのだと思いますが、でもこのことはいくら石を投げてもいいというくらい、われわれ現代人にとっての大きな命題だと思います。

わたしは、自分の状態を芳香剤のように捉えるとよいのではないかと思います。自分が嫌な気分でいるときは悪臭が放たれていて、良い気分でいるときは芳香が漂っているものだと考えると良い気がします。自分が嫌な気分でいるときは嫌な振動が放たれていて、結局それは周囲の人の中の嫌な気分に共鳴し、嫌なものを引き出す効果があります。逆に、良い気分でいるときは良い振動が放たれていて、それは周囲の人の良い気分に共鳴し、良いものを引き出す効果があると思います。

こちらがどんなに、相手にとってはこうしてあげるほうが幸せなんだ、だから自分が我慢すればいいのだと考えたとしたって、相手の幸せというのはこちらの思い込みでしかないので、想定通りに行かないものだと思います。だったらもういっそのこと、自分が相手の良いものを引き出す芳香剤になっちゃおうと考えて、さっさと良い気分になり、良い振動を浴びせるほうが確実な効果を得られるのだと思います。だから、自分がどうすれば良い気分になるのかを知っていて、自分のご機嫌を自分で取れる人のほうが、より他者を幸せにできる能力も高いのだと考えると自然なのではないかと思います。いつも幸せの芳香を放っている人は、心にわだかまりがなく、他者を優先したときですら「これが自分の幸せだ」という自覚があるのだと思います。言い換えると、俺の気分は俺のもの。俺の幸せ部門の責任者は俺。俺は俺の幸福をまっとうする!!という、己の幸福について容赦のない人こそが、ついつい他者をも幸せにしてしまうのだと思います!!

自分の楽しさに集中するということは、誰もが当たり前にやっていることのように見えて、実際は結構勇気がいることだと思います。私自身、どこかで「お客様のため」とか綺麗事を並べて、自分が本当にやりたいことから目を背けていました。自分のやったことで誰かが喜んでくれる姿を見ることは、中毒性の高い麻薬です。油断をしていると、そこにあぐらをかいてしまうのです。

まさしくそうですね!!わたしもこのことを、ブログを書くようになってから徹底的に考えさせられました。とくにこのnoteでの毎日投稿を書くようになってから、多くの人が”癒やし”を得られる記事が好きなのだということに気が付きました。癒やされました、というメッセージが届くときは、スキやいいねの数も多いし、シェアやコメントも多いのです。

それはわたしにとっても喜びだったので、短期間でしたが積極的にトピックに取り入れている時期もありました。なんだかみんなとつながっている気がして良い気分にもなります。癒やしというのは、すごいカリスマ性をもちうるものだということも学びました。けれども、すぐにそこに違和感を抱くようになりました。そもそもわたしは、誰かを癒したいとは思っていなかったのです。癒やされるべき人を想定するのも好きではなく、それを思ってなにかを書くのもまったく性に合いませんでした。なんといいますかこう、自分をズルいように感じられるし、辛気臭く、つまらなくなってくるのです。

わたしの興味はもっと、世の中や生きることやこの宇宙のことを、こう解釈すると面白くないっすか!!気分よくないっすか!!という提案をしたかったのであって、それが読んでくれた人にどう使われるのかということは、どうでもいいことでした。読み手を完全に信頼してしまえばいい、と思えるようになるまでは、好きなことをぶちまけて書くとフォロワーが減ることにめっちゃビビって驚いたりしていましたが、今や屁の河童です。そして、こうなるとめちゃくちゃ清々しいのだとも知りました。われわれ、この往復書簡でも、それぞれがいつも清々しくなれることを書いていたいですね!!

誰のものでもない一人の人間が、誰かといる時間が「二人だけのもの」になるのだと思います。二人だけの時間を大事にするためにも、一人の時間が大事になるのだと思います。お互いが個としてはっきりしているからこそ、二人の時間も濃いものになるのだと思います。

うおお…!!圭吾坊やはこの部分ではぜんぜん坊やではなく、めっちゃ大人だと思いました。もちろんわたしも同じように思います!!前々回の書簡にも書きましたが、ラブソングの「君がいなくて寂しい」「一緒にいて欲しい」「ずっと一緒に笑っていたい」みたいな、愛着障害を美化したような歌詞に俺は辟易とします。じゃあトイレも一緒に行くのかよ。相手が泣いたときどうすんだよ。という小学生並みのツッコミがどうしても湧いてきてしまいます。そんなふうに好きな人とワンセットになっている人とは一緒にいたいと思いません。なぜならその人は、好きな人がそこにいないことで寂しい状態にあるからです。その人の心はここにあらずで、こちらはその人の寂しい時間の埋め合わせに使われていると感じるからです。

わたしは、「相手と一緒にいるときだけが、その相手のいるとき」なのだと思います。それ以外の時間は、相手は存在しないのと同じなのだと思っています。なぜなら、極シンプルに、相手が目の前にいないからです。いないのに、いるのだと思っているのはこちらの妄想の世界です。わたしは、目の前にない人は、自分の認識できる時空にはいないので、その時自分の世界に存在していないと認識します。目の前にいない相手は、目の前にいない以上、その瞬間の自分の世界に物体としては存在していません。周囲をキョロキョロしてもいないので、いません。わたしたちはそれでもその相手がどこかにいると考えますが、それはあくまでも自分の希望や予測に基づく妄想です。ですから、ただそのときにあるのは、自分の心の中の「その相手への思い」だけだと思います。

ほんとうは、その相手が目の前にいるときにも、自分の目がおかしいのかも知れないし、自分の頭がオカシイのかもしれないと考えるとさらに面白いです。ほぼ100%いるに違いないとしても、それはどこまでも自分の認識なので、99,99999…%はいると考えられますが、完全には証明のしようがないことだと思います。すると、わたしたちが誰かと一緒にいるときに感じているのは、あくまでもどこまでも、その相手に対する、自分の思いだけなのだと思います。わたしたちは厳密には、ずっと自分の思いだけと一緒にいて、それに一喜一憂しているのですね…!!だから「君がいなくて寂しい」というとき、正確には「君がいないとき、わたしは自分の寂しい心と一緒にいる」ということなのだろうと思ったりします!!

好きになろうと努力をするより、俺もお前もダメなところを抱えながらそれでも必死に毎日を生きている宇宙船地球号の乗組員だな、と思った時の方が深い連結を感じます。努力と我慢は似ていますが、本当の好きには努力も我慢もないと思います。好きになろうと努力をするほど、体は強張り、神経はすり減り、愛の本質から離れます。嫌いを好きに置き換えようとするのではなく、嫌いな部分は嫌いなまま、そのまま行こうと前を向いた時、嫌いな部分さえ愛であったことを知ります。

わたしは、「わたしは自分を愛しています。なぜなら自分には好きなところしかないからよ」と言う人と、「わたしは自分を愛しています。自分には嫌いなところもあるけれど」という人とだったら、後者と友だちになりたいです。また、「君を愛しているよ。なぜなら君には俺の好きなところばかりだからだ」と言う男性と、「君を愛しているよ。俺の好きじゃないところばかりなのに」と言う男性だったら、後者と恋人になりたいです。

なにかを嫌うのって、大事なことだと思います。たとえばわたしは戦争が嫌いです。人間が可哀想なのはぜんぶ嫌いです。動物が可哀想なのもすべて嫌いです。嘘ばっかりのラブソングも嫌いです。コンビニの音声のCMで聴こえてくる甲高いアニメ声も個人的に嫌いです。一言で言い切れるようなことではないのですが、あえて言うと死刑も嫌い。臭いオヤジも嫌いです。昔はよかったと言うやつと飲酒を強要するやつも嫌いです。これらを好きになれと言われても、動機がありません。好きになりたいと思いません。

自分に関しても、ビビリ屋なところが嫌いです。すぐに心臓がドキドキしておどおどした気分になるのが超嫌いです。人の言ったことを額面通りにしか受け取れなくて、失敗するところも馬鹿で嫌いです。怒ったときの顔も嫌いです。怒ったときにちらっと自分の顔が鏡に写ったりすると、山姥に見えます。電車の乗り降りで間違えるところもウンコだと思っています。激しく一点集中するために日常生活に支障があるところもアホすぎて参ります。わかりきった作業が異様に苦手なのも、ほとんど病気で嫌です。そして、これらのことを好きになれと言われても、動機がありません。好こうと思えません。というかむしろ、自分の好きなだけ嫌っていいというふうに思っています。これがわたしの好みであり、それを変える必要がないと感じます。

これら嫌いな点は、わたしが自分をないがしろにする理由になりません。ビビり屋のおどおど山姥が電車に乗れず異様な集中で生活ができずやるべきことがやれないとなるとそれはもう無能のクズですが、それらが解決して優秀になったからといって、それじゃ愛するわ、ってことにはならないと思います。それで湧いてきたのは愛ではなくて打算です。より褒められそう、より金が得られそう、より便利そう、より簡単そう、より人気が出そう、より愛されそう、みたいな浅ましい心ではないでしょうか。わたしはクズ山姥の自分を終わってるとわかっていていたわるほうが、自分に優しくて好きです!

人間に夢や意思があるように、ギター(モノ全般)にも夢や意思があると思います。私がギターと出会って新しい人生を踏み出したことにより、愛車おっけい号は優しい微笑みをたたえながらひっそり天に召されて行った、と、そんな感覚があります。ありがとう、おっけい号。さよなら、おっけい号。

わたしも、物も人もあまり変わらないような気がします!!こんなことを書くと、ちょっと頭がアレなのかなと思われてしまいそうですが、圭吾さんならそう思わないだろうという希望を持って書いてみますと、わたしは宇宙の中のものはみんな同じ素材でできていると思っています。その素材は、なににでもなれるもの、です。なににでもなれるもの、は、わたしたち人間が観察したいと思ったものなら、なににでも変幻してくれます。それがコップでも、プロテイン飲料でも、ダムでも、龍の形をした雲でも、スチール椅子でも、安物の靴下でも、人間でも、風でも、暖かい季節でも、なんでもなんでも実現してくれます。宇宙は神の太っ腹、宇宙は究極のなんでも屋です!!

それは言い換えると、どこまでもジャッジのない自由とクリエイションへの許可であり、それはまさに無償の愛と言えると思います。宇宙は無償の愛でできていると考えると、それがコップだろうが猫だろうが、同じように愛しきものに見えてきます。もちろん人間や猫には痛覚があったり心があったりして、生物でないものよりは大切に扱いたい気持ちにもなりますが、無生物も同じ愛でできていると思うと見方が変わります。非常に可愛らしく見えてきて、憐れみを感じられます。物たちも、愛が自分を材料にして創作したものであり、運命をもって存在し、徐々に古くなり、いつかは消滅してまた宇宙のエネルギーになっていくことを思うと、生物とあまり変わりがないような気になりますね。なんだかどんなものの佇まいも、愛らしく見えます。

自分はコンドームと同じ素材でできています!!ダイヤモンドと同じ素材でできています!!圭吾さんと同じ素材でできています!!これは嬉しいと言っていい感覚ですが、でも嬉しいというだけでは表現しきれません。なんだろう、もう、俺たちやばいです!!あいつのほうが俺よりどうだとか、あのときああしておけばよかっただとか、なんかそんなこと言ってらんねえと思いやス!!うまく言えませんが、そんな場合じゃないし、俺たちゃひとつなので、もうなんでもいいし自由だし、寂しさなんてどこにもないし、たとえ寂しくたってそれは安心の中で起こっているのだし、とにかく生物も生物でないやつも聴け!!大丈夫だぜえええええ!!という気持ちになります!!

本来自由であるはずのものを、不自由にしているものは自分以外の何者でもありません。だからこそ、すべてのゴールは「楽しむこと」なのだと思います。楽しいなら、正しい。楽しく弾けているなら、正しい。楽しく書けているなら、正しい。楽しく踊れているなら、正しい。正解かどうかを決めるのは、他の誰でもない、自分のハートだと思います。

ここを基準にしてスッキリと生きられるって、最高のことですね!!もしもわたしたちが、なにが正しいのだろう、どっちを選べばいいのだろうと思ったときには、楽しい方を選べばいい。だから正解はいつも自分の心に聴けばいいのだとわかっていたら、どれだけの迷いが霧散することでしょう!!

人は頻繁に、こうしたいけど、そうすると同時に自分が悲しむ。というものや、やりたくないけど、やらないと自分が辛い。というものなどで迷うのだと思いますが、どちらを向いても楽しそうでないことは、そのときにはまだその両方ともが正解でないことが多いのだと思います。そういうときは、いい子ちゃんになることを諦めてぶっちぎるとか、尻に火がつくまで徹底してやらないとか、そういう先生に隠れて笑いたくなっちゃうような悪ガキのチョイスを持ってくるのがポイントだと思います。たとえがふざけているので、読者さんに真剣に読んでもらえないかも知れませんが、自分は至って真面目です。

どちらを向いても楽しくないときは、その二択の外に正解があるのだと思います。常に、遊び心をもってくる。遊び心を挟んだことによって生まれる「面白がってみよう」という余裕が、わたしたちを二択の枠の外に連れて行ってくれます。これが、楽しさでものを選ぶ”極意”なのだと思います!!

壇珠さんとの会話は、超絶至近距離で卓球をやっている楽しさがあります。スリリングで、一瞬の隙もなく、打ち返せても打ち返せなくても思わず「うおおおお!!」と雄叫びが出てしまう、野生が蘇る生命の交歓があります。大前提として楽しいから、そうそうそう、この感覚が俺は欲しかったんだよと毎回原点に立ち還ります。バンドの素晴らしさは、一人では行けないところに行けることだと思います。グルーブは一人では生まれません。誰かがいてくれてこそ、です。笑いも同じです。一人でいてもそこそこ笑える出来事はありますが、爆笑するには相棒が必要。お尻を出した子一等賞。爆笑できた子ブービー賞。俺たち、きっと、地獄のどん底でも爆笑できるんじゃねえかという絶大な信頼があります!!

地獄のどん底でも爆笑、俺たちなら絶対にしちまいます!!その感覚がよくわかります!!鬼の悪口、閻魔へのいたずら、なんならここ天国じゃね?という解釈、などで遊んで爆笑するに違いありません!!

それから、至近距離の卓球感もわかりますとも!!わたしにとってはそれが毎回、圭吾さんから返ってきたたくさんの球を、全部打ち返したい気持ちとの戦いでもあります。しかし記事の長さにも程度があるので毎回引用箇所を選んで打ち返すのですが、採用きれしなかった部分への惜しさや、自分の返しが伝えたいことのうちのほんの数%だったりする悔しさなどで、毎度のように発火します!!もったいなさの斬り捨てや、潔い決断のためのミニ腹切などで、うおおおおお~~!!!となりながらお返事を書かせていただいております!!本当は全文に対する返答がしゃしゃり出てきていて、生き生きとしたその球を思いっきり打ちたいのですが、それでも選ばなくてはならないというところに、往復書簡の醍醐味があるように思います。

これは人生にも似ていると思います。わたしもできることなら世界のすべての場所を回ってみたいです。それから、スペインに住んでみたいし、養子をとって育ててみたいし、海辺に住みたいし、山の中に住みたいし、漫画を読むためだけに生きたいし、グッドルッキングガイズだけを集めてハーレムを作りたいし、服飾ブランドを作って服のデザインをたくさんしたいし、男になってみたいし、日本の田舎で平屋の古民家を買って自然とともに生きたいし、東京のど真ん中に住んで毎夜のようにクラブで飲んでパーティーをしてセレブな豪遊をして生きたいし、動物愛護に生きたいし、やりたいことはいっぱいです。ぜんぶの生き方を全力でやってみたいです。でも、世界のすべてを見ることも、別々の生き方を同時に味わうこともできません。

だからその中からなにかを選んで生きるしかない。ひとつのことを決断するということは、それ以外を斬り落とすということ。なんでもやれると思っているうちに人生は過ぎゆき、そのあいだ選ばずにいても、選ばないという決断をしているに過ぎないのだと思います。この、常に丁半の選択を迫られているわれわれの人生は、見方によっては超残酷で、見方によってはめちゃくちゃエキサイティングですね!!悲しいときには喜べず、怒っているときにはゆったりできず、ひとつの身体で味わえる体験は瞬間瞬間ごとにはひとつでしかない。わたしたちは常にひとつのことを選択してそれ以外を斬り捨てていることを思うと、まさに「今ここ」への緊迫感が立ち上がります。

そんな緊迫感をこの往復書簡で存分に味わっていることが、笑いが湧き上がってくるほどに楽しくてたまりません!!今回も圭吾さんのおかげで引き出せた言葉がたくさんありました!!終始笑顔で、楽しさ爆裂で書きました!!ですから、これを読む人も、その振動でどこかが派手にでも地味にでも気づかぬうちにでも、いい感じに破裂することでしょう!!いっちょ投げます!!せーの、たりゃあああああああああああああああ!!

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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
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