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957/1096【質問回答】なにごとも天秤にかけてしまう/極度の恥ずかしがり屋で友だちができない

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で957日。
※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

957日目。おかしいな。わたしは片付けが好きなようだ。どうやら掃除も嫌いではないようだ。毎日同じことをするのも好きだし、コツコツとなにかをするのが大好きだ。若い頃に嫌いだったことが、みんな好きだった。

人間の最大の勘違いはきっと「自分のことは自分がいちばんよくわかっている」というやつなのではないかな。自分が何者なのかを認識している人なんて、ほとんど居ない。わたしたちは変化し続けているのだ。

わたしは生きている間、死んでは別の人になり続けている。
自分自身にさよならし続けており、はじめましてし続けている。

自分とは、ある意味で一瞬たりともつかめないもの。これまでの自分にもこれからの自分にも、どちらにもこだわっても仕方がないということ。自分で居続けるということは、自分をただただ見届けるということだ。

こう考えると、じゃあもういいや。とならないだろうか。自分に対して。
だったら好きなようにするくらいしかないよな、と。

こうして、がんばって自分の好きに生きようとするのではなくて、「あーーー頑張らなくても好きにする以外にやることなかったんだわーーーー」という方向から、消極的に受身的に好きにするというとき、好きにする以外の選択肢がなかったのだと気がつく。そのとき、なにを選んでも好きにしているとしか言いようがない、という感覚が目を覚ます。

これって本当に極楽なので、自分のことはさっさと「自分の”もの”ではない」と思ってしまうのがいい。どうにもつかみどころのない人、それが自分。どうりで思い通りにならないはずだ。じゃ、いいやもう。好きにするわ。とね。期待を捨てると自由がある。

矛盾するようだけれど、自分を諦めると、好きに生きている感じがするのだ。わたしも今日もこれを、書かなくてもいいのに書いている。

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本日も質問回答です。

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自分の仕事について考えるときに、興味や収入についていろんな選択肢を比較して考えるのは、できないと困ることですよね。住まいを決めるときだって、食べるものを決めるときだって、わたしたちが生きていくのに「選択する」ということが常に必要です。人生は選択の連続ですよね。

癖だからやってしまうと考える必要はなく、多くの場合において、納得の選択をするためには比較検討は避けるべきことではありません。

それから、あなたは自分の仕事を決めることについて「自分の選択に責任を持つべきなのかどうか」が、わからないのですか。それとも、その悩みを持ってしまうこと自体に責任を持つかどうかという質問なのでしょうか。

いずれにせよ、あなたの仕事のことですよね。あなたが選択してあなたが責任を取ることですよ。他の誰も代わって責任をもってはくれません。

たとえば他の誰かが、自分で選んだことが嫌になって、あなたに責任をとれと迫ってきたら困りますよね。とるかいボゲ!!と言い返すべきです。
それとおなじで、あなたが自分の選択の責任を誰かにとってもらおうとしても、とるかいボゲ!!って返されてしまいます。

これはまさにわたしたち個々にとっての希望です。言い換えれば、あなたのことはあなたの好きにしていいということ。法律を侵すことを除けば、誰にもとやかく言われる筋合いはないということだからです。わたしたちは、自分について自分で決めて、それを止めようとする相手に「うっせぇわ!」と言っていいのです。

自分の選択を、自分の責任だと考える。
むしろこれを最大限に駆使していきましょう。

「自分のことは、自分の責任で自分で決めて良いのだと気がつく」ことほど、わたしたちを幸せにしてくれることもないのですから。

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質問ではないものをいただいたときは、あくまでもわたしからの勝手なアドバイスになってしまうのですが、質問箱には、訊いてみたいことを決めて、質問を投げてみてください。

口うるさいように見えるかもしれませんが、これは大切なことなのです。自分が質問をし、それについて答えをもらう。小さなことだとしても、「得たい結果に対して自ら働きかける」ということに、責任を持とうとしてみてください。

はっきりと質問をすることを避けるのは、たとえば「質問を決めるとそれに対する答えしかもらえないから決めたくない」とか「ぼんやりと投げて相手がどう出るのかを見たい」というように、責任から逃れる癖でもあります。

自分で決められない人は、責任を人にとってもらいたがるため、はっきりと質問をしたり、はっきりとお願いをしたりすることを無意識にも避けます。

あなたの周りにもいませんか。はあ…とため息をついてみせたり、なんとなく嫌な空気を醸し出してみせたりする人が。そうやって無言でなにかを訴えておいて、いざ誰かがそれに対してなにかを言うと「わたしはなにも言ってないのに、あなたが文句を言い始めたんでしょ」と怒る人。

かまって欲しい。考えて欲しい。見て欲しい。それなのに、言葉に出して意思表示をしたり、自分から話し合いの場を持つという決断をすることができないのです。こういう人は相手の責任でものごとを進めたいのです。

恥ずかしがり屋というのは、「恥ずかしがらないようにしよう」としても自分が言うことを聞かないので、正面切っての克服が難しいですよね。なので、自分で決めて訊く、自分で決めて頼む、ということを意識してみてください。質問を決めて、答えをもらう。お願いをして、やってもらう。

これができるようになってくると、お互いに相手のせいにしない間柄の人間関係を作ることができます。これによって、こちらのことはこちらのこと、あなたのことはあなたのこと、というように、互いの責任の領域に土足で踏み込まない感覚を得られるので、対人への恐怖が薄れる効果もあるのです。
またこれは、心地よい人間関係を作るために必要なことのひとつです。

人と接するのが怖い人は「自分の気分は相手次第」「相手の気分は自分次第」だと感じています。「人と人とは互いの状態に責任を負い合っているものだ」という錯覚があるのですね。あなたは実際に人に接する前に「人間関係のイメージ」に翻弄されてしまっているのです。

極度の恥ずかしがり屋さんならば、対人恐怖を持っている可能性があり、それに対しては適切なカウンセリングなどを受けることもできますが、それ以外にもできることはいろいろとあります。たとえば、

◯リアルな友達がいないのは本当に悲しいことなのかどうか
◯そもそも自分が他者を好きになることがあったのか
◯自分から誰かに友だちになろうとしたことがあるのか

などのことに疑いをもってみてください。

「自分ひとりでいることも楽しい」という感覚を持っている人のほうがよい友だちができやすいし、「他者をさほど好きでもないのかもな」と思っているほうが恥ずかしがらずに済むし、「そういえばいつも相手が寄ってきてくれるのを待ってばかりいた」と気づいたほうがより現実的だからです。

自分の信じ込みを疑うことは、あなたの助けになります。他者ではなく、あなたの思いがあなたを怖がらせているのです。だから、今の自分の信念を疑ってみるのは良いことです。

独りでも問題のない者どうしが、関わるうちに互いにものが頼みやすくなっていた。これが友だちです。いないと悲しいから作るのではないのです。知らぬ間に、いなくなったら悲しい人になっているのです。

ちなみに、わたしは恥ずかしがり屋で人見知りの人が好きですよ。それはひとつの魅力だと思います。わたしの夫は質問者さまと似たところがあって、かなりシャイな人です。

あなたはそのままでも友だちができることでしょう。
そのままの自分が誰かと親しくなったり、そのままの自分を好きになる人がいる可能性にも心をひらいてみて。

ネット上で誰かと会話をするのもおすすめです。なにか自分の好きな分野のコミュニティを漁って、そこでコメントなどでやり取りをして、だんだん親しくなるのも悪くないですよ。どんな関係だって相手は生身の人間なので、良い実践になると思います。

さて、今日はここまで。
それではまた、明日ね。


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菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)