ヨガボディ

『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源 -』を読み解いてみる vol.2 - ヒンドゥーの伝統の中のヨガ (P33-36) -

『ヨガ・ボディ -ポーズ練習の起源 -』
マーク・シングルトン 著

 第1章 略史:ヒンドゥーの伝統におけるヨガ
【ヒンドゥーの伝統の中のヨガ】P33-36

●この章の全体像について

 第1章はヒンドゥーの伝統におけるヨガについての基本事項をまとめた構成で、この本が明らかにしたいのがどういうことかについて明確にする内容になっている。又、この章を読み進めていくと、今日のヨガが古い伝統に根ざしているといわれているものの、あまり類似性がないことも確認できる。本にもあるように【ヒンドゥーの伝統の中のヨガ】と【ハタ・ヨガ】という項目ごと、この連載では2回に渡りこの章を紹介していこうと思う。

●インダス文明の遺物のひとつ『パシュパティの印』について(P33-34)

 インダス文明の遺物のひとつ『パシュパティの印』に初期のヨガに関する証拠が見つかったとする学者達がいて、その意見を巡って肯定的な意見と否定的な意見の両方がある。

●インダス文明
紀元前2500年頃から発達した今のパキスタンのシンド州辺りで栄えた文明。

●『パシュパティの印』について
【発見者】
 ジョン・マーシャル(インド考古学調査会会長)

【時期】
 1921年に発見。

【場所】
 モヘンジョ・ダロハラッパの遺跡を発掘しはじめ、高度に発達した都市文明があったことを発見した。そのときに地中から掘り出された遺物。

【『パシュパティの印』の名前の由来】
 発見者のジョン・マーシャルがこの印の動物に囲まれた角のある神を、シヴァの前身で百獣の王(パシュパティ)と解釈したので、この名が与えられたのだが、これがヨガのポーズをとっていたから。

 そこで、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade)が、この『パシュパティの印』を「これまでのところ最古のヨギンの表象」とした。

その結果、、、

 こうした印にあらわれるものが、後のヨガのアサナに繋がるかどうかはかなり疑わしかったが、古代におけるヨガの起源として繰り返し引用されるようになった。

【ミルチャ・エリアーデ氏の見解に対して肯定派の意見のひとつ】
 こうした印では、「シャーマン的な」ハタヨガのポーズをとっているとした。

【ミルチャ・エリアーデ氏の見解に対して否定派の意見のひとつ】
 こうした遺物からはインダス文明を生きた人々の宗教実践がどうだったかを知る手がかりはほとんどないとし、その時代にヨガ実践が行われていたか否かについては「後の実践を見る目で遺物を見ているのであって、実践の歴史を再構築するにはほとんど意味がない」とした。


●文献に現れるヨガ実践の記録について(P34-36)

1. ウパニシャッド

・「カタ・ウパニシャッド」
 ヨガという言葉の初出は、紀元前3世紀のものといわれる「カタ・ウパニシャッド」とされる。「カタ・ウパニシャッド」のなかで、ナチケータスという男の子に対して、死の神であるヤマが「世の苦楽から離れ、死を乗り越える道として、ヨガの道の存在を示した。」とされる。

・「シヴァータシヴァタラ・ウパニシャッド」
 紀元前3世紀頃のものといわれる「シヴァータシヴァタラ・ウパニシャッド」では、直立で息を止めることによって、心のコントロールを行う方法への言及があった。

・「マーイトリ・ウパニシャッド」 
 6段階のヨガの技法が紹介されていた。

1. 息のコントロール(プラナヤマ)
2.感覚の沈静(プラティヤハラ)
3.瞑想(ディヤナ)
4.心の集中(ダラナ)
5.哲学的思考(タルカ)
6.三昧(サマディ)

 ウパニシャッドには、アサナの記述はなかったようだが、わたしたちにもおなじみの、プラナヤマ、プラティヤハラ、ディヤナ、ダラナ、サマディといったパタンジャリのヨーガ・スートラの八肢ヨガ(アシュタンガヨガ)の8つの要素のうちの5つは、ウパニシャッドから使われるようなったようだ。

2.バガヴァッド・ギーター

「マハーバーラタ」の「バガヴァッド・ギーター」として知られる部分では、修行者が偉大なクリシュナに至る3つの道が示されている。

1. カルマ・ヨガ
 行者の道。クリシュナに導かれて成した財など持たない在家の道。

2. バクティ・ヨガ
 カーストの如何にかかわらず、現世的な苦から逃れクリシュナに帰依する道。

3. ジュニャーナ・ヨガ
 知恵の道。自己が自然への偏見から自由になる道。このタイプのヨガの哲学的基礎は、サーンキャ哲学

 このギーターでは、当時のヨギンによって行われていた、さまざまな日々の行が書かれていた。こうした行はヴェーダの儀式の内面化で、吸気を呼気に捧げる方法や、ヨガ・サダナを練習して、感覚を制御する方法などが書かれていた。

3.ヨガ・スートラ

 250年頃のものとされている。ヨガの道についてのさまざまな方法について述べられた195のアフォリズム(スートラーニ)から成り立っている。
 
 Larson,J,Gの「An Old Problem Revisited The Relation Between Sāṃkhya, Yoga And Buddhism」で、サーンキャ哲学の強い影響を受けていると指摘されているが、仏教や出家修行者(スラマーナ)の伝統から影響を受けた部分も見受けられる。

4.ヨガスートラバーシャ

 500~600年のヴィヤーサのものとされる「ヨガスートラバーシャ」は、「ヨガ・スートラ」の有名な解説書。この「ヨガスートラバーシャ」は今日の研究者たちから非常に注目されており、「ヨガの古典」とさえ扱われているが、唯一の権威ある古典というような位置付けにあるものでなく、多くの解説書のひとつと考えるのが妥当。

・20世紀の英語圏ヨガ実践者たちが
「ヨガ・スートラ」を最も大切な資料としてきた理由 
1. ヨーロッパの学者の影響。
2. 近代ヨガの初期の推進者であるヴィヴェカナンダH.P.ヴラヴァツキー夫人のような人々が取り上げた影響。

それについてマーク・シングルトン先生は下記のように書かれている。

 しかし、ヨガ講師の多くは、この中のアシュタンガ節(Ⅱ.29 -Ⅲ.8)のみを取り上げ、それがパタンジャリの主張のエッセンスだとしているのに過ぎない。

 「ヨガ・スートラ」やその解説書そのものの中には、アサナに関する記述はほとんどないにも関わらず、この文献こそが近代ヨガ実践の原点だというのがおきまりになっている。

 これは近代ヨガの権威づけとしてパタンジャリとのつながりを強調しようとするからに他ならない。こうした近代のパタンジャリ回帰こそ、国際的ヨガの立ち位置の特徴なのである。  (- ヨガ・ボディ P35より引用-)

5.シヴァ派タントラの阿含(アーガマ)経典

 しばしばヨガ実践の詳細が記されている。

・8世紀のシヴァ・アーガマのひとつ「ヴィジュニャーナバイラヴァ」には、シヴァと合一するための112のヨガが取り上げられている。

・シヴァ派のトリカ部のタントラ「マーリニーヴィジャヨッタラタントラ」は「さまざまなヨガ・システムの統合を目指し」ており、どのみちをとったとしてもヨギンが通るべき「ゴール」に至る共通の「道」を示したものとされている。

 ここでいうさまざまな「ヨガシステム」ではアサナの練習に重きは置かれていなかった。

●まとめ

 つまり、現在世界中に広がるポーズを取るタイプのヨガは、広く信じられているようには、インドのヨガの伝統につながっているわけでもなさそうなのだ。
(- ヨガ・ボディ P36より引用-)

●わたしのメモ

 文字らしいものはあっても解読するまでには至っておらず、推測以上に進むことができていないインダス文明。その遺跡とされる場所で掘り出された、ジョン・マーシャル氏の解釈から名前がつけられた遺物、それをベースに「最古のヨギンの表象」としたミルチャ・エリアーデ氏の見解と、客観的にみても曖昧が多く、後のヨガのアサナに繋がるかどうかはかなり疑わしかったのに、「パシュパティの印」が古代におけるヨガの起源として繰り返し引用されるようになったことがとても不思議だ。

 ヨガ・スートラを20世紀の英語圏ヨガ実践者たちが、最も大切な資料としてきた理由が、ヨーロッパの学者の影響や近代ヨガの推進者が取り上げたせい、つまり何か権威のある方々の影響が大きいというのに驚いた。

 「権威づけ」というのはこの本でこの後よく出てくる言葉で、色んな人が様々な理由でこれをやってきているようなのだけれど、そもそもどうして人は、権威のある立場にいる人が言ったことをそのまま鵜呑みにしてしまうということが多いのだろう??「パシュパティの印」も「ヨガ・スートラ」について、どちらもそういうことが起きている。

 又、ヨガの代表的な文献の記録のなかに、現在世界中に広がるポーズを取るタイプのヨガの練習に重きが置かれていなかったというのも、わたしはヨガを始めた当初は知らなかった。

 たまたまわたしは、これまで教わった先生方のほとんどがそれを知っていて伝えてくれる方が多かったから、少しはそのことを知っていたけど、最近私が接した生徒さん方のほとんどはこのことを知らない。もしかしたら、わたしたちのようにヨガを教えている立場にいる者が、こういった情報を伝えきれていないのかもしれないから、わたしの先生方が自分にしてくれたように、わたしはこの情報を伝え続けていこうと思った。

 今も気を付けていることだけれど、そのときは無意識のうちに「権威づけ」をしているような伝え方をしないようにも気を付け、生徒さんが情報を鵜呑みにしてしまうような伝え方をしないようにも気を付けていかなければならないと同時に思った。

 この情報も絶対的なものではないから。 

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