Typing 4|April 22nd,2022

2022年4月22日(金)6:32am 天気:晴れ

さて今日もこれを再開
息詰まった時のためにミシェル・レリス日記と坂口恭平の現実宿りをそばに置いてある

いつも最初は頭が働かない
何を書こう?というところから始まる
そもそも目的はないのだ
というよりも一応目的はあって
ここにタイピングをするというのが「目的」な訳だ。
内容はなんでもいいということ。

だんだんこのテキストエディットの上
つまりPCの画面上に世界が立ち現れてくるような感覚が出てきてる
雰囲気があるというか
気配があるというか
今そんな感覚を感じてる 胸の辺りに 
何かが立ち上がってくるような
そのままにしておこう 考えると 多分消えてなくなる感覚なんよねこれは
考えることは今はしなくていい
そういうことはこの後のヨガの勉強の時にする作業 分析してる作業

今はそれではなくて ほんとそのままここに書いてく感じ
こけこっこー
と今日も鶏が泣いた

↑macの変換おバカで、逆に自分だったらしない発想 でもこれはこれでオモロいね

にわとりが泣いた

って。

鶏が泣くってあまり想像したことはないけど、泣くかもしれないよね

「ニワトリが泣いた」

イタグレだって泣くもの。犬は泣く。だからニワトリだって泣くかもしれない。自分は見たことがないけど。
そもそも鶏と暮らしたことがないからわからないだけかもしれない。

この話題を打っていると前腕の筋肉が疲れてきた感覚がある
そういうときって、そろそろ次の話題に移行したほうがいい時って感じがする
それを肌で感じてる
スムーズに今タイピングしたいことをしている時っていうのはそういう感覚がない気がする
シンプルに、結構たくさんの文字をタイピングしたことによる疲れってのはあるけど、それとは違う感覚
「心」なのか何なのか連動しているような気がする

さてまたここで次に行くんだと思う
どんどん移り変わるよね

しかしいつも頭の中
音楽
そのことはもう毎日考えるよね
ほんと
何なんだろ
これも習慣がもたらしたものだろうね
もう多分16歳くらいの頃からそうだもんね
それを繰り返しているもんね

16歳の時の俺か
思い出すことはできるがそれをして何になるねん

今だよ今

そう今だよ今

点滅する障子

いいね

「点滅する障子」なんてないように感じるからいい言葉
そういう言葉
いわゆる意味をなさない言葉でタイピング

ダイビング 

フェンダーベースがダイビング
どこにダイビング?
一般的には海だろう そらもそうか

ま、いい 次に移行
macの変換おバカ
以降を移行と変換する
このズレがコンピューターっぽくない それはそれでいいか
改行しすぎ 開業って笑 また変換おバカ 意図するのとは全然違うのが出てくる

この作業に意味を求めるな すぐに意味を求めようとするのはなぜだろう?
自分もそういう部分があるということに今気づいた

「このタイピング作業に意味はあるの?無駄じゃない?」みたいなね

「無駄」なことじゃないよ、これは。

実際の「現実」
つまり元々はchaosである「現実」を露わにする作業なんだよねこれは
不安定な
グラグラする
ほんとはそういうchaosな「現実」を露わにする作業
ここではやりやすい
それは大事よ

今の生きてる「現実」はできるだけそれが見えないように作ってきてるもんね
今自分が生きている「日本」はそう
たぶんこれ全部の国がそうなわけではない
多分アフリカとか、
インドとか
もっとchaosが当たり前 
それがみんなの認識として当然のものとしてある
そう「みんなの認識」ってのが、生きている、目の前に目で見えている「現実」というのを作り上げているような気がするよね
集合体な感じ 一人だけではできないよね 集合体だよ
多分chaosな行動してったら「狂人」として捉えられ、精神病院に連れてかれるんだろうね
実際はそのくらい辻褄なんてもともとあってない世界なんだけどね
それをフワッと出してくるのが みなみりょうへいの表現 mr understand も banana perry も 民族Mも アンチボでも
だからBINGさんも気に入ってるんだろうね
理解できるよ
その世界を垣間見せてくる
しかもクスッと笑わせることも忘れずにね
そのクスッと相手を油断させる
ユーモアが大事よね
平和っす 
意味がないことこそ平和っす

すぐ人間は「意味」を求めようとするもんね

このテキストエディットタイピング場 笑
「テキストエディットタイピング場」なんて施設あったらウケるな

テキストエディットタイピング上では、それが自由にできる
特に狂人だとも思われない
だってこれはあくまで空想の話 作り話
読み手によって変化するのさ

読み手自体も、グラグラ揺れ動くってわかってなくて、文章を読んでる
文字をこのテキスト上に定着させた
この文章を読んで
こっちが書いている感覚とはまた違う感覚でそれを読んだり 違う視点から読んだりする

文字は「定着」する

でも、こちら側ではない あちら側 つまり読み手の方では動く

それはどういうふうに動くのかこちらもわからないしわからなくていい

それってどういう意味?って考えたらわからないような文章でもいい

睡眠時の「夢」のような文章を書いてもいんじゃないかな
今は多分そんな感じだと思う

辻褄とか時間軸とか考えてない

ここにメモしたくなっている自分もいる

メモ

日記



今の描写

の融合した文章に多分なってくのかな

「日記」というと、「その日に起きたことを記さなければいけない」と自分は思いがちだった
けど、それやってると 窮屈になってくるんだよね
単純に記憶を記すだけだと 面白くなくなってくるんだろうね
このタイピングするときにこうやって ペンが走る みたいな感覚でどんどんノってくる感じ
どんどん言葉をかける感じ タイピングできる感じが出てくる
それを今はそのまま出してる
そういう時間

それが大事。1日のはじまりにこれをやるのはかなりいいす

「現実」確認ができる

「ほんとはこっちだったよね」「こういう世界だったよね」ってわかる

不思議だよね 言葉をここに入力しているだけでわかる
これ読んでいる人はどういう感覚がある?
どういう風に今感じてる?
この言葉の向こうがわのあなたは?
向こうかもわからないけど どこにいるのかもわからない あなた

あなた 
わたし

すごいな これここに書くだけでも感覚が違う
今はほんとに自分視点で書いているような感覚で見えるだろうけど
これはどっち側にもいける

テーブル側
スピーカー側
パステル側
ノート側

色々だ

それになれる
そこからの視点もここだったらかける なれる

面白いな

わたし

と言っても それが人かどうかなんてわからないよね そういう書き方も 表現もできちゃう
いや 普通に本の世界ではそれが確かに起きてるんだけど
ここにタイピングしていることで感覚として気づいたことがいいことだね
やっててわかった 実感した みたいな感覚はいい
大事というよりも いい って感覚だ この感覚いいね~ みたいなノリだ

あなた

という言葉は わたしが 使う言葉だよね

わたしから見た 向き合っている特定の誰か でも 一人かどうかはわからない書き方もできるよね
それって

いわゆる 一般的な考え方 だと 

「あなた」

っていうのは、例えば 対面して、または、電話の向こうで、メールの向こうがわで コミュニケーションをとっているであろう特定の誰か一人をさすことになると思うが

ここの
タイピングしているこの紙上ではそのルールにのっからなくても、のってもいい。
それは自由だ
ルールを設けてるのは結局自分だから
この上ではルールはない法律もない
別に自分だけのために書いているのであれば

この

時間感覚が消滅する感じいいね
タイピングしてるとあっという間にタイムワープみたいなね

もう30分くらいは経ってる
7:10am
始めたの何時何分か今正確に思い出せない けど 特に深く振り返らない

車に乗っているときの感覚に近いかな

通り過ぎたものを見ようとしないよね
事故るから

そのスピード感にもちょっと似ている感覚だな
このタイピングの仕方は

入力したものを振り返ってはいない

方法論として 
これを本にするって段階の時はそういうふうな作業をするだろう

でも今はそういうの関係ない
ただここに入力してるってだけ

さて戻ろう ? どこに戻るんだい?

あなた 

わたし

の話題に戻りたくなってるでしょ

あなた

わたしからすると 誰かわからないし どんどん変わってく感じで書いてもいいかもしれない
だって
あなた も
わたし と 同じで 常に変化しているから 
辻褄なんて双方そもそも合ってないのが 現実 
見えないようになってるけどね
論理だった世界を構築することによって見えなくなっている

辻褄が合ってない世界 つまり chaosな世界 海の上に一人で船で地図もGPSも携帯も持たずに乗っているような世界
人はそれを不安 恐怖 に感じるのだろう
だからこれまでの歴史の中で、ルールやシステム、法律もそう カレンダーもそう そういうものを作っていったんだよね
大変だったんだろうね 先が読めない世界が その都度 起きることに対処し続ける世界が 
疲れちゃったのかもしれないね

論理的思考

西洋に多いよね
西洋ってざっくりとした括りだが 
具体的にはどこの国なんだろう?

要は 白 黒 はっきりさせるような 文化や言語背景をもつ国だよね

日本は 禅 の文化があるから 曖昧な表現が当たり前のように あるけど
そのいい面と悪い面があるよね

いい面は、白黒をはっきりさせないそのグレーなところってのが ピースなわけだから それが当たり前にあるってのはいいとこ

悪い面は、みんな自分の意見を言わない、周りに合わせる、人の目を気にする、他人の意見に乗っかる、少数者の意見を聞けない、議論ができない ことかな

そこのバランスがうまくできたら すごくいい国になるとは思うんだけど

禅 はあえて 言葉で その核心の真理を説明しつくそうとしないけど
ヨガ は真逆で その核心の真理は、言葉で説明できないことだってわかっているのにも関わらず 極限まで言葉で説明しようとするところ
論理的な部分も持ってたり システムちっくなところもあったりするし

そこを見てくと
ヨーガの背景
アーリア人がもともとインドに入ってきて侵略して、バラモンって階級ができて そのバラモン階級がヨーガ・スートラって経典にまとめてった 文献にまとめた 秩序だてて

って考えると
そのアーリア人はどこから来たのか?ってことになると ヨーロッパの方だよね 確か

―――――――
アーリア人とは、古代民族の一種で、彼らの起源、生まれた国はヨーロッパであると考えられていますが、発祥の地はアジアだとされ、その後北インドやイラン、ドイツなど広範囲に渡る国々に移住したと言われています。

アーリア人の起源や歴史には諸説ありますが、インドやドイツ、中国やヨーロッパという広い範囲で、多数の国の言語が存在する『史上最も広範囲に広がった民族』という特徴を持っています。

だって。→https://kirari-media.net/posts/2258

生まれた国はヨーロッパであると考えられて
発祥の地はアジア?

アーリア人とは元々、中央アジアからイラン高原付近に住んでいた遊牧民族です。
彼らは、イラン高原に住んだ人たちと、インド方面に移住した人たちに分派しました。(「イラン」という言葉は、「アーリア人の」もしくは「アーリア人の国」という意味です)
→https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1224549022

高校の歴史の授業で、「インド・ヨーロッパ語族」について習ったのを覚えていますか。インド人とヨーロッパ人は元々、中央アジアにいた同源の民族であり、共通の祖先を持つ。このように習います。多くの人は「どうして、インド人とヨーロッパ人が同じなのか?」「言葉も違う、肌の色や顔付き、文化や習慣も違うじゃないか?」と疑問を持ちます。しかし、教科書にはその説明がほとんどなされておらず、疑問をあいまいなまま放っておいたという人が多いと思います。

・2つの方面に分かれる

では、何を根拠に彼らが「同じであった」というのでしょうか。それを読み解くためにも、「インド・ヨーロッパ語族」の復習を少しだけしましょう。インド・ヨーロッパ語族はアーリア人(アーリアは“高貴”という意味)とも呼ばれ、中央アジアを原住地としていましたが、紀元前2000年ごろから寒冷化を避け、大移動します。西を目指した多数派は中東からヨーロッパへ、南を目指した少数派はインドへ移動します。ヨーロッパ方面に入ったインド・ヨーロッパ語族はギリシャ・イタリアなど地中海沿岸を中心に定住し、ヨーロッパ世界を形成します。インド地域に入ったインド・ヨーロッパ語族は現地のアジア系統の民族と混血し、暑い気候によって、肌の色が黒くなり、長い歴史の中で、われわれがイメージするようなインド人となります。

https://toyokeizai.net/articles/-/209031

↑結構わかりやすい

――――――

ってことは、アーリア人自体が ヨーロッパ世界を作った人のルーツでもあるから、 アーリア人自体が論理的な思考を割と持っていたのかな それとリグ・ヴェーダとかもあったしねそもそも
経典があるわけだ
経典好きだ
そういう風にシステムを作る 論理的思考と リグ・ヴェーダがあるように 儀式を大事にする文化を持っていたという背景がありそうだね

勉強しちゃったな

ちとそろそろ一旦休憩

集中力が途切れてくる頃だ

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