16歳の北海道一周旅行記 #4 絶景路線と日本最東端編
釧路の朝
釧路の朝は早い。特に夏は、4時前には日が昇りはじめ空が薄く明るくなる。また、太平洋の温暖湿潤な空気が千島海流に冷やされて海霧が発生し、かなり涼しい朝となる。
4時30分、ホテルを背にした。多分ここにいる人間の数より多いのであろう、けたたましく鳴き叫ぶウミネコの大合唱を聞きながら、人のいない大通りを歩く。駅に行く前に、寄りたい場所があった。数分歩いて、幣舞橋(ぬさまいばし)に到着した。どうやら「幣」はぬさとも読み、その形から五平餅(御幣餅)の由来となった、神社で神主さんが振り回してるイメージの例の神具を指すらしい。ではこの幣舞橋は誰かが橋上で幣を持って舞を踊ったからこの名前になったのか、そんな考察をしてまた一つ頭が良くなった気でいたが、全くそんなことはなく、この橋の名前の由来はアイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」である。しかしヌサ・オ・マイは日本語に訳すと「幣場のあるところ」であり、どうやらアイヌ語の「ヌサ」と日本語の「幣」は意味や発音も共通しているらしい。僕は言語学に造詣が浅いので、また近年炎上しがちなアイヌ問題に首を突っ込む気はさらさらないのでこの話はここまでにするが、僕はこの「幣」の字に「幣舞橋」の文字通り踊らされていたのである。
初代の幣舞橋は1889年に架けられ、以後倒壊と架橋が繰り返された。釧路の代表的スポットであると同時に、全国的に有名な夕日の名所でもある。なお僕が行った時は午前4時30分、天気は曇りである。幣舞橋を一通り見てから、釧路駅に戻る。短い間だが、釧路観光はこれにて終了だ。釧路駅前の広場にある「風雪の木」にまた来ることを誓い、車内で食べる朝飯を買い込んでからホームに上がった。
ホームにはこれまた一両の汽車が停まっていた。花咲線(根室本線釧路〜根室間の愛称)快速「はなさき」根室行きである。釧路から根室間は距離にして100km近くもある。北海道の広さを知らない本州以南出身の旅行者がその距離に痛い目を見たよ的なエピソードがよく取り沙汰され、それを自称旅行オタクがツイッターで謎の上から目線で嘲る、そんな区間である。遠い遠い根室の地、日本で最も東に位置する街へと、午前5時35分、ゆっくりと鉄輪が回りはじめた。
花咲線
釧路駅を出発した汽車は、東釧路駅で網走に向かう釧網本線と別れ、以降どの路線とも接続することなく独りぼっちで最果てを目指す。釧路市を抜け、釧路町に入る。矛盾が生じたように見えるが、これは地理クラスタには有名な話で、旧釧路町が区政施行をする際に、「区の面積に対し市街地の面積の割合が大きい」という条件をクリアするために現在の釧路市だけを釧路区とし、現在の釧路町は切り離されたのである。その後釧路区は釧路市として存続、切り離された周りの山間部も周辺地域を合併し釧路町として町政施行、こうして同名の自治体が誕生したのである。釧路町がどうしても不憫に思えるが、釧路市の商店街をボコボコにしているイオン釧路店や限界旅行者の熱い味方こと快活クラブは釧路町にあったりと、逆襲を果たしつつある。
そんな釧路町の役場のある別保駅を快速らしく派手に通過すると、鉄路の周囲には深い森が立ち込めるようになる。駅がないまま15分ほど人間の生活痕がひとつもない山中を音を立てて通過し、時折特徴的な音の鹿笛を鳴らす。北海道の鉄道旅と言えばこの音である。森の中の集落にある駅・上尾幌を通過し、ようやく森の中を抜ける。門静駅をすぎると、厚岸湾が右手に見えるようになる。前方には、わりと規模の大きな港が見えた。汚ねえくしゃみみたいな名前の町・厚岸に到着である。厚岸の市街地は奇妙な地形をしている。視力検査のランドルト環みたいな汽水湖の厚岸湖の、厚岸湾と接続する部分の両端の岬に市街地がある。港は南側であり、駅からは湖口を渡らなければならない。随分前に厚岸大橋ができてかなり便利になったようである。厚岸といえば牡蠣飯だが、残念ながら今回の旅では食べることはなかった。
6時22分、これから釧路に行くであろう根室本線上り始発列車を見送る。この車両が釧路を出て早50分、はじめて出会った対向列車である。根室本線の今後が危ぶまれた。
厚岸を出たところからが、「絶景路線」花咲線の車窓のピークである。厚岸の小さな市街地を抜けて左に大きく車体を傾ける。右手には厚岸湖が姿を現した。汽車はしばらく厚岸湖岸を走る。線路のすぐ脇まで水が迫ってきており、さながら湖上を走っているようだった。
厚岸湖をすぎ、線路は厚岸湖に注ぐ別寒辺牛川に沿って続く。ここから先、別寒辺牛湿原に入っていく。湿原と聞こえれば必ず出てくる例の条約にも厚岸湖とともに案の定登録されている。天気は曇り、霧が立ち込め湿原らしさがある。周りに人工物はなく、あるのは鉄路と轟音を立てる一両の汽車。両側に水辺が迫り、葦かと思われる湿原植物が泥炭の上で榮えていた。
遠くに白い影が見えた。遭遇率は激レアのタンチョウかと思ったが、確認する暇もなく通り過ぎていった。あのとき会ったのは何なのか、もう知る術はない。
人気のない、まったく日本らしくない、見たことはないが想像はできる南米の草原のような、ただ一面の淡い緑と底のなさそうな不安になる色の水辺が、人間が駅を置く隙間もなく続く。別寒辺牛川がチライカリベツ川と名前を変え、水がだんだんと引いていき草原がひろがるようになる。先日廃止になった糸魚沢駅を物悲しくも笛を鳴らしながら通過し、やがて森の中に入る。時間が経ち、マップを見る限りでは森を抜けたはずだが視界は木に遮られたままである。北海道名物・鉄道防雪林である。吹雪による列車の運休や事故を防ぐために線路の両脇にきれいに整列して植えられる木々は、上空から見ると整然として美しいが、車窓は台無しである。しかし仕方がない。鉄道会社からすらばこんなどこから来たかもわからない観光客の車窓を見て吐き出す薄い感動よりも定時運行がなによりも大事である。汽車は茶内駅に到着した。反対側には僕が釧路を発つよりも早く根室駅を後にした普通列車が僕の乗る快速列車との交換を待っていた。茶内駅を定刻に出発し、酪農の盛んな浜中町を驀進する。鉄道林もたまに途切れては美しい根釧台地の風景をチラ見せしてまた隠すという性格の悪い仕打ちをしつつ、「北欧のコテージ風」とされているらしいがよくわからない可愛らしい煙突のついた浜中駅に停車した。
「浜中」とはアイヌ語の「オタノシケ」(砂浜の中)を意訳したものである。どこがで聞いたことのあるこのオタノシケという響きは、昨日釧路駅に着く直前に変な名前だなと記憶に残った「大楽毛駅」で耳にしたものだった。大楽毛駅と浜中駅は言語が違うだけで意味も由来も一緒なのである。
そんな浜中駅を発っても汽車は変わらず鉄道林に隠れた根釧台地の中を進み、最後の通過駅・姉別駅を通過する。そして午前7時11分、厚床駅に到着した。かつて厚床駅は酪農全盛期に年間20万人が下車し、標津線の支線が分岐する根釧台地の一大ターミナルだったのだが、今では標津線も廃止となり、日の利用者は10人未満である。
厚床を出て、道道142号線と並行しながら、廃止になった初田牛駅を通過、別当賀駅でドアを開閉した。どちらも日本語らしからぬ名前だが、みなさんの予想通りどちらもアイヌ語である。このあたりで、根室市境を超えた。北方領土を除くと、日本で最も東に位置する自治体へと、足を踏み入れた。汽車はふたたび山を抜け、落石の漁港へと近づくと右手には太平洋が広がった。
木々は一本もなく、ただ草原と、崖の奥に雄大な太平洋が水平線を見せているだけである。窓の隙間から入る風は寒くはないものの刺すように頬にぶつかりここが大自然であることを実感させる。落石をすぎ、昆布盛駅に着く。名前の通り駅から少し離れた集落では昆布の収穫が盛んで、昆布を干すための敷地が航空写真からでも見てとれる。
いつのまにか汽車は根室半島に入り、西和田駅で空気を入れ替え、花咲線の名前の由来となった花咲駅を非情にも通過する。じつは花咲駅は既に廃止になってしまったのだ。一号店が廃店でおなじみ日本マクドナルド状態である。花咲駅に別れを告げると、車体は左に傾く。根室市は人口約2万3千とコンパクトな市ではあるものの、日本本土最東端に長年居座ってるその知名度は全国に広がっている。そんな小さな根室の市街地も花咲駅を過ぎたあたりから家が湧き始め、商店も車窓に現れ始めた。そして、列車は東根室駅に到着した。この駅は鉄道ファンや、僕のような端っこ大好き人間には言わずとしれた日本最東端の駅である。とはいっても根室の住宅街の中にあり、普段は地元住民しか利用しないであろう板張りホームの小さな駅だ。
鉄道というのは車止めがあってこそ、そこが本当の終わりである。僕に言わせれば日本の鉄道の東の果てと呼ぶにふさわしいのはやはり鉄路が途切れる終着駅である。車両は大きな音を立てて扉を締め、釧路から随分人の少なくなってしまった1両の汽車はもう一踏ん張りと言わんばかりに鉄輪を再び回し始めた。線路の曲率はさらに大きくなり、かつては根室港まで伸びていた根室港線の廃線跡との分岐点を車体を大きく傾けながら過ぎ、道道310号線をアンダーパスで越える。そして、汽車は速度を落として、あまりに簡素なプラットホームにゆっくりと着岸する——釧路より2時間25分を135.4キロメートル、昨日の朝上陸した苫小牧からは458キロメートル、ついに小さな小さな汽車は午前8時、終着・根室駅に停まった。
根室観光と日本最東端
駅は最果ての終着駅としてそこに佇んでいた。確かに都会近郊の駅にも満たない小さな駅だが、それらとは比べ物にならないほど威厳と歴史をもってそこに存在していた。1921年に開業して以来、最果ての終着駅として、根室へ、根室から、来る人・往く人を約100年もの間出迎え、見送ってきた。
さて、そんな根室に来たら何をするかといえば、もちろん日本本土最東端の地、納沙布岬の見学は外せない。納沙布岬観光はとても効率化されており、駅に隣接している建物でバスのきっぷを買うことができ、バスもそこを発着する。最初は路線バスを利用するつもりでいたが、どうやら観光バスというものが出ているらしく、しかも帰りの予定の汽車にも間に合う。たしかに路線バスのほうが情緒があると思ったが、北方原生花園といった路線バスでは断念せざるを得ない観光地も巡ってくれるということで、利用しない手はなかった。
ツアーバスの発車はすぐであった。人は少なく、僕の他に家族連れが2グループ、おじさんが一人といったところだ。彼らと程よく距離を取り、八戸に向かうときに乗ったのと同じでうんざりする椅子に座る。途中、何気ない交差点に停まったとき、熟練のバスガイドさんが、「ここが日本の国道の一番東です」と言っていた。沖縄県石垣島よりはるか3000km、海を、山を超え人を流す日本の国道もここが最後である。さてツアーバスが最初に着いたのは明治公園である。昭和11年に作られ、北海道で二番目に古い牧場のものとして根室の開拓に寄与した3基のサイロが立っている。ここでのツアーバスの停車時間は15分。汽車の出発時間に合わせるためのスケジュール、いわば我々鉄道利用者へのありがたい配慮なのだが、あまりにツアーバスらしからぬテキパキとした観光がすこし面白かった。僕は他人のトイレを待って買い物に付き合うような旅行より、こういう旅行が好きである。
ツアーバスは東へ舵を取り、根室半島の太平洋側を一路本土最東端の地へと爆走する。10分も走ると住宅は薄れ始め、代わりに木々が姿を表すこともなくずっと先まで草原が続いている。天気は曇り、雰囲気があって良い。根室半島の付け根にある温根沼(おんねとう)とよく間違われるであろうオンネ沼を左手に見る。バスは道道35号線を東にひた走る。バスガイドさんが昆布のとり方や北方領土について説明していたが、それに耳を傾けつつも僕はもっぱら景色に釘付けであった。右手にはここまで来ても変わらず水を湛える太平洋、左手には両側から吹き付ける風と厳冬の影響で高い木々のほとんど生えない、どこまでも広がる草原。そして道路沿いには意外にもまばらではあるが家が点在している。大半が昆布漁師なのであろう、昆布を干すための石がごろごろした庭のついた家である。
ところで、1871年に前島密らが始めた郵便制度は、民営化を経てもなお約23000もの郵便局を日本列島の端から端まで蔓延らせるに至る。そんな日本の郵便局で最も東に位置するのがこの珸瑤瑁(ごようまい)郵便局である。
バスは一時停車をしたものの、こんな場所で終わるような俺たちじゃない!と言わんばかりに直ぐにもといた道へと戻り、東へと変わらぬ風景を流し始めた。バスは北方担当相さえ読めない難読地名でおなじみ歯舞群島の由来となった歯舞漁港をすぎ、ついに住所は納沙布となる。
根室駅をでてから約20キロメートル、数人を乗せたツアーバスは納沙布岬に隣接する望郷の岬公園へと駐車した。
択捉島、国後島、付近の群島からなる、今日北方領土と俗称される島々は、日本領であることは間違いないが、現在そこを支配しているのは別の国である。あいにくの天気で肉眼で見ることは叶わなかったが、わずか10kmほど先にあるはずの土地に、行きたくても行くことができない、国境というもののなんたるかを、普段島国日本に住んでいては実感できないものを体感した。その昔、戦前に北方領土に住んでいた方々は、今は大半が根室市に住み、未だ叶うことのない帰郷を願い続けている。そんな望郷の念を象徴するように、今日もここ納沙布の地には炎が灯っている。
公園には何棟かの資料館が隣接している。ロシア帝国代からソビエト連邦、そして現在のロシア連邦との交渉の貴重な映像や文書が保存されており、歴史オタクでもある僕には目から鱗であった。
さて、まだ行くべき場所がある。本命の日本本土最東端である。ここまで来て最東端ギリギリまで行かないのでは、ダイヤを目前に引き返す例の炭坑夫のイラストそのものである。少し歩いたところにある納沙布岬灯台が北海道、そして日本本土の最東端である。あいにく灯台の中には入れなかったが、それでもぎりぎりまで近づいた。あの瞬間、間違いなくこの自分が日本本土で一番東にいる人間だった。だからなんだと思う人もいるだろうが、ずっとこの地に憧れていた端っこ大好き人間の自分にとって、この一歩の感動はひとしおであった。
公園の方に戻り、海鮮料理のお店でツアーバスに乗ると無料でついてくる蟹のあら汁を頂いた。食レポの才は絶望的なので割愛するが、強い塩味と蟹の出汁が疲れを癒やし最東端の到達を実感させてくれた。まさに根室の味である。なぜか当時の自分はまぬけにも文明の利器の存在を忘れていたようで、写真が残っていないのが惜しいとこである。
さて、西へ戻る時間である。東へ行くことができないというのも、なんとも不思議だ。帰り道は行きと変わらず平坦な草原だが、バスガイドさんがチャシという建造物について説明していた。アイヌにおいてなんらかの意味を持つ施設らしいが、wikiを見ても曖昧なため、謎とだけ書いておく
北方原生花園を見学する時間になった。バスが停まり、20分ほどの時間が渡された。あいにく花の類は見つからずただの草原のようであったが、遠くに馬らしき生物がいて、なんなら遊歩道の上では馬の排泄物が日高山地を形成していたため早々に引き返した。晴れた夏や一面の雪景色、彩どりあふれる春なんかはさぞ綺麗なのだろう、再び来ることを決意しつつ馬糞パークを後にした。
根室観光ツアーも最終目的地である。市街地にある金刀比羅神社である。参道の階段を登ると、根室の市街地が一望できた。いくつもの風鈴をくぐり本堂へ向かい、旅の安全を願って参拝させていただいた。
おみくじを引くと白いハートのキーホルダーが出てきた。意味はどうやらこれから恋が成就するよ、ということらしい。金刀比羅神社の力の反例になってしまう可能性に怯えつつ、キーホルダーをウェストポーチのチャックにつけ、バスに乗り込んだ。
バスは根室駅に戻ってきた。楽しいお話を聞かせていただいたバスガイドさんや運転手さんにお礼を言い、バスを見送る。午前10時40分。汽車の出発する11時3分まではあと20分ほどある。徒歩8分の位置にセブンイレブンがあることを見つけたため、早めの昼飯を買いに行った。持ち前の優柔不断さをこれでもかと発揮し、コンビニを出たのが11時55分。案の定ダッシュすることになった。50m走のタイムは高校生男子の平均ぴったりの僕だが、この時だけは6秒台を叩き出したような気がした。
根室駅の構内で「日本本土4極出発・訪問・到達証明書」というものをもらった。裏側には細工があり、4枚集めると日本地図が完成するといった仕掛けである。死ねない理由がまた一つ増えた。
釧路帰還
来た道と同じ線路をなぞり2時間15分、釧路駅に帰ってきた。13時18分のことである。一日はまだ続くのだが、このままだと大台の1万文字が見えてきてしまったので、#4はこの辺でピリオドを打たせていただこうと思う。#5は、釧路駅から釧路湿原ノロッコ号に乗るところから始めさせていただく。暇にでも読んでいただければ幸いです。
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