鞍上の狼 第4部
D地点 外へ…
1
「マジで勘弁…なんやこの寒さ…。」
日本には四季がある。春夏秋冬、様々なものを楽しめるのが日本の魅力でもある。春になれば桜がいつも通りの日常に華やかさを与え、夏になればひんやりとした水が火照った体を冷ます。レジャーで言えば海や川での水遊びが最高に気持ちのいいシーズンだ。夜空に浮かぶ花火もまた美しい。秋は春とは違った落ち着いた色合いが景色を彩り、冬は…冬は…寒い。冬は寒い。ここ愛知でも雪は見られるが、降らずに年を越すこともある。そうなれば、雪化粧が美しいとはいっても毎年見られて癒されるような光景でもない。日本の四季は魅力的かもしれないが、愛知の四季はまあまあ厄介なものである。正直、愛知の夏は嫌われもので他県から新幹線でやって来た者には扉が開いた瞬間…いや、止めておこう。なんだかんだ言いつつも、僕は地元が好きなのだ。
そんな寒暖差の激しい愛知は現在冬。馬は元気に僕は弱る。そんなシーズンに入っている。ちなみにこんなに凍えている僕は12月生まれだ。小さい頃は年にあるかないかの積雪がおこると家の前の雪かきを朝早くから進んでしていたくらいだが、草野球にのめり込んだ10代後半から夏に強い体へと変化していった。
「おざます…」
「おはようございまぁす!」
「おはよう。」
休憩室にいた社長と妹尾さんに挨拶をする。二人とも僕を見て苦笑いをしている。どうやら寒さのあまり体も声も縮こまっている僕の姿が面白かったらしい。とりあえず通行の邪魔にならないような位置に乗馬用のバッグを置き、僕は運転中も欠かさず装着している厚めの手袋を脱ぐ。その場でジャージのズボンを脱ぎ、一瞬でキュロット姿になった。冬の良いところはキュロットの上にジャージを履いても暑くないことかな。まぁ、それでも寒いのだが…。そして長靴からロングブーツに履き替え、拍車を装着すると、もう一度手袋を身につける。勿論、乗馬用の物…ではなく、運転中に着けてきたあの厚めの手袋だ。休憩室には暖房がついているが、ここに来るまでに冷え切った体をできるだけ早く温めたかった。準備してる間にどうせ冷えるが、そんなことはどうでもいい。兎に角、体を温めなければ、このままだと…落馬する。冷え切って思い通りに動かない体、そして冬の方が元気な馬、僕の体と馬の体は相性最悪なのである。
「そういえば森下さん、最近は毎週来てますねぇ!」
社長が話しかけてきた。
今までは二週間に一回のペースで来ていたが、11月末から毎週来ている僕の変化に気づいたらしい。近くにいた妹尾さんが社長の言葉に続けてきた。
「4級目指してるもんね。いつ受ける?」
「う〜ん…春までには受けたいですね…冬は体が凍えて力出せそうにないし経験値も実力もまだまだ足りないと思うので…。」
妹尾さんが社長の方をチラリと見る。社長は妹尾さんの視線に気づいているのかどうかわからないが、妹尾さんの方を見ることなく真っ直ぐ僕に語りかけてきた。
「森下さんなら、春まで待たなくても合格できるんじゃないかなぁ、馬も動かせてるよねぇ?」
社長が妹尾さんの方を見る。妹尾さんは再び社長の方をチラリと見てからその問いに答える。
「まぁ、猛なら行けると思いますよ?勿論、春まで経験値を積みたいとかならそれでもいいと思うけど、実力的には全然…。」
乗馬クラブ内での僕の評価は意外と高いらしい。それとも乗馬ライセンス4級の試験があまりにも難易度が低いのか?でも、冷静に考えると、4級の実技試験は駈歩まで行うと聞いた。レッスンでは駈歩までやっている。と、すると…乗馬ライセンス4級の試験は、ほぼ普段からやってることに近いのでは?そう考えると、「春まで待たなくても行けるかも」みたいな発言は納得がいく。
どうする…?どうする、僕?
少し考えて答えを出した。
「1月末、それくらいで計画してみます。勿論、状況によっては遅くするかもしれませんが…。」
試験を受けるにはお金もかかる。勿論、普段の騎乗料よりも高い。例えお金がかからなかったとしても不合格にはなりたくない、けれども、早く上のステップへ行きたい。そんな気持ちから迷いに迷いって出した“1月末”という答えだ。
「了解です!一応、受験するのに必要な手続きとかもあるので、あんまりギリギリだと日程を先延ばしにするとかはできませんが…よろしいですか?」
「はい!その時は早目に相談します。」
本当に春の予定から早めていいんだろうか、という迷いを上にステップに行きたいという決意で書き消し、僕はこれからさらなる成長をするために今日も馬に乗る。レッスンまで後30分と少し。僕は立ち上がって休憩室を後にする。一瞬にして外の寒さで体が冷えた。
「っ…、痛ぇぇぇ…なぁ…。」
馬装をある程度終えレッスン開始8分前となった。洗い場でブラッシングや裏掘り、鞍付を行っている最中に体はますます冷えていく。乗馬用品を扱うオンラインショップで購入した冬用のアウターは、見た目は薄く見えるが温かい。ただ問題はアウターでカバーできない手、そして脚だ。乗馬用の手袋では寒すぎる。キュロットだけでは脚も寒すぎる。アウターを羽織れる胴体は寒さからある程度守られているのだが、手や脚から寒さが襲いかかってくる。
「ハヤテごめん、体温頂戴。」
今日の相方・ハヤテの頸を撫でてから、そっとハヤテに身を寄せた。左の掌はハヤテの頸へ、右の掌はハヤテの肩に、そしてその間に僕の胴体が密着して軽く抱きつくような格好になる。温かい。レッスン開始5分前になれば頭絡を付けなければならないため、ハヤテに寄り添えるのはあと2分ちょっとになっていた。
大きな反動に身を任せる。止まる気がしない。今日もハヤテは走ってくれる。もうすぐ今年1年が終わる。春から乗馬をスタートしたため、丸1年馬を乗ってきたわけではないが、間違いなく乗馬人生初年度最高の相方だろう。あれだけ体を冷やしにかかってきた風も今では全く関係ない。むしろ、体に当たる風が強くなればなるほど、自分の乗馬に対して自信が湧いてくる。さすがに継続して走りすぎたのか妹尾さんが手前を変えるように指示を出す。勿論、手前を変えても僕達は走り続けた。本当は馬を飽きさせないためにも、ある程度走らせたら常歩や軽速歩を入れたり、巻乗りを入れたりして変化をつけることも大事なのだが、この時の僕は『駈歩を継続させる技術』の方を重視してしまっていた。なので、妹尾さんの指示が出ない限りハヤテが走り続けるように所々合図を送り、駈歩の継続を促していた。
「駈歩は継続して出せるようになってきてるから、駈歩だけじゃなく、所々、常歩や軽速歩も入れていこう!」
到頭、走り続けた僕達は妹尾さんに指摘されてしまった。まぁ、正確に言えば、指摘されたのは駈歩を継続させてしまった僕なのだが…。僕はまず、軽速歩へと移行させ、2周ほど円運動をさせ、そして今度は常歩へと移行させる。これを長くやりすぎて高まってきたハヤテの気分が落ちるのを警戒し、1周だけに留めた。ハヤテの頭がウォームアップや部班運動時に比べて動く。この感じ…あの時、外馬場で見たものだ。
−一ヶ月前のクラブ内競技会、A2課目の競技中だ。右手前の駈歩…輪乗り…そして蹄跡行進をして、奥の角から手前変換。確か…馬場中央で正反動の速歩に落として、蹄跡の手前くらいかな?そこでさらに常歩に落とす。その常歩の時だ。さっきまで駈歩していて気持ちが高ぶった馬が頭を振っていた“あのシーン”だ。−
今、ハヤテは走りたくてうずうずしている。ダメだ、ハヤテ…まだだ…まだだ…。
頭を振るハヤテ。それを何とか堪えさせて常歩を始めた地点に辿り着く。
−よし、ハヤテ!今だ!−
滑らかな移行で駈歩を始めるハヤテに僕の体がついていく。テンポはいつもと変わらないのに景色の流れが速い気がする。何だこれ…説明できないけど…明らかに違う…今までの駈歩じゃない!けど、すごく気持ちがいい。鞍上にいる騎手にとって馬の顔はほんの一部しか見ることができない。少し内方に傾けた時に見える片目付近だけだ。けれど想像できる。それは僕の思い込みで間違いかもしれないが、今ハヤテが出している駈歩は無理矢理速く走ろうとしている駈歩でも渋々だしている駈歩でもない。ハヤテ自身が走りたくて走っている駈歩で、楽しそうにしてるんじゃないか、と…。
ああ、そうか…。馬術は『駈歩を継続させる』競技じゃなかった。『馬を美しく扱い、共に作り上げる』競技だった。横目でチラリと妹尾さんを見る。
(この人、上手いなぁ。「飽きさせない為に…」とか「合図にメリハリつける為に…」とか全く言わず、「所々、常歩や軽速歩も入れていこう!」しか言わなかった…。それをすることで、どんなメリットがあるのかを考えさせて味わわせる為に言わなかったんだろうな…。その理由を、僕は『味わう前に』気づけなかったな…。“あの時”目の前で見てたのに。)
僕はハヤテに、軽速歩・常歩へと落とさせて、手綱を少し緩めて歩かせた。鞍上から見るハヤテの頸から緊張感が消えた気がする。妹尾さんも僕の行動とハヤテの様子を見て察したのだろう。ハヤテを一周歩かせて中央に来て締めの部班レッスンまで待機するように指示を出した。僕達はこれから個人レッスンに出ていく馬と入れ替わるように中央へ入る。そしてハヤテを停止させてると僕は思いっきりハヤテの頸を撫でまくった。
ハヤテの鼻から白い息が漏れる。鼻息まで確り聞こえた。バケツの中に少量のスポーツドリンクの粉を入れる。理想はホースサイダーなのだが、入れる量をセーブするなら人が飲むスポーツドリンクの粉でもいいと言う話だった為、僕はドラッグストアで購入した有名スポーツドリンクの粉を持ってきていた。ここ最近、ハヤテが相方になることが多いので、この粉末は必需品だ。匂いに我慢できずに不慣れな前掻きを始めようとするハヤテ。この癖は元々ローレンの癖を真似たものらしい。僕は急いで水を入れて溶かし、ハヤテの口元へ持ってくる。バケツの中にダイブ!という言葉が似合いそうな勢いで口を突っ込むと、スポーツドリンクの水しぶきが起きた。少しかかる、寒い。ハヤテは鼻を左右に動かして水を飛ばしていた。水を飲む時、ハヤテは毎回これをやる。なんの目的があるか知らんが寒いから冬には止めてくれ。
よく走ったからだろうか、一杯目の水を一気に飲み干したハヤテ。スポーツドリンクの匂いがバケツに残っている。ここに再度水を入れて口元に近づけると、ハヤテが再び飲みだした。二杯目は途中で残したが、それでもすごい飲みっぷりである。
ハヤテが残した水を流し、バケツを洗って再び水を溜め、そこに脚当てを入れて手入れ開始。ハヤテが水に満足したことで漸く手入れに入れる。裏掘りをして蹄に詰まった土などを掻きだし、さらに水で洗い流してハヤテの蹄を綺麗にしていく。寒い時期ではあるものの、今日のハヤテはいっぱい運動をしていたので、ぬるま湯を使って丸洗い。ここは素早く済ませないと濡れた体が寒さで冷えてしまうので急いで行う。汗こきを使った水切りも急ぎつつも丁寧に、バスタオルで胴体の水分を拭き取り、馬着という人で言うコートの様なものを着せ、そこから脚を拭いていく。本来なら馬着は最後でいいのだが、今日は丸洗いをしたこともあって早目に着せた。蹄油を塗り一通り全体の手入れが終わり、ハヤテを馬房へ返す。いっぱい走れた。さらに学べた。今日は本当にいいレッスンだった。いつも通り頸を撫でて「おつかれさま」と声をかけ、ハヤテの元を離れていく。休憩室に戻ってきた時、僕は会員さんに声をかけられた。
「すごく上手に乗られてますね!」
話したことがあるかどうかも分からない女性の会員さん、二周りくらい年上だろうか。もっと若かったらごめんなさい。確か部班レッスンにいた気がする。
「え、あ、ありがとうございます。」
突然の声かけに適当な返事を返す。適当とは言っても当たり障りのなさそうな『適度に丁度いい方』の適当だ。チラリとホワイトボードを見る。今日の部班レッスンのメンバーからして、この人は消去法で、長谷部さん…かな?過去に見たことはある。けど、話したことはない、という感じの人だ。まぁ、僕から会員さんに話しかけることがほとんどないため、名前すら知らない人だらけなんだが…。
「ハヤテに乗られてから長いんですか?」
長い…かぁ。そもそも初めて馬に乗ってから8ヶ月しか経ってない。事細かく説明するのも面倒だしここは…。
「どうですかねぇ…馬に初めて乗ったのが今年の4月末なんで。多分、長くないと思います。」
何を思ったのか長谷部さんは、苦笑いして顔を少し下に向けた。
「そうなんですねぇ…。あれだけハヤテを乗りこなしてたから、ずっと乗ってるかと思いましたよ…。」
あぁ…。そういうことか…。今の一言でわかった。過去に東さんが話してた気がする。「ハヤテを苦手にしている会員さんが多い」と。恐らく長谷部さんはその一人だろう。長谷部さんは何年ここの会員をやっているのか知らないが、初心者の僕から見て『乗れてはいる』と思った。ただ、外から見るとわかる。体が固まっている。正直僕も動画で僕のライディングを撮影した場合、体が固まったような乗り方をしているのかもしれない。乗っている時に、自分の姿勢を理解するのは難しいことなのだ。先程の話に戻るが、僕から見て長谷部さんの体は固い。関節がどうとかじゃなく、体全体が一つパーツで作られているようなイメージだ。
人間の体には多くの筋肉や骨、関節などがあり、それを皮膚が覆っている。その為、本当にリラックスして乗っている人というのは体に柔らかさを感じる。これは自分の目の感覚なので言葉にするのは難しい。でも逆に、体が固い人のハッキリとわかるのだ。ちなみにここで言う『体が固い』は柔軟性があるとかないとかの話ではなく、力みがあるかないかの話。ほとんどのスポーツで共通することだと思うが力めば体が固くなる。その力みは体にフィットした服を着ていたり、裸だったりするとよくわかる。乗馬は比較的体にフィットした服装をする競技なので、他のライダーさんの力みは面白いほどにハッキリ見える。長谷部さんは正にそれ。馬が走り出すと、体全体が木工細工の様な固さを出していた。
とはいえ、僕自身乗馬初心者であり、この人は別にアドバイスを求めている訳ではない。それに僕もその人に興味がある訳でもないため、長谷部さんから話を振られない限りは適当な返事と相槌ですませる。完全な聞き役状態だ。結局会話は短いもので終わったが、長谷部さんという会員さんの名前と顔が一致した瞬間であった。
2
年が明ける。嫌いな時期だ。年末年始の休暇に入れるのは嬉しいことだが、休暇の間に行きたいところもないし、乗馬クラブも三が日はお休み。小さい頃に起きていたお笑いブームも過ぎ去り、好きな芸人さんがやるネタも昔見た物が多いし、若い芸人さん達も出てきてはいたが、あまり僕にはハマらなかった。まぁ、今は簡単に「コンプラ、コンプラ」と騒がれてしまう世の中、芸人さんも数年前までは通ったネタやボケも使えなくなっていたり作りにくくなってはいるだろうから大変だと思う。よく言われる「最近のテレビはつまらなくなったなぁ…」現象だろう。まっ、こういう時にスマホはありがたい。
甲高い音が家の中に響く。僕はコタツからのっそりと玄関に向かおうとしたが、入口から聞こえた声で誰が来たのか“顔”はイメージできた。親戚の叔母さんだ。
「おう!あけましておめでとうございます!元気してる!?あんたは…猛か!」
まぁ、毎回恒例の行事だ。だいたい“誰か”の確認が入る。僕自身の見た目はそんなに変わっていないと思うが、比較的兄弟が多い森下家に親戚がやってくると毎回こんな感じだ。
「はい!猛です!“こんにちは!お久しぶりです!”」
新年には違和感のある挨拶かもしれない。が、これも未だに僕の中で悩んでいる問題だ。僕は過去のことが原因で新年の挨拶に戸惑いがある。それはブラックが亡くなった時に手を合わせてやれなかったことにも関係している。そんな新年の挨拶もまともにできない僕相手でも叔母さんは元気よく話す。この人は嫌いな人相手でも元気に話せ…いや、違うか。少し談笑して「アンタ、彼女は?初詣は行かんの?」と聞かれる。これもいつもの流れ。
「彼女いないっすよ、なので結婚もまだまだ先です!初詣も一緒に行く人もいないですし、“混雑してると思いますしね”」
初詣に行かない“本当の理由”はそれじゃない。僕はまだ過去を引きずっている。ただ、行きたいかと聞かれるとそうでもない。今年1年良い年になるようにと行う“神様”への願掛け。僕も小さい頃は“神様”を信じていた。でも、その“神様”は日本人の多くが信じているような“神様”ではなかった。
僕の物心がついたころには両親は宗教家であったため、週に3、4日、何かしらの集まりに参加していた。勿論、僕も連れられて参加していた。小さい頃からそういう環境にいたため、これが当たり前のことのように刷り込まれていた。僕が小学生になった時、それが当たり前のことではないことに気づき始める。過疎地域の学校でもなかったため、1クラスに30人程の同級生がいる。その中で僕の家と同じ宗派の子はいなかった。何故そんなことがわかるのか。理由は簡単。それだけ“森下家が入っていた宗派”には特徴があったからだ。給食の前後で皆が手を合わせるなか、僕は合わせられない。かといって、先生に見つかると何を言われるかわからないし、自己申告するにも目立ってしまう。僕は目立たないように“それっぽい”手の形にして誤魔化した。−これが、ブラックに手を合わせられなかった原因である。−
その他にも色々見極められるポイントは多くあった。が、そこら辺の説明は省くとして、僕が初詣に行かない理由はそれが大きい。そして今となっては関係ないのだが、子供の頃からの習慣に反し他宗派の行事を行うことに罪悪感がある。特に初詣は、“自分が入っていた環境と対立する立場にある行為”になってしまう。今の日本では、初詣にも行くし、クリスマスも祝うし、除夜の鐘も聞くしと、宗教というものをそこまで重く受け止めている人は多くないのかもしれない。けれども、元々厳しく“その道”を歩かされていた僕からすると、“その道”を逸れても心の中から完璧に逸れることはできないままでいたのだ。
−自分が普通の環境に生まれていたらどういう人生だったのだろうか…。−
勿論、そんなこと考えたところで今更時間は返ってこない。挑戦する前に打ち砕かれた夢も多くあった。だから今できることに挑戦して、いつでも“悔いなく死ねる”ように今を生きる。玄関先で行われていた叔母さん達との会話を終えると、僕はコタツに戻ることなく脚の筋トレを始めた。
3
新年最初の乗馬はまさかのホワイトムーンが相方になった。べっとりとこびりついた苦手意識。でも、乗馬ライセンス4級を目指しているのなら、どの馬が相方になってもその実力を出せる騎手にならなければならない。序盤からテキパキとした動きをみせている。ホワイトムーンのこの動き自体は好きなのだが、問題はそこじゃない。原因不明のフラつきや、駈歩のポイントだ。
常にホワイトムーンに意識を向けていても、何かに導かれるかの様に急にコースを外れたりするし、駈歩に関しては“速い速歩”を出されてしまい、全く駈歩を出すことができず調馬索となった経験がある。部班レッスン中では駈歩は使わない。その為、今はまず『フラつき警戒』に集中する。前の馬のやや外側、狙うコースはどの馬でも同じ。そこからムーンが逸れないように、逸れてもすぐに抑えられるように両手の薬指と小指に、両脚の全体に集中力を多く注ぎ込む。少しでも変な動き、というより、変な感覚を感じ取れたらすぐに仕留める狙いだ。でも、一番の理想は『それすらさせないこと』なのだが…。
(さすがに部班中は大人しいなぁ…。でも油断は禁物。)
静かな戦いがムーンと僕の間で行われている。年が明けてまだ数日。乗馬クラブの雰囲気はかなり穏やかな空気が漂っていたのだが、この一人と一頭の間だけは正月だろうが真夏だろうが関係ない空気が漂っている。
そんな部班レッスンが一旦終了し、これから個人レッスンに入っていく。久しぶりに部班三番手に入った僕の出番まで少しある。それまでにできることはないだろうか?鞍上でやれること…。今までは他の会員さん達から盗める技術を盗もうと観察していたが、今日の相方はやや癖がある。他の人を観察してそれをコピーしたとしても、ムーンにそれが通用するかと言われると微妙。理想はムーンに乗ってレッスンしてくれる人が目の前にいればいいのだが、この状況では無理だ、ムーンの鞍上にいるのが僕だからな…。
(最低限の合図でムーン任せにいくか…それとも、完全に僕がボスとしてムーンを誘導するか…)
悩みどころだ。乗馬を始める前、正規会員になるよりも前、5級ライセンスを受けるかどうかを迷っていた頃、ネットで見つけた言葉がある。
−君は馬と友達になりたいのか?それとも馬術で勝ちたいのか?−
そのネット記事を書いた方は、その質問をされ乗馬の世界に足を踏み入れることを止めたらしい。今、ムーンとの“戦い”で必要になるのは“後者”の答えだろう。僕がムーンを操るには馬術で勝ちたいという気持ちと共に成長し、どの馬が相方になっても戦える馬術ができる心・技・体を身につけることだろう。もし僕が同じ質問をされたら…。
(即答…“どっちも”だろ?)
(馬と友達になりつつ、馬と共に勝つ。)
それならまず、理解しなければいけない。ホワイトムーンの性格やポイントを。今日のレッスンがどの馬になるか選べるわけではないからこそ、僅かな時間でそれを掴む必要がある。ただ、どうすればいい…。
(馬なりに走らせるか?ただ、そこに行くにはまず駈歩を出せなければ始まらない。)
そうなると…個人レッスンの最初は軽速歩をできるだけ長くとって低速を意識させて、駈歩の合図でギアをあげさせるか…。それで走ったところを馬なりに任せて、そこから少しずつ工夫してホワイトムーンの性格・ポイント調査に入るか…。
そうこう色々考えているうちに時間は進んでいたようで、僕達の個人レッスンの番がきた。細い脚でキビキビとした常歩、白い体が中央から外れ蹄跡へ出る。部班レッスンからの待ち時間があったため、常歩で少し歩かせてから速歩へ。そしてもう一度常歩に落としてから駈歩に入る。そんないつもの流に入ろうとしていたが猛はあることに気づく。
(…色々考えてたけど、結局無策じゃん?)
考えた。ただ考えただけで答えを出せてない。こうなったら一旦いつも通りやってみるか。そう思っていた。ムーンの性格とかポイントとか関係なく、他の馬に乗った時にやってること、意識してることをムーンにもう一度ぶつけてみよう。それでダメならまた調馬索になるかもしれないが…。
軽速歩を一周入れた後、再度常歩を入れて様子を見る。インストラクターからは「駈歩の方に入っていきましょう」と、いつでも合図を出していいという状態に入ったが、今日はいつもより長めに常歩させてみた。なかなか駈歩を出させようとしない僕に周りの空気が少し変わった。インストラクターは僕が指示を聞きそびれたと思ったのか、もう一度「駈歩に入っていいですよ!」と声をかける。僕は「はい!」と言いつつも、脚の入れる強さやテンポを弄ったり、手綱の張り方を変えるなどをしながら常歩を続けムーンとの駆け引きをした。ムーンの動きに変化を感じる。ここだ…。
右手前での運動。左脚を少し後ろに引き、右脚で内方ブロック、右手薬指の引っ掛ける強さを上げる。ムーンはそれに反応し…速歩をだした。
え、違う違う、そうじゃ、そうじゃない。駈歩駈歩。またしてもムーンに惨敗するのか。今回は前回よりも確り準備したはずだ。ムーンの動きも変わっていたし、後は合図を出せば駈歩が出ると思っていた。こうなってしまったら仕方ない。一回ムーンを止めよう…いや、止まるのか?前回もこうなったムーンを止めれなかったよな?
とりあえず、自分の体の動きを全部止める。ムーンは止まらない。あぁ…僕は心の中で諦めた。諦めたことで少し冷静になった僕は頭からムーンのことがすっ飛び、別のことを考えてしまう。
(二週間後、4級試験ヤバくね…?)
実は猛は、年末最後のレッスンの時に「1月末に4級ライセンス試験を受けます」と、インストラクターに話していた。来週もレッスンには来るが、試験までのレッスンは今回と次回が最後。その今回がこの様よ…。
速歩で走り続けるムーンを止めようとして自然と体に力が入る。また手綱を引いてしまった。ムーンは当然止まらない。インストラクターが寄ってくる。ああ、またこの流れだ。しかしその瞬間、ムーンの動きが次第に弱くなっていく。これはチャンスと体勢を立て直し、無事に常歩、そして更に停止にまで持っていくことができた。それにしても、ムーンはこのインストラクターが苦手なのだろうか。いや、むしろこのインストラクターが苦手なら、より逃げるような動きをするか。何故、落ち着いたのかわからないが、どちらにしろ僕にとっては助かった。でもこれは、自分の実力で馬を止めたとは言えない。
(ホンッッットに、どうしていいかわからん!)
(ムーンが4級の試験馬なら100パー終わる!)
今日も駈歩が出ない。右手前はこのまま終了。かと、思われた。
「背筋伸ばして、真っ直ぐ見てください。」
今日のインストラクターである高口さんからのアドバイスはすごくシンプルなものだった。それだけ?逆にそれだけで駈歩ができるのか?高口さんは再び馬場中央に戻り僕とムーンのレッスンを見る。
常歩から再び駈歩に入る。合図を出す時はいつも通り、そこに高口さんのアドバイスを足して背筋を伸ばし視線を真っ直ぐ…。!!!。ムーンが…駈歩をだした。しかも止まる気配のない駈歩がでている。わかならい。ますますわからなくなった。僕はあのシンプルなアドバイスを受けるまで背筋を伸ばして乗ること、真っ直ぐ見ることができていなかったのだろうか。正直、乗馬をしていると、思ったより猫背になっているケースは多い。なので実際、アドバイスを受ける前は背筋が伸びてなかったのかもしれないと思うが、もう一つのアドバイスは謎だ。『真っ直ぐ見る』というシンプルなアドバイスを受けて実際にムーンは走った。ただ、このアドバイスを受けて思ったのが、僕はそれまで『どこを見ていたんだ』というところ。馬だろうが車だろうが走らせる時は、前を見るのが基本だ。それなのにそんなアドバイスを受けた僕は何を見ていたんだ。…もしかして?
(下か…?ムーンの様子を見すぎてたのか?)
正直記憶にない。たった今の出来事なのに『どこを見てたの?』と聞かれても『ここです!』と自信を持って言えない。インストラクターの高口さんからあのアドバイスが入るということは、高口さんから見て僕は『前を見ていなかった』のだろうが、当の本人がどこを見ていたのか記憶にない。考えられるとしたら、ムーンを走らせようとして『ムーンの様子を伺っていたために視線がムーンに行っていた』か『足元を見ていた』のかだろう。どちらにしろ、無意識のうちに視線が落ちていたと思われる。だから記憶にないのだろう。
(こんな単純なことで走ってくれるのなら、単純に僕のミスじゃん…。)
その後の左手前の駈歩でもムーンは走った。止めようとしない限り止まろうとしない確りとした駈歩をムーンは出し続けた。でも不思議だ。何故ムーンは、騎手が前を見たら走り出したのだろうか…。馬は草食動物であるがゆえにかなり広い視野を持っている。死角はわずか10度。言い方を変えれば350度見えることになる。でも、騎手の目線まで見えるのか?騎手は死角の10度の中にいるのでは?と僕は思う。ただ、目線を意識したことでムーンが駈歩を出したという事実は変わらない。これはまた余裕がある時に理由を調べるとして、僕は目線を意識することの大事さを脳みそに叩き込んだ。
レッスン後、いつものように手入れに入る。裏掘りをしていてた時、長靴の足音が聞こえてきた。その足音は僕の近くで止まり、人の気配も背中にハッキリ感じた。後ろを振り返ると妹尾さんが立っている。妹尾さんに「おつかれさまです」と挨拶すると、妹尾さんは「おつかれ」といつも感じで挨拶を返してきた。僕は直感で妹尾さんにレッスンの一部を見られていたことを感じとり、少し間をおいて妹尾さんに漏らす。
「今日の感じじゃ、4級は厳しいですよねぇ…」
「そうだね〜」
妹尾さんの発言はストレートだった。でも、ここで「いや、そんなことないよ」と励まされるよりもインストラクターの素直な言葉聞けるので僕としては満足な返答だった。まぁ、少しは落ち込んだが…。僕は手入れをしていたこともあり、次に繋げる言葉をなかなか見つけられなかっただけなのだが、妹尾さんは自分の発言により落ち込ませてしまったとでも思ったのだろうか、「でも最後の方は調子出てたから、あれくらい出せればいけるよ」とフォローをいれる。『あれくらい出せれば』という言葉は僕もそう思う。でも4級の時に出せるかどうかが鍵になる。こうなると、試験の時にどの馬が当たるのか、気になって気になって仕方がない。その後の会話で「ある程度、相性とかを見て決める」ということを教えてもらい、「ムーンが来ることはまず無い」とのことを聞けたが、本当なら『ムーンが来ても4級の実力を出せなければ』4級取得者とも言えない。ただ、「ムーンが来ることはまず無い」と言われて安心感が湧いてしまった僕の実力はまだまだなのだろう。後二週間後で何ができるかを考えながら僕はムーンの手入れを続け、手入れを終えるといつもと同じ様に馬房で「おつかれさま」とムーンに声をかけて去っていく。後二週間…後二週間…。勝負の時は刻々と迫っていた。
−二週間後−
休憩室の扉を開けるやいなや僕の視線がある部分に瞬間的に向かっていく。−ホワイトボード−そこには馬の名前が記入されたマグネットが貼られ、その付近にビジターを含めた会員さんの名前が黒いマジックで記入されている。簡単に言えば『本日の騎乗表』だ。僕の名前の隣に貼られたマグネットに書かれた三文字を見て安心する。いや、そんなことで安心してはいけないのだろう。乗馬ライセンス4級試験が行われる本日の相方に選ばれたのはハヤテだった。
僕は比較的空いてそうなスペースを見つけ、バッグの中からブーツを取り出し早速準備を始める。とはいっても、自分の身の回りの準備だけだ。馬の準備は早すぎると馬に負担をかけてしまう。ブーツを履いたら拍車を付け、拍車を付けたらバッグから手袋を取り出しキュロットの尻ポケットに捩じ込む。ヘルメットはすぐに身に付けれるようにバッグから出して邪魔にならないスペースへ。身の回りの忘れ物が無いかをチェックしたら寒空の下で体をほぐす。肩を小さく回したり、腰を左右にゆっくり捻ったり、腕をクロスして三角筋のストレッチをしたり、屈伸・伸脚などのオーソドックスなものを行った。そして絶対に欠かさないのはアキレス腱のストレッチ。断裂だけは絶対に避けたい怪我だ。冬のストレッチはいつも以上に入念に行わなければ体が解れない。同じストレッチを何度も繰り返す。特に今日は大事な日。くどい程ストレッチを行うと休憩室に戻り体が冷えないように温まった。乗馬を始めてから2回目の勝負の時が近づいている。
また体が冷えてきた。乗馬クラブに着いたばかりの時よりはだいぶマシだが、心臓から遠いところから感じる冷えが少しずつ明確になっていく。レッスン開始まであと僅か。鞍も頭絡も付けて準備万端のハヤテの隣で手綱を持ちながらできるストレッチを行う。
「今日もよろしくお願いします。」
下を向きながらストレッチをしていた僕に右側から声がかけられた。長谷部さんがいる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
僕は軽く返した。続けて話題をふる。
「長谷部さんは、乗馬始めてから長いんですか?」
「う〜ん、何年くらいだろう…ちっとも上手くならない…。」
「そうですか?僕から見たら乗れてると思いますけど…。」
「全然ですよ!森下さんの方がお上手です。」
「いやいや…そういえば今日、4級の試験なんです。」
「え?」
長谷部さんはそこで僕の馬を見た。馬装したハヤテが僕の隣にいる。
「…ハヤテで…ですか?」
「…はい…?」
「ああ…大変ですねぇ…。」
長谷部さんが少し驚いたような顔をして続けて発した言葉に僕は心の中で驚いたが、長谷部さんが過去に話していたことを思い出す。
−そうなんですねぇ…。あれだけハヤテを乗りこなしてたから、ずっと乗ってるかと思いましたよ…。−
そういえばこの人はハヤテ苦手勢だった。そんな長谷部さんか見たらハヤテで試験は憂鬱な気分になるのだろうが僕は逆だ。あがり症の僕の性格をハヤテの存在が自信に書き換えてくれる。今はレッスン前ということで少し不安はあるものの、試験が始まるころにはハヤテは自分の背中で僕だけじゃなく僕の気持ちも運んでくれるだろう。誰よりも何よりも信頼できる存在なのかもしれない。
人それぞれ得意・不得意は存在する。それは対人関係や業務や趣味にも現れるが、馬相手にもそれは現れる。僕が長谷部さんに返す言葉はこれしかないと思えるものだった。
「大丈夫です。ハヤテなら受かれます。僕にとっては好きな馬で信頼できる馬なんで。僕はハヤテに合格させてもらいますよ。」
真顔に近い顔なのに笑っているように感じられる。そんな小さな小さな笑顔で僕は長谷部さんに答えた。
屋内馬場の入口から細いシルエットが現れると「それでは中(部班レッスン)の方、行きましょう」と声がかかる。僕は「どうぞ。」と屋内馬場に近い長谷部さんから入ってもらうように促し、その後に少し距離を空けてついていく。
(不思議だ。長谷部さんにあの発言をしてから緊張が消えた。言葉の力か、ハヤテの存在の力か…どっちかな?)
またまた顔だけで小さく笑う。僕は今日、乗馬ライセンス4級に合格する。ハヤテと共に合格する。未来人にその事実を伝えられたのかと思うくらいの自信が心を満たしている。フラグ建築?いやいや、事実。僕は今日、乗馬ライセンス4級に合格する。
ハヤテに跨り鐙の踏み込みをチェックする。長さも完璧、しっくりきている。第三者視点から見たらどうなのかわからないが、個人的に背中の伸び具合も良いし、鞍のフィット感もある。腹帯を締めてウォーミングアップ。−1、2、3、4、1、2、3、4…−今日も心地よいリズムの常歩をハヤテは出してくれている。
今日のレッスンに参加する全頭の準備が済み、まずは全頭での部班レッスン。ここは今日の速歩を状態を調べるのに丁度いい。重そうであれば部班レッスンの間にハヤテに意識を持たせることもできるし、軽めならハヤテにできるだけ任せてリラックスさせてやる。まぁ、ハヤテはウォーミングアップから調子良さそうだし、心配することはないだろう。案の定、ハヤテの速歩は軽快なものだった。この速歩はいつもと同じ速歩だ。だからこそ安心できる。
(さすがハヤテ。ハヤテは僕の精神安定剤みたいな存在だな!)
今日は大事な試験の日。4級試験は個人レッスンのタイミングで行われるらしい。だいたい個人レッスンは部班の隊列の前にいた馬から順に行われる。そうなると、部班レッスン二番手につけている僕は少し間をおいてから個人レッスンに入り、その締めに試験を受けることになるらしい。欲をいえば部班レッスン終了後、すぐに個人レッスンをして試験に挑みたいところではあるが仕方がない。
(どちらにしろ、今日もハヤテは調子がいい。後は信じて乗るだけ。そうすれば自然と合格する!)
油断大敵とはよく言うが、油断と自信は紙一重だと思う。他人が僕の心の中を見れるなら、その人は僕が油断しているとみるのだろうか?それとも自信満々で挑んでいると見るのか?それくらい微妙なところかもしれない。
部班レッスンが終わる。一つだけ予想外のことがおきた。
「今日、4級試験なんでハヤテから行きますね。」
ハッキリと聞こえはするが小さな声でそう告げたのは、今日のインストラクターの美藤さんだ。細身の体型で噂では50キロ無いとかも聞く。身長も低い訳ではない男性のインストラクターだ。
僕は美藤さんの指示に従い、そのまま馬場内を歩く。ハヤテも部班レッスンからそのまま個人レッスンに入れるからか集中も切れることなく維持できそうだ。一緒に部班レッスンを受けていた他の馬が、一度柵の向こう側へ移動させられる。これで屋内馬場には僕とハヤテ、そしてインストラクターのみとなった、が、休憩室の窓のところに一人、屋内馬場の入口に三人、こちらを見ている人がいる。休憩室の窓には高口さん、入口のところから見ているうちの一人は妹尾さん、普段のレッスンならあり得ないことなので、このインストラクター二人は試験官的な立場で見ているのかもしれないと思った。
今までの僕なら、この状況で緊張がどんどんどんどん増していただろう。駈歩を出せなかったら…軽速歩の手前を間違えてたら…落馬したら…と、悪い妄想に途切れることなく襲われていただろう。でも今は違う。僕は大きな背中に支えられてこの馬場にいる。この背中の上で感じるテンポのいいリズムも、ゆったりとした運んでくれるような浮遊感も、僕の心を襲う緊張を打ち壊し続けていく。
(どこにも死角がないような感覚…窓の向こうの、入口付近の、柵の外側の…全員の表情までハッキリ見える程の余裕がある。これが…相方の力か…。)
テンポよく動いていたハヤテの脚が一本ずつ地面を踏みしめるような歩きに変わる。一周回ったところで完全に止まると、僕はできる限りハヤテの頸に体近づけその頸を撫でる。窓の向こうの、入口の向こうのインストラクターが背中を向け離れていく。唯一近づいてきた美藤さんが言ったのは「(実技は)合格です」の少ない言葉だった。
僕達は柵の外で待っていた他の馬達と入れ替わるように外へ出た。この後、筆記試験が残っているため、ハヤテはそのまま洗い場に繋げられ、手入れは他のインストラクターに託された。僕は最後にもう一度ハヤテの頸を撫で「おつかれさま、ありがとう…」と伝えてハヤテから離れていく。今日は手入れをして、馬房に連れて帰ることまでできない。実技試験合格に導いてくれたハヤテの頑張りを無駄にしないためにも筆記試験は落とせない。
休憩室に入りブーツを脱ぐ。圧迫された脹脛が緩む。休憩室の奥へと向かい5級ライセンスで筆記試験を受けた時と同じテーブル席へ向かう。やっぱりハヤテの力は強かった。筆記試験は満点取るほどの自信がある。それでもハヤテと別れてから、心拍数が明らかに上がっていた。椅子に腰をかけると事務室から美藤さんが2枚の用紙を持って現れた。問題用紙と解答用紙。次のステップへ進むための最後の戦い…と言っても筆記試験の合格率はかなり高いため、実技試験さえ受かればほぼ合格だ。
僕は左手に持った借り物の鉛筆を机に置き、今度は両手で解答用紙を持った。解答に時間はかからない。ただ合格を確実なものにするために、解答の何倍もの時間を確認に当てた。問題に対する答えがあっているか、解答欄はまちがっていなかなどを何回も何回も目を往復させて確認した。前屈みの状態から今度は背凭れに体を預けるような姿勢をとり、それと同時に解答用紙を机に置いた。
事務室には2箇所入口があり、僕の座っていた所の近くには凹凸ガラスのついた扉がある。凹凸ガラス越しでも僕が度重なる確認を終えたのが分かったのだろう。美藤さんが「終わりました?」と聞いてきた。その答えを返すと解答用紙が回収され美藤さんが再び事務室へと消える。5分程の僅かな時間で採点は終わった。
「満点です。」
その言葉を聞き今日1日背負ってきた緊張が取れた。とは言っても、ハヤテと一緒にいた時間はほぼ緊張がなかったのだが、4級ライセンス試験を合格したことで体の力が抜けたような感覚に襲われていた。
美藤さんが僕の向かいの席に座り、ライセンス合格後の手続きやそれにかかる費用の説明を始めた。ここら辺は5級の時とほぼ同じ。一通りの説明が終わった後、美藤さんが少し間を置いて口を開いた。
「どうでした、今日?」
僕は説明を受けていた時の前屈みの姿勢から一度姿勢を伸ばしながら「そうですねぇ…」と考えるように呟く。頭の中に浮かんだ答えを整理して、再び前屈みの姿勢になると、美藤さんに話す。
「乗る前が一番緊張しました。筆記の方は自信ありましたけど…変なミスだけしないように気をつけた感じですね…。」
美藤さんは適当な相槌を打ちながら聞いていた。
その後も少し美藤さんとの会話を続けたが、何となくここだろう、というタイミングで会話を終え、お互い席を離れていく。美藤さんは再び事務室へ戻り、僕は休憩室を出てハヤテの馬房へと向かう。いつもと違う怠さのあった体が、冷たい風に吹かれて固まり、ややいかり肩になる。寒さゆえに少し足早になった。
僕が馬房の前やってきたとき、餌の残骸だと思われる僅かな草を食んでいたが、ハヤテは一度顔を上げ馬栓棒の上から通路側へと出す。僕は固いハヤテの頬を撫でながら少しずつ頸の方へと手をやった。
(受かっちゃったよ。早いのか遅いのかわからないけど、一年経たずに4級取っちゃったよ。)
週末ライダーの昇級ペースがどれくらいのものなのかは分からない。僕の中ではもう少し時間をかけて4級に挑むイメージをもっていた。その為、今回の試験は正直『まだ早いかもしれない、焦って受験をきめてしまったかもしれない』と思う日々もあった。しかし今日、目の前にいるハヤテのおかけで無事に合格することができた。感謝でしかない。
撫で続ける僕に甘噛みしようと企むハヤテの口を躱し、馬房入口付近の壁に凭れる。そのままの姿勢から顔を東側へ向けると通路の先に外馬場が見える。無限に広がる空の下、3頭の馬が広々と動き回る姿は僕が小さな時に憧れたあの光景近い。あの光景と異なる点は…
(車の助手席から見た時は東側から馬場を見てたな…でも今は、西から見てる。)
「あの時と違って…今の僕はライダーとして外馬場に憧れてるんだな…。」
心の中に思っていたものが、途中から思わず声に出てしまっていた。次の目標は一瞬で決まった。『外へ』だ。
憧れの外馬場へ出るには臨空乗馬クラブが独自で行っている『中級ライセンス』に合格する必要がある。過去、臨空乗馬クラブに所属していた会員さんで、なかなか『中級ライセンス試験』を突破することができず、別の乗馬施設で乗馬ライセンス3級をしてきた人がいたらしい。臨空乗馬クラブで外馬場に出るには中級ライセンス、若しくは、それ以上の実力がある者としている。その為、乗馬ライセンス3級所持者は外馬場に出る権利を得ることができるのだが、乗馬ライセンス3級と4級を繋ぐ架け橋である『中級ライセンス』に合格できていない会員さんが外馬場に出る権利を得てしまったのだ。その結果、外馬場で馬を制御することができず、その会員さんはその時の乗馬がトラウマになってしまい、そのまま臨空乗馬クラブを離れてしまったらしい。
ちなみにこの『中級ライセンス試験』は乗馬ライセンス3級試験より難しいと言われている。これは『そういった過去の出来事を再発させず、できるだけ乗馬を長く安全に楽しむための措置』であるため、一部の会員さんやインストラクターからも『落とす(不合格にする)ための試験』とも言われている。「一発で合格した人はいるのか?」と聞くと該当者がいるかどうか皆必死に考えるほど、この試験は難しく設定されている。
次の目標はそこになる。勿論、一発合格できたらそれに越したことはないのだが、『落とすための試験』と言われる程の難易度であるため、少しでも少ない受験回数で合格するにはどうすればいいかを考えなければならない。ちなみにこの試験では、臨空乗馬クラブが試験馬を絞っている。そこで名前のあがるのがハヤテ、スバル、そしてローレンの3頭。一応、とある馬でも受験できるらしいが、その馬は難易度がかなり高く、その馬で受験する会員さんは、まずいないらしい。
この3頭の中でも中級ライセンス試験の定番になっているのがローレンだ。こちらは東さんと相性がいい馬ではあるが、「狙って人を落とす馬」とも恐れられている馬である。ただ、これでは少し言葉が足りない。ローレンが狙って落とすのは『舐められた人』だ。ローレンを苦手にしている会員さんは皆この部分を省略しがちで、少しローレンに暴れられたり、反抗されただけで恐怖心を持ってしまっているパターンが多い。インストラクターはそのことを理解しており、僕は過去にローレンの対策法を既に聞いていた。その対策法は至ってシンプルなもので『仕掛けてくる時に集中させる』というものである。インストラクター曰く、ローレンが悪さをしてくる時は前兆がある。特にローレンが騎手を落とす時によくやるのが90度ターンらしいのだが、ローレンがそれをやろうとする時は大抵手前に対して外側を見ていることが多いらしい。ローレンが外側を見だしたら内方手綱を軽く張ってやって、内側への意識をさせてやれば90度ターンはほぼ食らわないとのこと。これを聞いた人はこう思ったのではないだろうか?「それだけ?」と。今の僕はローレンに乗ったことがない。だからこそ本当に「それだけ」で対策できるのか分からないのだが、出されたアドバイスは「それだけ」なのである。
逆に言えば、「それだけ」を対処すれば普通の馬なのだろう。しかし、この一部分ができなかっただけでローレンに仕掛けられ、恐怖心を深く刻まれた騎手がこのクラブには多いようだ。中級ライセンス試験の『大きな壁』として立ちはだかるのが、ちょっと対策すれば何とかなる馬(ローレン)であることを考えると、『ローレンを安全に乗りこなせない者が外馬場に出るのは危険』という乗馬クラブの見解は至極真っ当なものと言えるだろう。
−普通にしてればできる馬。普通にさせるのは騎手の技術−
こんな単純なことなのであるが、一部の会員さんは『馬は自分の言うことを聞いて動いてくれる』と思っているようで、『その合図を出せば馬が動いてくれるもの。動かないのはその馬の問題』と言わんばかりの発言をする者もいる。確かに『動いてくれない』と感じる馬はいるものの、それを動かせる人がそれなりにいるのであれば、騎手側の努力も必要だろう。特にローレンの場合は、中級ライセンス試験馬として扱われており、外馬場でレッスンを受けている会員さんの多くはローレンを乗りこなして中級ライセンス試験に合格したという事実がある。勿論、ローレンに乗れなくても、ハヤテやスバルで合格すればいいという見方もできるが、ローレン以外で中級ライセンス試験に出た馬を僕は聞いたことがなかった。そう考えると、僕も恐らく中級ライセンス試験はローレンで挑むことになるであろう。
目の前で見たことはあるが自分で乗ったことのない馬であるローレン。ローレンは僕が外馬場に出るにあたって『壁』となるか『友』となるか…。
僕は今日、4級ライセンスに合格した。次に目指すのは乗馬ライセンス3級。しかし、所属しているクラブではその前の壁・中級ライセンス試験がある。その試験で出てくる馬は恐らくローレンだろう。早く乗ってみたい。そして自分が操れるのかどうかを知りたい。そんなことを考えていた帰り道だったが、次のレッスンで早くもローレンとレッスンをすることを、この時の僕はまだ知らない。
−第3部 完−