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鞍上の狼 第2部

B地点 『鞍上の子犬』

6月。梅雨に入った最初の土曜日。僕は臨空乗馬クラブにいた。二週間前、僕はこの乗馬クラブで乗馬ライセンス5級試験に合格し、今は正式な会員としてここにいる。
僕より年上だろう大人の会員の姿が目立つ中、小学生やそれよりも幼い子供の姿もちらほら見える。何世代年上だろうと年下であろうと、彼らは皆『先輩会員』だ。
不思議な感じがする。趣味でやってた草野球やフットサルでも、違う世代の人達とプレイすることあったはずなのに、あの場所とは空気の違いを凄く感じる。ライセンスコース受講時から通っていたとはいえ、ここに乗りに来るのはまだ5回目。この空気に慣れていなくても当たり前のことかもしれないが、レッスンまでの待ち時間は居心地がいいものではなかった。

(もっと遅く来た方がよかったか…。)

元々、時間ギリギリの行動をするのが嫌いな僕はレッスン時間の二時間程前からここにいる。会員として乗るのは今日が初日だから、色々わからないことも多い。今までは馬装もインストラクターかお手伝いの方がやっていたみたいなので、馬装をし始める時間の目安もわからないし、馬装をスムーズにできる自信もない。それに、先輩会員達のレッスン風景を見てみたいというのもあり、早めに乗馬クラブに来ることを選んだ。
休憩室のホワイトボードを見る。そこには僕の名前が今までとは違う欄に書かれており、その隣には『ノエル』と書かれたマグネットが貼られていた。恐らく今日の“相棒”だろう。ノエルは5級ライセンスコースでもお世話になった馬で、反動も小さくそれなりに乗りやすさを感じる馬だ。
ライセンスコースを受講していた時にお世話になったインストラクター・佐藤さんが事務室から出てくる。

「あ、こんにちは!早いですね!」

「こんにちは。」

「今日から正式な会員さんとしてのレッスンですね!馬装とか色々説明があるので、その時また声をかけますね!」

「わかりました。ちなみに、馬装はどれくらいのタイミングで開始すればいいんですか?」

「そうですねぇ。だいたいレッスンの30分前からですかね!馬によっては装備の少ない子もいますが、ノエルなら30分前でいきましょうか!」

「わかりました。それなら、また後でよろしくお願いします!」

なるほど、30分か。レッスンで馬装した馬は見ているが、その装備がどんな感じで着けられているかをじっくりとは見ていない。脚にはプロテクター、背中には鞍とゼッケン、頭には頭絡を着けているのはわかるが、パッと見ただけで一人で簡単に装備できるようになるものとは思えない。馬装の練習は、さすがに家では無理だ。鞍もゼッケンも頭絡もプロテクターも持ってないし、馬は勿論、着けるモデルもいない。

(これは、できるようになるまで、ここで繰り返すしかないか…。)

会員となって初めてのレッスン。一番の不安要素が意外なところで生まれてしまった。

レッスン開始30分前、佐藤さんが声をかけに来た。馬を出すところから付き添ってくれるようだ。佐藤さんは、頭絡をシンプルな形にしたような物で無口と呼ばれる装備品と曳手を持っている。ノエルのいる馬房に着くと、塞いである3本の棒の上下2本を外し馬房内へ入っていった。
佐藤さんがノエルの左側に立つ。

「これ、無口といいます!この無口の長い部分、項革(うなじかわ)って言うんですけど、ここが馬の耳の後ろに来ます。まず、項革を持ってもらって…」

右手で軽く持ち上げた無口がだらりと下に伸びる。そうすると、無口の下に伸びた部分に歪な輪っかのような部分ができた。この形状、恐らく…。

「そうすると、無口の下側…この部分に輪っかみたいなところがありますよね?鼻革(はなかわ)と言うこの輪っかの部分を、馬の鼻先から通すように着けます!」

無口のそれぞれの革の部分にも細かい名称があるらしい。

「それじゃ、着けていきます。まず項革ですね!ここを馬の耳の後ろに持ってきます。そしたらそのまま、鼻革を鼻先から通して、鼻革の上部を鼻梁(びりょう)まで、下側を顎ら辺まで持ってきます。」

なるほどなるほど。無口の付け方は結構単純なものだな。後は何となくわかる。鼻革を通したら…

「そうしたら、最後に無口の横側にあるここ、頬革(ほおかわ)に輪っかが付いてるので、ここにコレ!留め金(とめがね)をパチリとはめればオッケーです!」

やっぱり。留め金の存在を見れば何となく最後はわかる。それにしても、馬具は留め金一つにも名称が付けられてるのか。僕なら「“コレ”をここに付けてねー!」くらいで説明を終わらせてしまいそうだ。
無口が着いた馬に一瞬目をやると、佐藤さんは更に続けた。

「とりあえず無口の付け方はこんな感じです!でもこれでは馬を連れていけないので、最後に曳き手の留め金を鼻革と咽革(のどかわ)の交わる所にある輪っかに付けて終了です!気をつけることとしては、馬が曳き手を踏まないように、曳き手は地面に着けないように心がけて下さい!」

「…わかりました!気をつけます!」

ここまでは理解できる。無口の付け方も曳き手の付け方もシンプル。問題はこの後、馬装だ。馬装も佐藤さんが付き添ってくれるらしい。ノエルを曳く佐藤さんに付いていく。通路を抜けると左右両サイドに馬を繋げる場所が数個、さらに進んだ奥にも数個見える。洗い場と呼ばれるこの場所にはノエルを含めて4頭の馬の姿がある。ここにいる馬と会員さんは恐らく同じレッスンを受ける会員さんだろう。見学に来たクラブ内競技会で見かけたかもしれないが、ここの会員さん達のことは今の僕にはまだわからないことだらけだ。
まぁ…当たり前か。
佐藤さんがノエルを繋ぎ、僕を隅にある小屋へ案内する。そこは鞍置き場らしく、それぞれの馬に合わせた装備が分けて置かれている。その他に、会員さんが個人で所有する鞍も置かれていたり、手入れに使用するであろう細かい道具などが置かれていた。佐藤さんは『ノエル』と言う名札が付いたところから鞍などの装備をまとめて持ち上げる。その時の体の動きや腕の張り方を見た感じ、少し重さがありそうだ。
持ってきた鞍を乗せる前に馬の手入れを行う。まずは根ブラシで体全体の汚れを落としていく。レッスンに出ていなくても、馬房で寝ていたりもするので馬体におが粉が付いていたりすることはよくある。根ブラシによるブラッシングは、それを落とす効果もあるが、適切に行えば馬のマッサージにもなり血液の循環を良くすることもあるらしい。これは5級ライセンスの筆記試験範囲で書かれていたことだ。尻尾に絡んだ汚れも根ブラシで落としていくが、馬の尻尾の手入れは慣れるまで少し怖い。馬の後ろに立つのは蹴られるというイメージは小さい頃からある。ここの手入れは常に警戒心を高めていた。
根ブラシでのブラッシングを終えると、裏掘りを使って蹄の汚れ落としにはいる。ここも5級ライセンスで勉強したところだ。馬の左側に立ち。左前肢のやや後ろ辺りを、少し自分の左肩で押して馬のバランスをずらす。それに反応して馬が…あれ?

「…!!…脚、全然上がらないですね…!!」

隣で見ていた佐藤さんから「もっと押していいですよ!」とアドバイスを受けるが、なかなか脚が上がらない。それどころか、ノエルが僕の方に体重をかけ「意地でも脚を上げてやるもんか!」と言っているような力強さを感じる。これを見て、佐藤さんが僕に代わって脚を上げさせようとする。なんと一発でノエルの脚を上げさせることに成功してしまった。これがインストラクターの技なのか…。
結局、その脚の裏掘りは佐藤さんが担当し、残りの脚のみ僕が裏掘りを担当した。佐藤さんは「この馬は左前肢だけなかなか上げてくれない」らしく、他の会員さんでもよくあることらしい。それがインストラクターの佐藤さんだと上がるということは“そこ”に何かがあるはずだ。コツ、技術、それとも信頼関係…。信頼関係だとしたら、少し時間をかけないといけないかもしれない。
手入れが終わるといよいよ馬装だ。ここら辺は乗馬クラブの方針やその馬の特徴などで変わってくると思うが、今回、ノエルに身につける物は、ゲルパッド、ゼッケン、鞍、頭絡、脚あて(プロテクター)の5つ。基本装備と言ったところだろう。中にはネックストレッチやイヤーネット、折り返し手綱などを使う馬もいるらしい。が、とりあえず今はノエルの馬装だ。
まずはプロテクターを脚に付けていく。ここら辺も乗馬クラブの方針や馬にもよるが、前後左右の脚に付けていく。中には前肢だけ付ける馬もいるらしい。プロテクターを付ける時に注意しないといけないのがプロテクターの向きだ。前肢に付けるプロテクターは脚に両側と後ろを包むような向きで付ける。そしてプロテクターはマジックテープでとめる物が多いと思うが、このマジックテープをとめる位置が外側に来るようにすることが大事。なので、左前肢に付けるプロテクターは、左前肢の左側にマジックテープが来るようにしなければならない。このマジックテープが内側に来るように付けてしまうと、運動中に左脚と右脚のプロテクターのマジックテープがぶつかり、マジックテープが外れてしまう恐れがある。なので、この向きは間違えないようにつけること。
次は初心者の難関、鞍付けだ。ノエルの場合、普通に鞍付けすると鞍ズレを起こしやすい体型になっているらしく、ノエルの体に直接ゲルパッドを敷く。馬によっては、ゼッケンと鞍の間にゲルパッドを敷く時もあるらしい。ゲルパッドにも前後向きがある。実物を見たらなんとなく向きはわかると思うが、言葉で説明すると難しい。簡単に言うと『広がってる方が前』だ。これで察して欲しい。
そしてここからがゼッケンと鞍になる。ゼッケンを付ける時の注意点は、ゼッケンの前の方、馬体で言うところの頭の方は拳1つ分くらいの隙間をあけることである。この隙間が無いと、乗馬中の馬の揺れや反動、騎手の動きなんかも加わり、ゼッケンが馬の背中に擦れ、鞍傷(あんしょう)に繋がる可能性がある。人に例えるなら、サイズの合ってない靴を履いた時に起きる靴擦れのような現象だ。なので、それが起きないようにゼッケンを付ける時点で隙間を作っておくことが大事になる。そしてそのゼッケンの上に鞍を乗せ、腹帯(はらおび)を締める。ここも乗馬クラブや担当インストラクターによって意見が変わるところであるが、僕が初心者の頃に習ったやり方だと、『乗る前は腹帯を緩めに、跨がったら本格的に締める』というスタイルだ。中には『乗る前から確り締める』という教えもあるので、そこは臨機応変に対応するのがベターだろう。一旦、鞍を付けたら鐙(あぶみ)の長さ調整だ。とは言っても、性格に言えば長さ調整をするのは鐙が付いてる鐙革の調整。だいたい鐙革の付け根から鐙までを『腕の長さ』を元に調整する。それで短い・長いがあるなら跨がってみて微調整。鐙の長さ調整を終えたら、鐙革がぷらぷらと動かないように、レッスンまで鐙革通しに納めておく。乗馬クラブなどで借りた鞍には、劣化し鐙革を納める鐙革通しが破損している場合がある。その時は右脚をかける方の鐙を鞍の上を通して左側へ、左脚をかける方の鐙を鞍の上を通して右側へ行くように流す。これで鞍付けまでは一旦終了だ。
最後は頭絡になるが、これはレッスン開始5分前くらいから付け始めるのが良いらしい。頭絡を付ける時は、馬の左側に立ち、手綱を馬の首にかける。手綱をかけたら、右手で項革を持ち左手でハミを咥えさせる。馬が口をあけてくれない時は、馬の口角に指を入れると口をあけてくれるので、そのタイミングでハミを咥えさせる。ハミを咥えたら項革と額革の間に両耳がくるようにし、喉革・鼻革・頬革を適切な長さに合わせて付け、頭絡の装着時に乱れた馬の前髪を整えてあげれば終了だ。

(いよいよだ…。会員としての初めてのレッスン。)

洗い場にはノエル以外に6頭の馬が馬装を終え待機していた。ノエルを連れて洗い場に来た時は4頭しかいなかったが、馬装をしている間に数頭の往来があったようだ。休憩所にあったホワイトボードによると、屋内でのレッスンは4頭。そうなると、ここにいる馬のうち3頭は外馬場でのレッスンにでる上級者ということか。

(僕もいつか、外で乗れる程の実力をつけられるだろうか…。)

そんなことを考えていたら時間がきたようだ。インストラクターが屋内でのレッスンを受ける会員、外馬場でのレッスンを受ける会員、それぞれの会員に声をかけていく。
僕とノエルも屋内馬場へ移動する。途中、何倍もの体の大きさのある馬が通るのに、平然と通路で寝そべる猫の肝っ玉には驚かされたが、僕もこれくらいの肝っ玉で馬を乗りこなせるようになりたいと思った。
屋内馬場は外馬場に比べて狭い。おまけに、外馬場と違い、埒ではなく壁で囲われていることもあってかより狭さが強調されている。そこに4頭の馬がお互いに距離をとって入場する。入場した順に騎手が騎乗し緩めに締めた腹帯を締め直す。鐙の長さが自身に合っているかを確かめた後、馬場の隅を回るように歩きウォーミングアップを始める。ちなみに、馬場の隅に沿って歩くことを蹄跡(ていせき)行進と言う。運動中、省略して『蹄跡』とだけ言われる時もある。蹄跡行進は馬場の隅に沿って歩かなくては行けないが、隅をつけず内側に入りすぎている(運動が小さくなっている)時なんかに、『もっと蹄跡つきましょう!』なんて指示が出されたりもする。まぁ、これはある程度乗馬を続けたことで頭に入った知識なので、この時の僕はまだ知らない言葉だ。
1頭ずつ騎手が騎乗し、3頭が1列に並んでウォーミングアップをし始める。いよいよ僕が騎乗する番が来た。5級ライセンスの時に乗馬・下馬の方法は習っているし実践もしてる。いつも通り、ひっくり返したビール瓶ケースに板を貼っただけの足場から、左足を左側の鐙にかけ、右足で足場を蹴って、馬の尻を蹴らないように右側の鐙まで右足を回す。
そしてここからが初めての動作『鞍上から腹帯を締める』だ。ライセンスコースの時はインストラクターが締めていたので、鞍上から腹帯を締めるのは初めてだ。腹帯は人間が身につけるベルトの様に穴が数個あいており、そこに金具をはめて長さを調整する仕組みになっている。それが腹帯の左右両側にあり、両側共バランスのとれた長さに調整するのが良い。僕がこの乗馬クラブで習った方法は、騎乗前に片側を少し短めに調整し、騎乗後に片側を締めるという方法。ただ、これだと騎乗前からその馬の体の特徴を理解していないとなかなかバランス良くつけられない為、結局騎乗後に両側とも締めることになることが多い。特に初心者の間は。今後のことを先に話すと、僕は騎乗前、腹帯は左右どちらも緩めにつけ、騎乗後に両側とも締めるという形をとるようになっていた。腹帯を締めるところまで話を戻す。騎乗後に締める時は当然馬に乗ったまま腹帯を締めることになる。その為、普段の騎乗姿勢から馬の腹帯まで手が届くように体を折りたたむように倒さないといけない。そうなると、人間のパーツで重いとされている頭の位置が大きく変わることで、馬にかかる騎手の重心も変わる為『馬が急に動き出してしまうのではないか?』という恐怖心も湧いてきた。おまけに目線も地面の方へ向きやすくなることで、より落馬寸前の様な風景が目に映る。慣れた会員さん達は手の感覚でわかるのだろう、腹帯を締める時も常に前を向いていたが、鞍上から初めて腹帯を締めた僕には目で見て確認しながらでないと腹帯を締められなかった。
馬が変に動き出さないかという不安を抱えながらも何とか腹帯を締め、鐙の長さをインストラクターにも見て貰いながら調整したあと、先に歩きだした馬列に着いていく。ライセンスコースの時はインストラクターとのマン・ツー・マンだったのに対し、屋内での『部班レッスン』では、列を組んでレッスンをするスタイルになるため、自分の乗る馬が変な動きをすれば他の馬や会員さんにも迷惑がかかってしまう。これも新たに生まれた不安要素だ。
4頭4人で行う部班レッスン。ウォーミングアップの途中で僕は前から三番目に入るように指示された。これは騎手や馬の性格などを考慮して、誰を先頭にするかなどの順番を決めるらしい。これも後々知ったことだが、先頭に選ばれるのは、ある程度馬をコントロールできる人らしい。理由として、部班レッスンは列になって行うため、先頭の馬が下手にふらふらしたり、蹄跡をつけてなければ、後ろの馬達もそれに引っ張られやすくなるからだ。勿論、部班レッスンとはいえ、先頭に選ばれなかったそれぞれの騎手が、前の馬に引っ張られても確りとコントロールする実力を身につける必要もあるが、僕のような初心者も混ざる部班レッスンで全員に高いレベルを求めるのは難しい。ただ…

(三番目って、怖いなぁ…すぐ目の前に馬の後ろ脚があるから、下手に近づきすぎると蹴り上げられそうだし、僕の馬が急に止まったりしたら後ろの馬に迷惑がかかる。)

-馬は人間の感情の察する。だから怖がったりしたら馬も騎手に対して不安になるし、馬に舐められたりする。-と、よく聞くが、初めての部班レッスンで馬に挟まれる恐怖心(緊張感)はなかなかのものだ。
インストラクターの指示を受け、先頭から常歩・軽速歩などの歩様変えを行ったり、手前変換、巻き乗り(直径6㍍の円運動)を行っていく部班レッスン。今日初めての部班レッスンを受ける僕の目から見ると、先頭を行く会員さんは蹄跡をついていたり、手前変換も上手く行っていたと思う。が、やはり列になっての運動はなかなか上手くいかない。三番目についていた僕もそうだが、二番目についていた馬も手前変換や巻き乗りで前を行く馬につっかえてしまい、馬が接触したりしないように減速してしまう場面がよく見られた。特に、軽速歩を維持したままの手前変換や巻き乗りでは、二番目は以降の馬の軽速歩が続かず、常歩に落ちるほどの減速が目立った。

「手前変換や巻き乗りをする時、二頭目以降の馬は、前の馬の少し外側を通るイメージで回りましょう!」

インストラクターのアドバイスが飛ぶ。部班での運動は一直線に列になって前の馬が通ったルートで行わなければいけないと思っていたが、そうではないみたいだ。三番目についていたからこそ前の二頭の馬の動きがよく見えていたのだが、やはり右や左に回るとき、二頭目の馬は先頭の馬と同じルートかその内側を回ることが多かった。その為、前を行く馬との距離が詰まってしまい減速の原因になってしまっていた。先頭の馬は後ろに続く馬へ『お手本』になるようなルートを通ることを求められるかもしれないが、二頭目以降の馬は、『それに従い過ぎない』ことも求められるみたいだ。前に馬がいるから『前の馬についていく』ではなく、前に馬がいても『自分たちの道』を行かせる技術を騎手が身に付けなければいけない。部班レッスンは、意外と奥が深いのかもしれない…。

15分ほど部班レッスンをした後、一旦一人ずつの個別レッスンに入る。その間残りの馬は危なくないところで待機して、自分たちの番を待つ。馴染みのある会員さんたちは、この時間、鞍上で会話を楽しんだりしているが、入会したての僕にそんな相手はいないし、そんな余裕はない。何故か?それは人間と同じで、待機時間を退屈と感じたりする馬も存在したりするからだ。例えば「そこで5分くらい待っててください」と言われたら待てるが、「そこで“微動だにせず”待っててください」と言われたら待てるか?恐らく待てない人の方が多いだろう。その場を動かなかったにしろ、スマホを見たり、右足にかけた体重を左足にかけて姿勢をかえたりしてフラフラしてしまったりもするだろう。他の会員さんの個別レッスン中、『退屈だ』と自分の乗ってる馬が感じてしまえば、微妙に馬が動き出したりすることがある。それに、待っているのは馬だけではない。騎手である自分もだ。この待機時間に騎手が鞍上でフラつけば重心がずれてしまうことがある。敏感な馬だとその小さな変化に反応して動くこともあるのだ。なので、他の会員さんの個別レッスン中に発生する『待機』も考え方によっては立派なレッスンなのだ。
時々、細かく動くノエルにも気を向けながらも個別レッスン中の先輩会員さんを見る。順調に軽速歩をこなす会員さん。初心者の僕からすれば、ほとんどの人は上手く見える。馬もダラダラしてる様にも感じないし、指示が出た後もすんなりとその動きを始動しているように見える。そしてその時がきた…。

「じゃあ、鏡の前から駈歩出して行きましょう!」

その指示に会員さんが答える。屋内馬場、外馬場共に、運動中にも騎手の姿勢がチェックできるように部分的に鏡が付けられている。馬場中央に小さく集まって待機している僕から見て、左側の壁に付けられた鏡の前に馬が到達した時、馬が一瞬ふわりとした動きを見せ、そのまま前脚をより遠くへ伸ばし、左前肢、それに続いて右前肢の蹄が地面を食う。後肢から生み出されたパワーが馬全体に躍動感を与えている。競走馬の様な猛スピードでは無いが僕が小さい頃に見た憧れの姿が、今目の前を走る馬とリンクした。

(あれだ…あれができるようになりたい…!)

馬術で使う歩様は主に3つある。1つは常歩、これは人間に例えるとウォーキングにあたるらしい。2つ目は速歩、これはジョギングに。3つ目は駈歩、これはランニングにあたるとされている。馬はランニングでも人を魅了する何かを持っている。それに魅了されて僕はここにいる。退屈そうに時々細かく動くノエルを制しながら、僕は目の前を駈けていく人馬を脳内にコピーしていく。馬の動きはそのままに騎手だけを自分の姿に描き変えた映像を頭の中で再生し、インストラクターが会員さんにしている指摘を頭の中の自分達に当てはめていく。駈歩が出たとしても、維持できたとしても、無理矢理出したり維持したりしているなら意味がない。正しい力で、姿勢で、コンタクトで行うことが馬術だ。目の前で個別レッスン中の会員さんは上手く駈歩を出している様に見えるが、外馬場レッスンを受けている会員さんたちはさらにレベルが高いのだろう。初心者の僕が彼らに早く追い付くためには『乗れない時間』を活かすしかない。

「それじゃ一旦常歩にして、よ~く褒めてあげましょう!」

部班で先頭にたっていた会員さんが、馬の首をさすったり軽く叩いて労いながら中央に戻ってくる。それと入れ替わるように二番目を歩いていた会員さんが中央から抜け、個別レッスンを行う。この会員さんも常歩と軽速歩を少し行った後、駈歩レッスンに入っていく。『部班の先頭は、ある程度乗れる人』が選ばれるという噂通り、部班の先頭を歩いていた会員さんと比べると少しぎこちない気がする。それが『どこが?』と言われるとわからない。ぎこちなく感じる理由は、駈歩の合図が一発で通らないことも目立つというところだけではない。先頭の人の個別レッスンの映像を頭の中で必死に呼び起こす。そこに今個別レッスンを受けている会員さんと比較する。

(駈歩発進時、先頭の人は…体があまり動いてないように見える…?)

(今レッスンしてる人…駈歩中も体いっぱい使って走らせてます、って感じだな。ブランコ漕いでるるみたいだ。)

その2人のイメージを残したままインストラクターの声を聞く。2人の乗り方とインストラクターの指摘をブレンドし、頭の中で僕自身が目指す『駈歩』のイメージを作りだす。

(盗め!先輩会員さんとの差を埋めるには、乗れない時にどうするか?が重要だ!)

入りたかった部活にも入れず、一人で自主練をしたり、教本を買って何度も読んで、またそこから色々試したりと、今まで一人でもやってきたことは多かった。だからこそ慣れている。同じことを乗馬でやるだけだ。

-よく見ろ、よく聞け、よく考え、多くを盗め…。-

頭の中に映像や指摘をひたすらインプットする。そうこうしている間に、会員さんのレッスンが終わりをむかえようとしていた。と、なれば…いよいよ僕の番だ。
待機していた馬場中央から抜け、蹄跡へと馬を歩かせる。ライセンスコースを受講していたときと比べて人の目が近く感じる。埒で囲われた外馬場は、天気がいいとどこまでも広がる青空を見れるため解放感を強烈に感じることができたし、屋内馬場に比べて広さもある。それにライセンスコースを受講している人は基本的にビジター会員になるため、周りでレッスンを受ける会員さんたちが自然と安全のために距離をおいてくれてる感じもした。でも屋内馬場違う。ここに来るのはほとんどが正規会員。おまけにレッスン待機をしている馬たちの周りを運動するパターンが多いので、馬や会員さんとの距離が近い。そのため、お互いに自然と目に入りやすくなる。

(なんか、5級の時より緊張するな…)

インストラクターの指示の下、常歩でしっかりと歩かせ軽速歩に移行する。ノエルの軽速歩は5級の時にも経験しているし、部班でも少し出せる時間があったので不安はない。ただ、部班中に前と詰まってしまい減速したことや、今までの待機時間もあってか少し落ち着きすぎてしまったようだ。

「もう少し元気よく速歩していきましょ!」

インストラクターからもそんな指示が出た。やはり活発な速歩では無さそうだ。僕はノエルの腹を踵を使ってやや強めに挟む。ノエルが少しピクッと動いた。明らかに反応した様子だ。

「ちょっと脚(きゃく)強いですよ!脚はもう少し丁寧に使って行きましょ!」

-え?これで強いのか?-
結果的にノエルの動きは少し活発になったが、今の指示ではちょっと強かったらしい。5級の時は言われなかったということは、これからは“そういうところ”も上手くできる乗馬が求められるというところだろう。できるだけ弱い指示で馬をコントロールする難しさ。これはどれくらいのレッスンで身に付くのだろう…。いや、必ず早く身に付ける。それくらいの気持ちでいかないと駄目だ。

「はい!それじゃ、一旦歩いていきましょ!常歩進めー!」

ガクンとノエルの動きが弱くなり、鞍上の僕はやや前につんのめる。ここをもっとスマートにできたら格好いいんだろうが、毎回毎回こうなってしまう。そしてノエルの常歩は一気にスローダウン。歩いてはいるが活発な歩きとは言えない。いつ止まってもおかしくない、そんな歩きになっていた。ノエルの動きにあわせるように右脚、左脚、右脚、左脚と脚をいれていく。

(上級者との差は“ここ”だろうな…)

オリンピアンは勿論、外馬場でレッスンを受けている会員さんでもそうだが、ある程度の乗馬技術を身に付けた人の常歩は“脚”に力みを感じない。乗馬を習う前の僕と同じように「ただ馬に乗っているだけ」に見える程だ。それに対して今の僕を客観的に見たらどうだろう。「あの人、必死で馬を前に歩かせようとしてるな…」と思われるような乗馬をしてるのではないだろうか。上級者達と比べて、僕の乗馬は『騎手が明らかに何かをしている』ように見える乗馬で、上級者の乗馬はその逆『騎手が何もしてない・ただ乗ってるだけ』に見える乗馬なのだ。

「それじゃ、もう一度速歩していきましょう!軽速歩進めー!」

正規会員になって初の乗馬レッスン。前に個別レッスンをしていた会員さんたちは少しアップをしてから駈歩に移行していた。しかし、このタイミングでもう一度軽速歩を指示されるということは『今の段階での駈歩レッスンはまだまだ危険』とか『そのレベルではない』ということだろうか。ほとんどのスポーツは怪我のリスクがある。しかも今自分がレッスンを受けている乗馬というスポーツは、命を落とす事故に繋がるケースもあるし、仮に命を落とさなかったとしても後に響くような大怪我に繋がるケースもある。スピードが上がる駈歩のレッスンを始めるタイミングは、インストラクターや乗馬クラブ側の判断に任せるしかない。それならどうするか。

-1日でも早く認められるように、乗れない時間、レッスンできない時間を活かすのみ-

それが僕の出した答えだった。

正規会員なったことで、僕には新たにやるべきことができた。それが『レッスン後の手入れ』だ。この乗馬クラブでは、自分がレッスンで乗る馬の馬装や手入れは自分でやることになっている。まぁ、余分な料金を払えば馬装などはインストラクターにやってもらうことも可能らしいが、この乗馬クラブでそのシステムを使う人はまずいないだろう。それに、『馬に乗ることだけが乗馬じゃない。馬装や手入れも含めて乗馬だ』という考えを持つ人も多い。僕も『乗馬を学ぶなら馬装も込みで学びたい』側の考えなので、この時間もレッスン同様楽しみな時間だ。
6月の少しすっきりしない天候に、独特の湿気で気持ちの悪い体感温度が名物の愛知。この天候は地元で産まれ育った人じゃないと慣れるまで“えらい”環境だろう。そしてそれは馬にとっても同じだ。馬は暑さよりも寒さに強い。これは後々聞いた話だが、馬の熱中症対策で、暑い時期は馬房の配置変えを行ったりもしているとのこと。まだ夏といえる時期ではないが、夏と思わせる体感温度が襲う今日。僕は馬の丸洗いを初体験することになる。

「それじゃ、手入れをしていきましょう!」

インストラクターによる丸洗いの指導が始まる。

「当たり前なんですけど、まずは装備から外していきます。特に鞍は重いので、できるだけ早く外してあげてください。あっ、丸洗い始める前に、冷水で蹄と脚部は洗いっておいてくださいね!」

レッスン前の馬装の時に思ったが、鞍は予想より重みがあった。それを背負ってる上に騎手が乗るということを考えると、レッスンに付き合ってくれている馬に対して労いの気持ちを持たなければならない。馬にとっては嫌がる個体もいるが、レッスン後の手入れは馬への労いも込められている(と、思っている)。その労いで少しでも嫌な思いをさせないためにも、迅速に馬装を解き、丁寧な手入れを行えるようにしなければならない。これも馬に乗る(乗せてもらう)者としての責任だろう。
-おっと、言うのを忘れてしまったが、レッスン後は馬に飲み水を与えることも忘れずに。-

水を使った裏堀りと脚部の洗いを済ませると、いよいよ馬体全体の丸洗いだ。

「それじゃ、水洗いを始めていきましょう!…と、言っても、森下さんは、5級ライセンスコースで勉強してるので、なんとなく流は入ってるかな…?」

僕は少し悩み、苦笑いしながら答える。

「うーん…文字としては入ってます。ただ、文字で見たイメージと実践は違うと思うので…自信はそんなにないですけど…」

相手は機械じゃない。生き物だ。勿論、機械であってもいい加減なことをするべきできないが、生き物となればより一層だ。それなりに自信をもってできるようになるまでは、5級ライセンスコースで習ったことだけを頼りに実践するのやはり心配だ。直接的に自分が関係なかったとしても、不安なまま手入れをして、その馬が病気になったり、最悪命を落とすといったことになるのは嫌だ。
なので僕は、ライセンスコースで習ったとはいえ、もう少し指導が欲しいと思い、自信の無い様子を見せた。
インストラクターによる指導が始まる。だが今回は、ライセンスコースの時より軽めの指導だ。

「水洗いする時は、心臓から遠い位置から水をかけてあげてください。水の温度は体温と同じくらい、自分で触って何も感じないくらいの温度ですね!」

わかりました!-と、言ってお湯の出る蛇口を捻る。先程まで冷水を使っていたため、水温が上がるまでに少しかかる。左手に当たる水の温度が少しずつ上がっていき、左手にある感覚は、ただ水が当たっている程度になってきた。

(このくらいの温度かな…)

心臓に遠い部分、お尻のやや下の方から水をかけていく。いきなり水が当たって驚いたりしないよう、馬体と流れ出る水の間にゴムブラシを着けた自分の左手を入れる。左手の甲に当たった水が小さく拡散し、馬体に優しく流れていく。今のところ、馬に嫌がる素振りは無い。僕はそのまま左手を動かし、馬の体を洗う。
自分の体を洗う時は自分の好みの力加減がわかる。それに、体を洗うということは体に付いた汚れを落とす目的があるということを僕たち人間は理解している。だからこそ、多少力加減が強くてもゴシゴシと体を洗うことができるだろう。しかし相手は動物。どのくらいの力加減が良いのか、部位によっては力を弱めたりしないといけないのではないのか、触られると嫌な部分もあるのではないかと探りながら行っていくしかない。手入れも動物の健康の為に行っているとはいえ、動物は人間の使う言葉でのコミュニケーションがとれない。嫌な時に「嫌っ!」と言ったり、痛い時に「痛い!」と言ってくれれば分かりやすいのだが、勿論それは無理だ。手入れ中に、馬が前後に動いたり、首を上下に降ったりする動作を元に手入れの細かい部分を色々学んでいくしかない。

初めての馬体の丸洗い。体も大きく、相手が動物とあって梃子摺る部分も多かったが、『自分が今、馬に関われているんだ!』という実感が湧くことで楽しめる部分も多かった。ゴムブラシを着けた手で馬体を擦るときに伝わる体温、手元を流れたり飛散してかかる水、至近距離にいると感じる馬の空気感。その全てが僕を特別な時間に放り込んでくれたようなものを感じる。
ただ、まだ丸洗いが終わったわけではない。これからは“汗こき”と呼ばれる道具を使って馬体に付いた水をきっていく。水切りをする前に馬体に優しく触れ、そこに汗こきが触れることを教えてあげる。後肢の股付近を水洗いしている時に少し反応があったくらいで、ノエルは手入れ中、基本的に大人しくしてくれている。肩付近から尻の方へ汗こきをかけると、大小の水の塊が馬体から引き剥がされて飛んでいき、ボタボタと音をたてて地面に敷かれたゴムマットに落ちていく。僕はノエルの体全体の水切りを終えるまで、ひたすら同じ様な動作を繰り返した。左胴体、左前後肢、左頸、反対に回って右胴体、右前後肢、右頸とある程度の水切りが済んだ。ただ水切りだけでは不十分。ここからはタオルを使って馬体に残った水分を拭きとっていく。
大きな馬体を拭くにはバスタオル1枚では足りない。僕は鞍置場からバスタオル2枚をとり、1枚は拭ききれなかった時のストックにし、もう1枚で馬体を拭いていく。水切りをした時と同じように、馬の頸に優しく触れてからバスタオルで体を拭き、頸から胴体、尻の方の水を拭きとる。水切りをした後でも、大きなバスタオルはそこそこ湿っており、替えのバスタオルを使うか悩んだが、一旦同じバスタオルで反対側を拭くことにした。反対側も同じように拭きとりをした後、バスタオルの湿りが強くなり、ここで替えのバスタオルに交換する。ここからは特に大事にしている部分で、脚に付着した水分の拭きとりだ。
脚は乗馬ライセンス5級の筆記試験で学ぶところ。その脚の一部に管(かん)と言われる部分がある。そこは特に乾かしておきたい部分になるので、替えのバスタオルをなかなか使わなかったのは、この脚に残った付着した水分を確りと拭き取るためだ。僕は前後左右の全四肢の拭き取りを入念に行う。水洗いを行っていく中で、管以外の脚の部分で個人的に乾かしにくいと思った部分があった。それが距毛(きょもう)と言われる脚に生えた毛だ。この毛は、球節(きゅうせつ)と言われる部分の裏側にある毛で、拭いても拭いても湿気っているような感覚があった。しかも、この距毛と言われるこの毛は、脚の中では少し長めの毛でもあり、この毛に付着した水分の上手い拭き取りを見つけるのに苦労した。
馬体の水分の拭き取りは、水で汗などを洗い流す作業よりも時間がかかった気がする。それは丁寧に行おうとすれば当たり前のことなのだが、馬の手入れを早く完了させられるようにするのも馬のためにも必要な技術になる。
丸洗いと拭き取りが終わり、最後に蹄油(ていゆ)と呼ばれる液体を塗っていく。その名の通り蹄に塗る油だ。これは人間も使うマニキュアの様な物で、馬の蹄を守ったり、強くしたり、美しくする効果がある。しかし塗り方も重要で気をつけないといけない点としては、蹄の上に蹄冠(ていかん)と呼ばれる部位があるのだが、そこに蹄油が付着しないようにすること。ちなみに僕は「蹄油を塗る時は、蹄冠の1センチくらい下まで」と教わった。レッスン中、土などで汚れた蹄を洗い、綺麗になった蹄に蹄油を塗ったことで蹄はより美しく艶のあるものになった。
レッスン、そして丸洗いで乱れた体毛を整え、馬を馬房へ帰す。寒い時期であれば馬着(ばちゃく)という人間で言う服の様な物を着せるのだが、今の時期は暑いので何も着せずに馬房へ向かう。レッスン中、ノエルが居ない間に誰かが馬房を掃除したのだろう。おが粉は綺麗なものに変わっていた。僕は馬房にノエルと一緒に入る。ノエルを曳いたまま馬房の壁際に沿うように回り、ノエルの頭が出入口に側に向いたところでノエルを一旦停止させ扉を閉める。

「おつかれさま…。」

ノエルの首を右手で2回撫で、その後、ポンポンと軽く首を叩いて付き合ってくれたことへの感謝を示す。正規会員になって初めてのレッスン。ノエルとはライセンスコースの時から一緒にレッスンしているが習いたての初心者に、馬装からレッスン、そして最後の手入れまで付き合ってくれたのだ。
これはノエルだけに限らず、どんな馬に対しても思うこと-。

(馬の負担を減らすためにも、もっと技術を高めないと…馬装も手入れも含めて…)

季節は真夏、8月に入っていた。あれからも二週間おきにレッスンに来ていたため、今日が5鞍目のレッスンになる。今日のレッスンパートナーは牝馬・フラウワンダーバー。若い頃は外馬場でのレッスンにも姿を見せ、障害馬術のレッスン馬としても活躍していたらしい。今では屋内馬場でのレッスンをメインにしており、外馬場に出る時はビジター会員さんのレッスンくらいだと聞く。馬装に関してはまだまだ僕の技術不足で時間はかかってしまうのだが、ブラッシングも、裏掘りも、鞍付けも、ずっと大人しくすんなりと受け入れてくれた馬だ。
そしてここからが一番気になるところ。レッスン中のフラウワンダーバーについてだ。ワンダーバーに跨がり、始めのウォーミングアップついでに常歩の具合を調べる。鞍上の安定感は高め、ここら辺はノエルと同じような感覚だ。常歩の速さも最初だからのったりしているが、馬場を2周歩いたくらいからは気にならない程の速さにテンポが上がる。少なくとも、今の段階では苦手なタイプの馬では無さそうだ。
ある程度アップをしたタイミングで部班運動に入っていく。僕達は三番手にいた。部班レッスンの経験がまだまだ浅い僕にとっては、未だにこの位置は緊張する。前の馬に近づき過ぎないように、前の馬の内側に入りすぎないようにコントロールすることに必死で、脚やら腕やら使えるものは何でも使っていた。

(あ、コントロールも大事だけど、速歩の感覚も…いや、待てよ?)

僕は馬の進むコース取りをコントロールすることばかりに頭が行っていた。ワンダーバーの歩様の感覚を探ることをすっかり忘れて前の馬との位置などに気が向きっぱなしで、ワンダーバーの方にほとんど意識が向いてなかった。しかし裏を返せば…。

(ワンダーバーの速歩、僕に合ってる…?)

意識が向いていなかったのに簡単に継続させられている。それは部班運動で前の馬に引っ張られるというアドバンテージもあるかもしれないが、リズムや乗り心地、体型の相性も合っているのかもしれない。これはもっともっと先に知ることになるのだが、騎手と体型が合わない馬もいる。勿論、それを気にすることなく問題なく扱える人もいる。人の体型がその人その人によって異なるように、馬もそれぞれ体型が違う。小さい馬もいれば大きい馬もいる。細身の馬もいれば太めの馬もいる。中には部分的に筋肉のつきがいい馬もいる。そんな多くの個性がある中で、僕が今騎乗しているワンダーバーは、跨がった時の感覚がしっくりくる。いい意味で『何も感じない感覚』だ。

「それでは一旦止まりましょう!全体止まれ〜!」

先頭の馬から順に停止していく。それに釣られてワンダーバーが停止したのか、僕の指示に従って停止してくれたのかわからないが、ここまではそれなりに順調といったところだろう。まだまだ乗馬に対する経験値が少ないため、自信を持って自分の実力で馬を停止させたとは言えないところが心苦しい。
この日もいつものように1頭ずつ順番に個人レッスンが始まった。部班で三番手だった僕は個人レッスンも三番目に呼ばれるだろう。僕の番が来るまでは、いつも通り先輩会員達の観察だ。他の先輩会員達は鞍上でトークを楽しんでいる。そんな中、僕は一人姿勢をできるだけキープして個人レッスン中の会員さんとその馬の観察に集中し、インストラクターがその人に出した指摘を耳だけで拾い続けた。観察で得た材料がある程度集まると、今度は脳内でイメージに入る。両足の間で自分の番を大人しく待ってくれてるワンダーバーにも意識を向けながら、駈歩をしている僕とワンダーバーの姿を妄想し脳内に再生。フォームは今個人レッスンを受けている会員さんだが、騎手は僕の姿をしている。リアルの世界で会員さんがインストラクターに指摘を受ける。少しずつ猫背気味になっているらしい。その指摘を聞き脳内の僕は背筋を伸ばす。インストラクターの指摘が再度飛ぶ。今度は内方脚が前にズレてきていたらしい。脳内の僕は内方脚を後ろに下げた。
これが正解なのかはまだわからないが、今脳内にいる僕は完璧に自分の体をコントロールできる。自分が妄想で止めない限り、ワンダーバーは駈歩を続けるし、頭、胸、肩、腕、手、背、腰、脚、踵などの自分の姿勢も思いのまま。

(後はこれをどれだけ実践できるか…。)

イメージは固まってきた。この固まったイメージがポロポロと崩れていく前に、早く試したいという気持ちがある。
部班一番手の会員さんの個人レッスンが終わり、中央に入ってくる。それと入れ替わるように二番手の会員さんが蹄跡へ。僕は固めたイメージに少しでも新しいものが混ざらないように敢えて視界をぼやけさせ、妄想を続ける。勿論、両足の間にいるワンダーバーにも気を向けながら。

服を脱ぐ。両脇腹から捲り上げた服が顔面を通り過ぎ時、黒いポロシャツからは独特の臭いが鼻を突く。直接触ったりすることは無いが、乗馬クラブに数時間いればボロ(馬糞)の臭いは服に付く。ただ、これが厄介なことに家に着くまで気づかないのだ。しかも気づくタイミングは決まって脱ぐ時。逆に言えば脱がなければ着ている本人は気づかない。あれはいったい何なんだろう。そんなどうでもいいことをシャワーから出る水と一緒に流す。出てきたばかりの水では季節的にまだ寒い為、僕は脹脛に水を掛け続け水温が上がるのを待った。水温が上がるまで手で温度を測るのは水が無駄に流れる量が多く感じて勿体なく感じる僕は貧乏性なのだろうか。少しずつ温まってきた水を体全体に掛け、泡立ったボディタオルで体を擦る。いつからか思い出せないが、僕は太腿から足首まで、その後に肩から手の指先、そして腹・背中・脇の上半身、足首から足全体、そして腰周りの順で洗うようになっていた。なんとなくその順番が汗などの汚れが少なそうだと感じたことが切っ掛けだ。泡のついた体を洗い流し頭を洗う。ここは何も考えずにただただ洗いシャンプーを流した後、シャワーフックから外し頭頂部から水を被るように確り流して全てを終える。シャワーを浴びる時のルーティンをこなし、汗によるベタ付きを感じなくなったら水を止め、少し思う。

(今日のレッスンが今までで一番楽しかった…。)

それは当たり前だろう。

部班二番手の会員さんの個人レッスンが終わり僕達の番がやってきた。蹄跡に向かうワンダーバーの足取は悪くないが、この待機時間で気が抜けたのかほんの少しだけテンポが落ちた気がする。でも気にする程ではない。常歩も軽速歩も止まる気がしない。ワンダーバーの反動にも自分の体が合わさりしっくりくる。まだまだ未熟な僕だが未熟なりにいい調子だと思う。ワンダーバーも再度エンジンがかかり始めたのか軽速歩のリズムが良くなってきた。

(今まで乗った馬で一番合うかも!)

軽速歩を数周した後、インストラクターが尋ねる。

「駈歩、やったことあります?」

「駈歩はまだやったことないですねぇ…。」

「森下さん、レッスン何回目でしたっけ?」

「えーっと…6回目ですかね、会員になって。」

「了解です!5級(ライセンスコース)の時から来られてるので、そろそろ駈歩やってみますか!」

遂に来た。リアルの世界での駈歩デビュー。見ていた時のイメージよりスピード感は上がるのか下がるのか、脳内で繰り返し再生されたあの形に本物の体を近づけられるか、そして、駈歩をしている時に感じられる風はどれくらい気持ちがいいのか。知りたいことが沢山ある。駈歩には僕の興味が詰まっている。

「まずは元気よく馬を歩かせてぇ…」

個人レッスン中もそれなりに歩いてくれてたワンダーバーだが、インストラクターの指示を受けて僕は足の力を強める。ワンダーバーの反応は速かった。けれどやり過ぎなのかもしれない。人が速歩きをするようなリズムでワンダーバーの脚が動く。でも、乗馬初心者の僕には「元気よく歩かせて」と言われてもこうすることしかできない。「元気のいい常歩」と「馬が焦ってる常歩」は違う。この時ワンダーバーが出した常歩は後者だろうと思ってはいるが、これが今の僕の実力だ、申し訳ない。

「駈歩の前に手綱を張って、準備ができたら左脚を少し後ろに引きましょう!」

言われるままやってみる。手綱は張れた。ただ、肩に力が入りすぎている。指の使い方はどうだ?拳をギュッと握ってしまっている。背筋は?頭は?踵は?
妄想してた自分の姿を近づける余裕なんてない。兎に角、インストラクターが言ったように「手綱を張って、準備ができたら左脚を少し後ろに引く」のみだ。もう、綺麗なフォームかどうかなんて関係ない。初めての駈歩。

−まずは出すことだけに集中しろ−

肩から指先までガチガチの状態で張られた手綱。自分の膝や踵がどこら辺に位置してるのかわからない自分の脚。猫背になってないか心配な背中。不格好でもやるしかない。僕は左脚を少し後ろに引いた。ワンダーバーの頭がいままでより少し大きく振れた後、僕は乗馬を習い始めてから一番強い風を鞍上で受け止めた。

………。

……………。

…………………。

こっわ…。

−拳?反動に負けてぶらんぶらん。高さを一定に保ててない。自分の背中?ある意味猫背になってないよ?馬のスピードに耐えきれず、上半身が後ろに流れてるよ。ほら、会社のお偉いさんが思いっきり背もたれに体重を預けて座ってるみたいになってるよ。あ~あ、膝も上がってるし踵もだいぶ前に来ちゃってるね。何のためのイメージトレーニングよ。−

未来の僕がこの時の僕を見たら笑いながらこういじり倒すかもしれない。でも、こんな体勢になって、まともに指示出せる状況じゃない僕を乗せて駈歩を続けるワンダーバー。安定した速度で右回りの駈歩を続けてくれる。1周、2周、3周とワンダーバーは駈歩を続けてくれた。こんな下手っぴライダーのために。
でも、駈歩を経験できた。落馬もしなかった。だからこそ今度はもっと上手く。もっと綺麗に乗ってやる。ワンダーバーの駈歩が遅くなったタイミングでようやく上体を戻した僕は、ワンダーバーに合わせて軽速歩に移行した。そして再度インストラクターから駈歩の号令が飛ぶ。また左脚を引き、またスピードに耐えきれず上体が後ろに流れる。体をコントロールできない。もう一度気づかされる。

(やっぱり…乗馬って、馬の背中に乗ってるだけじゃないんだ…。)

小さい頃、僕が見た名前も知らない騎手は外馬場で駈歩を出していた。あの姿に憧れを持ちつつも、無知な僕は馬に乗っているだけだと思っていた。けれど、駈歩を初めて挑戦してわかった。無知の人が「ただ馬に乗っているだけ」に見えるように馬を乗りこなすことが、かなり難しいことなんだと。

………。

……………。

…………………。

ムッズ…。

けどこれは楽しいわ…。

初めてだから上手くできないのは当たり前かもしれないが、そんな下手っぴな駈歩しか出せなくても、心の中は楽しさではしゃぎ倒していた。遊びに夢中な子犬のように。
その後は、左手前の駈歩にも何回か挑戦したが、結果は言うまでもなく散々なものだった。

シャワーも浴び、夕食もとった。実家暮らし21歳恋人おらずの男性にはやることのない時間がやってきた。スマートフォンの普及により、手元でいくらでも暇潰しができる世の中になったことで、この時間の過ごし方はだいぶ楽になったが、それはただただ時間を浪費しているだけにすぎなかった。ベッドにバタンと倒れ込み、仰向けに体勢を変える。食事中、乗馬のことを全くしらない両親に今日のことを「話し続けていた」。いや、ここは敢えて「話しまくっていた」と言う方がイメージしやすいか…。4月末に初めて馬に乗ってから3ヶ月ちょい。僕の性格は明らかに変わっていた。人見知りで慣れた人間関係以外では普通のトークもぎこちない僕を何とかして変えようとスポーツバーに通い始めたりもしたが、乗馬の力には勝てないかもしれない。動物との触れ合いを通して心を整えるセラピーの中にホースセラピーと言うものも存在する。どうせ乗馬のことを話したって経験者と出会わなければ理解してもらえない。でも、僕の口は軽快に言葉を発していた。
しかし今は自分の部屋のベッドの上。天井と会話できるほどに僕の口は成長してはいない。寝るにはまだ早い時間。僕は見る気のない天井をずっと見ていた。

「う〜ん…あっ、そういえば…」

僕は今日のレッスンで疑問に思ったことがあった。それは駈歩を始める前の準備で手綱を張ること、そして駈歩中も手綱を張り続けることだ。手綱を張ることは駈歩以外でもよく言われるが、より速いスピードで前に進もうとしているのに手綱を張ってしまったら逆効果なのではないか、馬としては前に行きたいのに後ろに引っ張られるような感覚になるのではないかと思ったのだ。
僕は体を半周回転させ、うつ伏せ状態になると頭元に置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。「乗馬 駈歩 仕組み」と入力し検索。表示された多くの文字をさらりとチェックし、目当ての情報がわかりやすく書かれていそうなページを探しタップ。そこで馬が駈歩をする時のメカニズムを探す。目当ての情報はすぐに見つかり、声に出ているか出ていなかわからないほどの口の動きで読み上げる。

「馬が駈歩する時に手綱が緩んでしまうと、頭の重さもあり重心が前に前に行ってしまう。そうすると馬が躓いたりするリスクが高まり、最悪、人馬転(人馬転倒)を起こす可能性も。」

調べてみてわかったことだが、手綱を張る重要性がよくわかる。競馬の世界でよく聞くイメージのある人馬転。落馬ならまだ受け身をとれれば軽い怪我で済ますこともできるだろう。しかし、人馬転となると受け身をとれても、そこに馬が倒れ込む可能性も考えられるのではないか、と思うと恐ろしい。手綱を張ることは騎手の体を守ることにも繋がりそうだ。
僕はさらに駈歩について調べていく。

「駈歩の時に手綱を張ることによって重心が前にいくことを防ぐことができる。また、馬の後肢に体重が集まることにより、後肢から蹴りだす力を生みだしやすくなるため、手綱を張れるようにしましょう。」

馬は後肢から走る。右手前であれば左後肢から、左手前であれば右後肢から。その為、馬体の前方に重心があるよりも、後方に重心がある方が走りやすくなる。その重心をやや後方に集めるためにも手綱を張ることが求められるのだ。ただなんとなくインストラクターに言われて“やる”のではなく、何故そうなるのか・何故そうした方がいいのかを頭に入れてから“やる”のでは大きな違いになる。僕はこの解説を読みながら今日のレッスンを思い返す。初めての駈歩とは言え、お粗末なフォームだったと思う。自分のフォームを第三者視点から見えてなくてもわかる。
解説を読み、ひとつ息を吐いた後、僕は仰向けのまま両手を天井に向けて伸ばす。小指を引っかけるようにクイッ、クイッと動かし目だけで指を観察する。小指に近い薬指がつられて動く。今度は薬指を動かす。中指がつられて動く。

(これだ…。肩、肘、拳を使わず手綱を張る方法。力の弱い馬なら小指、強い馬なら薬指で引っかける…。)

僕は目を閉じ、そのままの姿勢で小指主体と薬指主体の引っかける動作を繰り返す。止まることのない駈歩中の自分の姿をイメージしながら。

−第2部 完−




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