鞍上の狼 第3部

C地点 少年期

「おつかれ、ブラック。元気にしてる?」

10月。今日もよく晴れている。雲量は2くらいだろうか。ふわふわと浮いた雲が青空に白い装飾をつけていた。半袖からのぞく黒い腕にささる日差しが心地よい。こんな晴れた日にも関わらず、長靴を履いた男が厩舎に向かって歩いていき、黒い馬の前で中腰になり囁く。当然答えは帰ってこない。相手は馬だ。ブラックダイヤモンド、略してブラックと呼ばれるこの馬は、長靴を履いた中腰の男が人生で始めて乗った馬で、この男にとってブラックは特別な存在となっていた。レッスンの日は必ずこうして近寄って声をかける。
馬栓棒の下にボタボタと落ちる涎が地面の色を変えていく。ブラックは涎を垂らしながら中腰の男に顔を向けるが、男は涎まみれの口元を避けることもせず、むしろ手のひらを上に向けた状態で口元に近づけていた。

「大丈夫!僕は攻撃しないよ。例え噛まれてもね。」

ブラックがやわらかい上唇と下唇でその手を二回ほど噛む。噛まれた男の手には攻撃的な硬さが微塵も無い。その手を今度は歯を使って噛む。男は反応しない。しかし少し噛む力を強めたところで男はさすがに手を引っ込めた。

「さすがに痛い。甘噛だろうけど。」

涎まみれになった手を引っ込めた猛(たける)は反対の手でブラックの頸を撫でる。できる限りゆっくり触りにいったつもりだが、何かされると思ったブラックは一度警戒するような反応を見せたものの、撫でられ始めてからは落ちついた。5級ライセンスコースの時に乗ったのを最後に、ブラックとレッスンに参加することはなかった。その為、よく考えてみると、ブラックの特徴や性格を知れるほど仲を深めてこられなかったのかもしれない。屋内レッスンでもブラックと組める日が来ると思っていたが、それは実現していない。ビジター会員向けの馬とは聞いていたが、たまには一緒にレッスンする日が来るだろうと思っていただけに少し寂しさを感じる。

「そろそろ準備始めないと…それじゃ、またね」

少しの間、ブラックの傍にいた猛だったが、レッスンの準備もあるため、ブラックの元を離れると涎まみれになった手を洗ってから休憩室の方へ消えていく。
それが猛とブラックが過ごした最後の時間だった。猛が次に乗馬クラブに訪れた時、ブラックがいた馬房のオガ粉は綺麗に片付けられており、そこに数種類の花やリンゴが置かれていた。誰が見てもブラックが旅立ったことがわかる光景だろう。厩舎から洗い場へと続く廊下を歩く会員さんの中にはブラックの居た馬房の前で立ち止まるとしゃがみ込んで手を合わせる者もいた。
僕はそれを見つめることしかできない。手を…合わせてやれない。僕の育った環境がこんな時に邪魔をしてくるなんて思ってもいなかった。今はもう…関係ないはずなのに。

(ごめんな…ブラック。)

ブラックに対する色々な気持ちを胸の中にしまい込み、僕はその場を去りレッスンの準備を始める。馬の寿命は三十年近い。犬や猫なんかに比べれば長く感じる寿命だが、それでも人間の寿命には及ばない。それに馬術が盛んではない日本にいる馬術馬は、競走馬を引退したり競走馬になることさえ叶わなかった馬達が多くを占めているだろう。そうなれば、乗馬クラブに入厩した時には既にそれなりの歳を重ねていることも多い。僕が何歳になるまで乗馬という趣味を続けているかわからないが、それまでに何頭の馬が旅立っていくのだろうか…いつか、何の感情にも囚われることなく、純粋な気持ちで手を合わせてやれる日が来るのだろうか。今の僕にできることは、ただひたすら僕なりの方法でブラックの冥福を祈ることだけだった。

部班レッスンをある程度済ませると、いつもの様に1人ずつの個別レッスンが始まる。ワンダーバーとのレッスンで初めて駈歩を経験したあの日から、僕の駈歩レッスンは毎回組み込まれるようになっていた。ただ、馬が違うだけで駈歩も変わってくる。合図や駈歩発進・駈歩中に意識することなんか変わらないのだが、馬の癖だったり反動、体格による違いなどから相性の合う合わないがうまれてくる。文字通りの意味で“馬が合う、馬が合わない”というやつだ。
最近、レッスンで僕と組む馬は連続で同じ馬になることがない。乗馬クラブの事情もあるかもしれないし、また別の理由もあるかもしれない。ただ、プラスに考えれば、それだけ色々なタイプの馬を知る機会にもなる。
そんなポジティブシンキングをしているが、僕は今、苦戦を強いられている。部班レッスンでの常歩はまだ何とかなった。しかし、軽速歩のテンポが今まで経験した馬の中ではズバ抜けて合わないし、少し油断するとフラフラ〜っとコースを逸れて流れてしまうような馬だ。
今日のレッスン馬はホワイトムーン。馬の背の高さを体高というのだが、大人になった時の体高が147センチ以下の馬をポニーという。ホワイトムーンはそのポニーという枠に入る馬で、名前の通り、全体的に白い体毛を身に纏った馬だ。全体の体つきからみると少し細めの脚をしているが、テキパキと仕事をこなすキャリアウーマンのような軽速歩を持っており、そのスピードに合わせて「立つ・座る」を繰り返すのは難しく、僕はいつの間にかホワイトムーンの軽速歩に合わせて立つ・座るを繰り返すライダーになっていた。いや、ライダーと言っていいレベルの状態でもないかもしれない。
その苦戦は個別レッスンでも続き、個別レッスンでの軽速歩でもホワイトムーンのテンポを掴めない。一度気分転換も兼ねてインストラクターが駈歩を出すように僕に指示を出したが、僕の合図に合わせてホワイトムーンが出したのは、他の馬で体験した駈歩よりも速い軽速歩だった。

(くっ…速いのは爽快感あるけど…速い軽速歩はどうしていいのかわからん…!)

鞍上でこの風を味わったのは初めてだと思う。しかもそれが軽速歩による風だ。鞍上で「立つ・座る」どころではない。僕が「立つ」よりも速く、「座る」よりも速く次の反動が股下からやって来る。少々パニックに陥った僕はもう笑うしかない。

「軽速歩出ちゃってますねぇ!一旦常歩に戻しましょう!」

常歩に戻そうとして体の動きをセーブするが、手綱を下手に引いてしまったようでホワイトムーンはさらに速度を上げた。鞍にかかる僕の圧もプラスされさらにさらにホワイトムーンの軽速歩が速くなる。止めようとする僕の気持ちと姿勢に反して加速していくホワイトムーンの軽速歩に耐えきれず、僕の右足は鐙から引き剥がされた。

(やばい…落馬する…!)

僕がホワイトムーンを止められない状況であることをインストラクターはわかっているだろうが、ホワイトムーンが常歩に落とすまで「一旦、落ち着かせてましょう!」と声をかけてくる。落ち着いてないのはどちらかというと僕の方だ。軽速歩を続けるホワイトムーンの鞍上で僕は右足を何度も動かした。−無い。鐙が見つからない…。−僕の右足は空を切り続ける。鐙に触れたかどうかも感じとれない。そんな状況でも続く軽速歩により、僕の身体は初めて軽速歩を体験した時と同じ、壊れかけのおもちゃのように鞍上で弾んでいた。体勢がさらに乱れた時、ほんの一瞬、身体が思い通りに動いた。左足で鐙を強めに踏み込んだあと僕の右足が馬体の後ろに流れる。そのまま流れに身を任せるように左足も鐙から外れた。僕は軽速歩を続けるホワイトムーンの左側やや後方の地面に手綱を持ったまま足から着地し、コンパスのように僕を基準にしてホワイトムーンが小さな円を描くとそこでようやく停止した。猛、初めての落馬である。

「大丈夫ですか?」

インストラクターが近寄り声をかける。最後は僕の意思で飛び降りたようなものだし着地も足からできた、身体は問題ない。

「はい!どこも打ったりしてませんし大丈夫です!」

インストラクターにそう返したものの1つの疑問が湧いてくる。この馬を…この後も僕は乗れるのか?
インストラクターがいつもの足場を持ってくる。あのビール瓶を入れるケースをひっくり返して木の板を貼っただけの足場だ。競馬や戦闘ものの映像作品で見かけるような落馬ではないものの、こんな早くに落馬を経験するとは思わなかった。足場に乗り、いつものように左足から鐙にかけ、右足が馬の尻に当たらないように跨ぐ。問題はここからだ。

「大丈夫そうですか?大丈夫そうなら一旦常歩から再開しましょう!」

身体的にも精神的にも今の落馬は全く影響していない。「また落とされるかもしれない…」という不安で馬に合図を出せなくなる程追いつめられた訳でもない。ただ気になるのは、落馬するまで「技術的な問題」で駈歩を出せていないことだ。常歩をするホワイトムーンの鞍上で僕は頭をフル回転させ答えを探し続けていた。

(外方脚の引きすぎか?いや、もう少し引くべきか?)

(手綱は?さっき止まれなかったのは引っぱりすぎたのかな?)

(まてまて、止まれなかった原因は他にも…というより、駈歩がそもそも出せてないんだよ…!)

「それではしっかり準備してもう一度駈歩出していきましょう!」

頭の中で一つ一つ確認しながら身体で合図を出す。薬指に、両脚に、背筋に、顎に、腰に、全てに意識が揃った今、僕は駈歩の合図を出した。ホワイトムーンは勢いよく駈歩のフォームに入り走り始めた。と、思った矢先、また軽速歩になってしまった。

(マジかっ!…今、絶対出せたと思ったのに!)

2歩出せたか出せなかったくらいの最初だけの駈歩。そしてその後は最初から軽速歩を出していたかの様にホワイトムーンは先程と同じようなスピードのある軽速歩を出し続けている。まただ。僕の頭の中に再び落馬の文字が浮かび上がる。それも今回は先程よりも早く多くの文字が浮かび上がってくる。

(止まれ…!いや、止まってくれ!)

ムーンの動きを抑えようと、手綱を握る僕の拳は強く握られ、肘がロックされた状態で後ろに引かれる。腰は鞍から完全に浮き、落馬しないように踏み込まれた両脚と無理矢理バランスを保つために少し前屈みになった上半身はガチガチに固まっていた。これは後々学ぶことだが、この姿勢はツーポイント(2P・2ポイント)と呼ばれる形に近い。馬術では障害馬術で使われることが多い姿勢である。ツーポイントがイメージしにくい人にもう少し分かりやすく伝えるなら、競馬の騎手の騎乗姿勢から少し背筋を上に伸ばしたような形を想像してもらえれば伝わるだろうか。競馬では鐙も短めにしているため、馬術のツーポイントとは多少イメージが異なるかもしれないが、馬を速く走らせる競技で使われる姿勢に近い。そんな姿勢になってしまっていたことも、ムーンを止められないもう一つの原因となっていた。
なかなか止まらないムーンと、止められない僕を見て限界を感じたのか、今日のインストラクターの高柳さんが舌鼓(ぜっこ)を使いながら運動中の僕らに近寄ってくる。ムーンは何かを察したのか少しずつペースを落とし、その落ちたペースに合わせて僕の焦りも少しずつ落ち着いていく。が、その後、とうとう停止したムーンに高柳さんが調馬索を付けるのが見え、僕は自力でムーンを制御できなかった事に静かな悔しさを持った。

(クソッ…)

(クソッ…!)

(クソッッ!!)

(クソッッ…!!)

調馬索を付けられたムーンは落ち着いた運動をする。僕もムーンを制御しやすくなった。しかし、悔しさを外に出さないようにすることに必死で、僕の心の制御は難しくなっていた。結局、個人レッスン中に調馬索を外されることはなく、最後のクールダウンを向かえレッスンは終了。この日、ホワイトムーンに乗馬の洗礼を浴びた猛だった。

ホワイトムーンの手入れを終え、一息ついてから帰宅した猛は、シャワーを浴びた後も、夕食をとった後も、モヤモヤとした感情が消えずにいた。

「あぁ~〜〜………。」

左手の甲を額に乗せ、右手を腹に乗せた状態で仰向けになり天井を見つめる。大きく息を吐くと同時に漏れた声が力なく消えていく。今日のレッスンを思い返す。いや、レッスンと言えるレベルでは無かった。ただただ落馬しないように…いや、落馬もした。自分の意思で跳び下りたとは言え落馬はした。ホワイトムーンの攻略法がわからない。いつも他の馬に行うように合図も出した。脚も、手綱も、腰も、どれも変わったことはしてなかったはず。何がダメだったのか分からないし、逆に良かったことを探そうとしても見つからない。

「…馬が合わなかった…。」

「…本当にそれだけ…か?」

馬の合う合わないは確かにある。ただ、相性だけを上手く乗れなかったことの言い訳にしていては成長はないし、壁にぶつかって終わりだ。体を勢いよく反転させ右手でスマートフォンを取る。遅れて合流した左手も使い、素早い動作で文字を打つ。

『乗馬 駈歩 出し方』

この前見たサイトと同じものを見る。当たり前だが新しい情報は手に入らない。ブラウザバックして他のサイトもチェックするが言葉が違うだけで書かれている内容はほぼ同じ。実技でも座学でも行き止まり。両手で握っただけのスマートフォン。検索結果の出た画面が変わらないまま一点を見つめ続けた猛だったが、とうとう傍らにスマートフォンをふわりと投げ捨てた。柔らかい布団に小さく跳ねたスマートフォンが、その場に静かに着地する。座学で“今の段階”のレベルアップをするには限界が来たのかもしれない。
…とは言っても、“今の段階”のゴールってなんだ?
ただ馬に乗ってるだけではダメだ。そうなると…

−次の目標は…−

スマートフォンを放り投げた俯せの状態から顔だけを上げた猛の目は獲物に忍びよるものの目に変わった。

今日もすっきりとした青空が広がる。この時期は晴れることが多いからか地元周辺の市では祭が行われていた。猛が所属する乗馬クラブからも馬やインストラクター、そしてお手伝いの会員さんが祭に参加しており、いつもとは少し雰囲気の違う週末になっていた。一部のインストラクターさんが祭の方に参加しているため、乗馬クラブに残ったインストラクターは少し忙しくしていたし、インストラクターのお手伝いをして馬房掃除などのお手伝いをする会員さんの姿も目立った。

(こう見ると、会員さんもこのクラブを支えてるんだなぁ…)

まだ顔と名前が一致しない会員さん達。その会員さん達が汗を流しながらお手伝いをしている。そんな姿を見て少し間を置き僕は休憩室に入っていく。興味はあるが、入会したばかりの僕なんかじゃ逆に足手まといだろう。会員さんが多く来る週末に、祭が重なり普段より少ないインストラクターで回さなければいけない状況。そんな時に、乗馬初心者の僕がお手伝いに回っても何ができるのだろうか…。ボロ(馬糞)運びくらいだろう。いずれお手伝いも自信を持ってやれる程、乗馬に浸れるようになるのだろうか。そんなことを考えながら長靴からブーツに履き替える。ふと、一枚の掲示物に目が留まる。

(名古屋市秋大祭…馬と一緒に祭に出るの…楽しそうだな…。思い出になりそう…。)

猛の目線の先には地元にゆかりのある武将や姫様達の格好をした人達が写ったポスターが貼ってある。愛知県の県庁所在地である名古屋の一大イベント・名古屋市秋大祭のポスターだ。
二日間に渡って開かれる名古屋市秋大祭は名古屋駅周辺からスタートするパレードが有名で、その中の英傑行列に臨空乗馬クラブの馬やインストラクター、一部のお手伝いスタッフ(会員さん)などが参加するらしい。英傑行列を代表する武将・織田信長、そしてその小姓である森蘭丸は馬に乗って登場する。その為、ある程度馬に対する知識を持った人が周辺でサポートする役に入る。そこで乗馬クラブのインストラクターを、それで足りない人員は乗馬クラブの会員さんなどから集められていた。

(気になる…来年、機会があれば、お手伝いに応募しようかな。でも、武装するのは恥ずかしいから、ただのお手伝い役で応募しよう。)

そんな思いを胸の中に隠し、これからのレッスンに備え猛は休憩室を後にした。

−自信を持ってお手伝いに応募できるようにする為にも、馬の扱いに早く慣れなきゃな。次の目標は“乗馬ライセンス4級”だ!−

屋内馬場に舌鼓の音が響く。この人の舌鼓はうるさいと思う程の音ではないが、屋内馬場のどこにいてもハッキリと聞こえる大きさの舌鼓だ。この綺麗な舌鼓を打つ今日のインストラクターは高柳さん。ホワイトムーンで参加したレッスンの時に担当だったインストラクターだ。そして僕を運んでくれる相方はハヤテ。珍しく短い名前の相方だが、もう少し長い本名があるらしい。でも、皆がハヤテと呼んでいるので僕も本名を覚えていない。しかしこのハヤテ、乗り心地がすごくいい。ウォーミングアップの時から常歩のテンポがよく、軽速歩も簡単に出せる。部班レッスンも先頭を行く会員さんと馬のコンビがスムーズに運動してくれているので、ハヤテも楽そうに動いている。前回のレッスンがホワイトムーンに惨敗したレッスンだったため、乗馬クラブに来る前は今日のレッスンに対して少し不安があったが、今はそれを忘れてしまいそうなほど快適な鞍上だ。
それにしても…

(先頭の会員さん…東さんだっけ?参考になるかも…)

部班で二番手についた僕の前を行く東(あずま)という会員さんは、安定したスムーズな乗馬で僕達後続を導いている。その真後ろにつく僕としては、そこにハヤテとの相性も合わさって実力以上の力を発揮できているような気がする。
馬は元々、群棲生物(ぐんせいせいぶつ)と言われ集団行動をする生き物だ。その為、野生で群がる時にはリーダー的な存在がいて、そのリーダーに従って生活することが多い。乗馬では、そのリーダーを騎手が代わりに務めるが、数頭が同時にレッスンする部班では先頭の馬と騎手の組がリーダーのような存在になるイメージだ。故に、部班の先頭が上級者であればあるほど、後続は基本的に部班運動をしやすくなるし、部班の先頭が上手く導くことができなければ、後続もまとめてバラバラになる可能性が出てくる。勿論、それでも部班運動を正確にこなせる技術があれば、先頭が例え先導をミスしたとしても持ち堪えることはできるが…。今、先頭がミスをすると、僕とハヤテが後続を導かないといけなくなる。
そんな状況でありながら、前を行く東さんの乗馬を観察することに気が行き過ぎていた猛は、自分の力でハヤテをコントロールすることを怠っていた。それでも、足元のハヤテは暴れることもだらけることもなく部班運動を続ける。

「はーい!それでは一旦常歩に落として愛撫してあげましょーう!先頭のローレンから個人レッスンに入ります!それ以外の方は一度中央に集まりましょう!」

高柳さんの声に従い、それぞれが動く。先頭・東さんの乗る馬はローレンというらしい。腹帯を締め直されたその青鹿毛の馬は、ゆったりと、でも力強さも出しつつ蹄跡行進を再度始める。こういう表現が正解なのかわからないが、鞍上の東さんの姿も“はっきり”としているように感じた。『今はこうする』『次はこうする』といった考えが外から見て伝わってくるようなイメージと言うか…何というか…。ただ、部班で後ろについた時、これから個人レッスンに入ろうとする僅かな時間にも東さんから“ベテラン感”というか“強者感”というものを感じる。
その東さんは駈歩レッスンに入ろうとしている。
これはチャンスだ!東さんから盗め!ローレンがどういう馬かは分からん!けど、東さんは今まで部班で一緒になった人の中では明らかにレベルが違う!
ローレンが何かを感じとる。前肢が先程より高く揚げられると力強く地面を掴む。それなのにガンガンスピードを出しているという駈歩ではない、スピードを制御された駈歩だと分かる。鞍上では何も変わったことが無さそうな姿を見せる東さん。いや、そんな姿を見せようともしていないだろう。僕からしたらそう見えるだけで、東さんからしたら何も意識していないくらい普通のことなのかもしれない。

(ハハッ…レベチって、こう言うことを言うんだな!)

何故か火がついた。こういう時、壁の高さを感じる人も多いだろう。でも今の僕にそんな感情が全くない。レベチなんて言葉、普段は心の中でも使わない。次のステップ、乗馬ライセンス4級を目指すことを決めたタイミングで、僕の闘志を漲らせる会員さんと同じレッスンになれたことは運がいい。
馬場中央で談笑する他の会員さんの言葉が僕の耳には入らない。そこの会話に加わろうとも思わない。僕はただ、東さんとローレンの乗馬を少しでも鮮明に脳内に残すため、じっと視線を向け続けた。
でも…。

(見るだけではダメだ…。見ながら何をどうしてるのかも考えろ…!)

馬場中央で待機しているだけなのに、僕の頭はフル回転していた。使い込まれたパソコンやゲーム機ならファンが熱を下げようとうるさくなるレベルで僕の頭が動いている。東さんとローレンを視界の中央に収めた景色が遠いところからぼやけていく。−そりゃそうだよな。目の前の騎手が乗る映像を取り込みながら、どうすればそうできるかを考えてるんだ。脳みその限界値が近づいてんだな。−けどこれは自分にとってはメリットがある。今欲しいのは参考にしたい騎手と馬の映像。それ以外はどうでもいい。右手前でも左手前でも大して変わらない東さんの騎乗は今の僕にとって素晴らしい教材になった。
ローレンは常歩に戻る。高柳さんと東さんが言葉を交わす。高柳さんは一部指摘・アドバイスを入れつつも高評価していたが、東さんは少し満足してなさそうな感想を言う。

(あのレベルの乗馬見せて満足してないのかよ…やっぱ違うは、この人!)

ゆったり1周してから馬場中央に入ろうとするローレンの姿を見て、高柳さんが声を張る。

「それではハヤテ行きましょう!少し軽速歩を入れて常歩に戻してから駈歩して行きましょう!」

「はい!」と返事しながら馬場中央を抜ける。待機後の出だしのことは少々気になっていたものの、ハヤテの脚はそんなに鈍っていない。これならある程度は行けそうだ。
蹄跡に出て半周歩いたところで軽速歩に入る。良いことがあった少年・少女かと思わせるような小気味よい軽速歩がより僕の心を刺激する。1周軽速歩をして常歩に落とした時、今まで経験しなかったバチッというものを味わった。

(ここだ!)

薬指、母指球、腰、頭…。全てのポイントからスイッチを同時に押されたかのような感覚。ハヤテは瞬間的に駈歩に入り、大きなリズムを刻み始めた。

タターン、タターン、タターン、タターン…

思わず左の口角が上がる。乗馬を始めて半年の初心者が何を言ってるんだと思われるかもしれないが、今なら何でもできそうな気がしたこの瞬間。ここは屋内馬場という限られた空間だが、今の僕とハヤテなら、どちらかの体力が尽きるまでならどこまででも駈歩を続けられるんじゃないかと思うほど噛み合った。屋内馬場に響く高柳さんの手拍子の音もさらに後押しし一人と一頭は一つの風になっていた。
無限に続けられるような駈歩に気持ちよくなり、歩様を混ぜることをしないまま何周か回った時、高柳さんが手前を変えるよう指示を出す。手前が変わっても一人と一頭は何も変わらない。今度は反対回りの風になる。猛の左の口角が再び上がる。

(最高だよハヤテ…名前負けしてない良い名前の馬だよ!)

屋内馬場に響く手拍子。馬場中央で待機する会員さん。レッスンの様子を屋内馬場入口から観察する会員さん。壁の上を歩く猫。景色が滑らかに流ていくなか全てが自分の目に、耳に、脳に入ってくる。そして意外にも薬指に伝わるハヤテの重みが何よりも気持ちよく感じた。ハヤテは滑らかに駈歩を出している。前に進む力で手綱がガンガン前に引っ張られるかと思いきや、こちらが引こうとすれば両薬指二本だけで手綱を引けそうな程の感触。でもその薬指には確りとハヤテのパワーを感じれる重みがあった。

(駈歩を無限に続けられると思えるくらい順調な時って…薬指から感じとれるのかもしれないな…)

馬は手でコントロールしてはいけないとよく言われるが、馬と息が合った時の自信は手の薬指から生まれてくるのかもしれないと、駈歩を終えて考えた猛だった。

レッスンを終え手入れに入る。洗い場にハヤテを繋げ速やかに鞍を外し片付け、バケツに入れた水をやる。ハヤテはレッスン後に普通の水を飲まないらしく、隣の洗い場にローレンを繋いだ東さんが「余ったから使って!」と言って、粉末のホースサイダーをくれた。それを水で溶かし軽く混ぜている間に、ハヤテの鼻がひくつく。もう一度バケツを近づけるとハヤテは水を飲み始めた。

「東さん!ホースサイダー、ありがとうございます!」

「いいよいいよ!この子もホースサイダーしか飲まなくてさ、それでいつも持ってきてるんだけど、一袋まるまる使うと味が濃くなるからね!」

ローレンの鼻梁あたりポンポンと触れながら東さんが話す。目の前で僕達を導き、駈歩レッスンでは参考にさせてもらった馬・ローレン。今日のレッスンで得たものは大物だった。

「それにしても、すごい綺麗な乗馬でしたね!部班の時もついていきやすかったですし、駈歩の方も見て参考にさせてもらいました!」

東さんは明るい笑顔で返す。

「そんなことないですよ!私はまだまだです!ローレンに乗せてもらってる感じですよ!」

とてもそうは見えなかったが、東さんとローレンの相性は良さそうだ。東さんはローレンを信頼し、ローレンもまた東さんを信頼している。野球で言うところの“黄金バッテリー”というやつか…。手入れを進めながら

「乗馬、どれくらいやられてるんですか?」

「僕は、4月末に5級から入ったので半年くらいですね!週に…じゃない、月に2回くらいのペースできてます。」

「え、そんなに乗ってないんですね!ハヤテをあんだけ走らせてたからもっと乗ってるかと思いました!」

僕は少し照れ気味に笑い、東さんの返答に似た言葉を返す。

「ハヤテが走ってくれるんで…他の馬じゃこうはいかないことも多いです。僕はまだまだですよ!」

「そうなんですか?でも、ハヤテって苦手にしてる会員さん多いんですよ?」

一瞬手入れが止まる。ハヤテを苦手にしてる人が多いということに驚いた。こんなに乗りやすかったのに?

「ハヤテを?歩くのも元気で運動しやすいですし、会員さん達が苦手に感じる要素ってなんなんですかね…?」

「う〜ん…この前言われてたのが“怖い”って。まっ、この子も怖がられてる馬なんですけどね!な、ローレン!」

手入れをしながらローレンの頸を軽く叩く東さん。その動きの流れにのって東さんはかがみ込み、ローレンの脚を拭いている。
ハヤテだけでなくローレンまで怖がられているという意外な話。それを聞くと、そのローレンをあれだけコントロールした東さんは相当レベルの高い人なのだろうか?そういえば、ここの乗馬クラブでは、安全の為に“ある程度の技術のある会員さん以外は基本的に外馬場でのレッスンを受けられない”というルールがある。しかし、東さんは屋内馬場にいる。東さんでも外馬場に出れないのか?

「東さんは(乗馬ライセンス)3級とか受けないんですか?」

思いきって聞いてみる。ここの乗馬クラブは全乗振(全国乗馬倶楽部振興協会)が定めた乗馬ライセンス(乗馬技能認定)とは別で中級ライセンスというものを独自で設けている。この中級ライセンスに合格すると、外馬場でのレッスンを受けられるようになる。僕に外馬場でのレッスンを受ける権利はないが、同じレッスンでも外馬場で受けた方が気持ち良いだろう。しかし東さんがあれだけの実力を持っているのに屋内馬場にいる。そうなると気になって仕方なかった。

「私、3級持ってるんですよ!」

(持ってるんかーい。そりゃ、上手いわけだ…)

「そ、そうでしたか!どおりで上手に乗られてる訳だ…!」

心の中の突っ込み部分はカットして後半の素直な気持ちを伝える。そうすると東さんは再度笑いながら謙遜した。その後も手入れをしながら二人の会話続き、東さんが屋内馬場でレッスンをしているのは、仕事等のスケジュールの影響が多いらしい。この時間だと外馬場では障害馬術レッスンが行われており、馬場馬術派の東さんにとっては屋内馬場でのレッスンの方が好みということだ。ただ、僕はそれのお陰で東さんという素晴らしい教材に出会えた。
ちなみに、この日のレッスンがキッカケとなり、僕は東さんから下の名前に君付けした『猛くん』と呼ばれる程仲良くなった。乗馬クラブで会うと空いた時間や手入れ中に話したりすることも増えた。そして、僕の高校の同級生の母親だったという事実も発覚した。世界は意外と狭いものである。

11月に入った。
少し暗い雲がかかり、ひんやりとした風が時折吹く。今日の乗馬クラブには多くの人が集まっている。外馬場の周りには会員さん以外の人の姿も目立つ。眠気がやや残った体で乗馬クラブにやってきた猛。これだけ多くの人が集まっているのに外馬場には馬二頭。それぞれの馬の鞍上にはビシッと決まった競技用ウェアを着た会員さんがいる。今日は年に二回開催されるクラブ内競技会で、既に馬場馬術競技が始まっていた。
今、行われているのはL1(エルワン)と言われる課目らしい。馬場馬術の競技は決められた演技を美しく正確に行うことが求められる。例えるなら自動車学校の仮免許試験に似たことを行い得点を競う。『ここから巻乗り』『ここから駈歩発進』『ここで停止』などなど様々な注文がある。L1は臨空乗馬クラブで行われる馬場馬術競技では一番上のクラスの競技だ。まぁ、経路図を見せてもらっても、口頭で説明されても初心者の僕にはチンプンカンプンである。
馬場中央で馬が停止し、騎手が敬礼を行い静かな拍手が起こる。そのまま競技を終えた騎手と馬が退場し、屋内馬場の裏口からまた一人と一頭が入場。その間に外馬場の隅でアップしていた馬がアナウンスされた後に入場し、また演技が始まった。
誰を見ても上手く観える。当たり前か…。この人達は皆、乗馬ライセンス3級を所持している。僕より圧倒的に格上の先輩達だ。二人目の演技を観ていてもチンプンカンプンなのだが、僕が観てもわからない馬場馬術を観に来たのには理由があった。この課目ではないが、A2課目に東さんが出場する。東さんの演技は気になるし、東さんからも観に来て欲しいとの言葉をもらい両思い。東さんの競技を観戦する為、遅刻しないように早目に来たが早すぎた。まだ初心者の僕にとっては、東さん程話せる会員さんは他にいない。インストラクターの方々も採点や競技者への声かけ・誘導、お手伝いさんへの指示などで忙しい。L1を今の僕が観てもわからないので、僕は厩舎へ向かいハヤテと戯れる。まだブラックがいたらブラックにも声をかけにいっただろう。
ハヤテは出番が無いらしく、馬房でのんびりしていた。そんなハヤテの馬房の前に来ると、ハヤテは僕の方に寄ってきた。さすが草食動物。ほぼ後ろを見てたのに僕の存在に気づき顔を寄せてくる。まずは名前を呼びながら掌を上に向けて敵意が無いことをアピールし、そっと頬に触れてから鼻梁を撫でてやる。ハヤテは撫でられながら僕の服に甘噛しようと柔らかい鼻先をパカパカしていた。その鼻先を軽くスウェーで躱して今度は馬房の入口付近の壁に少し身をゆだねる様な姿勢でハヤテの傍に居続けた。

「おっ、猛くん!」

明るい声で誰かわかる。少し体を捩って振り向くと、白いキュロットに白い競技用シャツを身を包んだ東さんの姿があった。やはり競技用のウェアに身を包んだ会員さん達は普段より格好よく見える、いや、格好いい。

「おはようございます!東さん!」

「おはよー!早いねー!」

「東さんも…。A2までかなり時間ありますよね?」

「ああ、私はこの子達の鬣(たてがみ)をセットしたり、バンテージ巻いたりしてるからね!」

「へぇー!これ、東さんが全部やってるんですか?」

「そうだよー!勿論、所々手伝ってはもらってるから、完全に一人ではやってないけどね!」

鬣がお洒落に結われている。三つ編みを垂らした馬や小さなお団子が等間隔にポツポツとあるような纏め方をした馬もいる。馬本来の走ると『ふわっ』と舞うような鬣も魅力的だが、ブリティッシュ競技に出場する時は、騎手の服装とのコンビネーションで結われた鬣の方が魅力的に見えるのかもしれない。僕はジーパンの左ポケットからスマートフォンを取り出し競技に向けて整えられた馬を写真に収めた。勿論、フラッシュは焚かずに。

「それじゃ、行ってきまーす!」

周りにいた会員さん達に明るく声をかけ、東さんは馬と共に屋内馬場へと向かっていく。東さんをはじめ、A2課目出場する会員さん達はこれから屋内馬場でのアップに入るらしい。また一人になってしまった僕は外馬場の方へと歩いて行き、またよく分からない競技を観戦する。
盗み聞きをした訳ではないが、通路で会話をしている会員さんの話し声から今行われているのはA3課目という競技だと知った。休憩室や通路の壁に競技開始の目安となる時間や出場する会員さんと馬の出番が書かれた紙が貼られているが、ほとんどの会員さんと馬の名前と顔が一致しない僕は、この競技があとどれくらいで終わるのかもわからないまま東さんの出番を待っていた。
馬を見るのも好きだが、朝早くに起きて乗馬クラブに来た僕には辛い時間が始まっていた。眠気が襲ってくる。時間が昼時に近づくにつれ少しずつ人が増えてきた。普段から仲が良いと思われる会員さんたちの話し声が色々な所から聞こえるようになったが、競技の邪魔にならないよう、どのグループも声を絞って会話をしている。僕は眠気覚ましも兼ねてその人達の邪魔にならないようふらふら歩き自販機の前にやって来た。眠気覚ましのブラックコーヒー…と、いきたいところだが、ブラックはお金を出して飲む程好きじゃない、むしろ苦手な飲み物だ。僕はカフェオレを購入。左手で缶の上部を覆うように掴むと、そのまま人差し指を折り曲げてタブを引く。この時期にしてはまだ早いかなと思う温度のまろやかな甘味が口の中に広がった。そう言えば、東さんと会う前に見た空より薄暗い雲が広がっている感じがする。このまま雨が降らなければいいが…。

A3課目が終わり馬場には3頭の馬が駈け回る。今日、A2課目で始めて出番がくる馬達のアップが始まり、素人目に見て馬場が一気に華やいだ。近所の子供達だろうか、その子供達も競技中より馬のアップの時間の方が盛り上がっている。正直、僕の気持ちもあの子供達と同じだ。1頭の馬の美しい演技を見るより、数頭の馬が駈け回るアップの方が魅力的に思えてしまう。理由は簡単なことだろう。僕が馬場馬術というものを詳しく理解していないから、そしてそういう意味ではここにいる子供達と僕は同じ感覚なのだ。障害馬術みたいなダイナミックさがあれば、例え1頭の馬の演技でも釘付けになっていたかもしれないが、馬場馬術は詳しくない人が見ると地味な競技になってしまう。まぁ、オリンピックレベルの馬場馬術なら今の僕が観ても魅力的だと思えるが…。

アップが終わり馬が全頭引き上げて行く。それと入れ替わりで2頭の馬が姿を表した。先に出た馬はアナウンス後、馬場に入場し演技を始め、もう1頭は区切られた外側のエリアで軽い運動をする。その馬の上には東さんの姿があった。そういえば、今日はローレンではないみたいだ。
馬場中央で騎手が敬礼した後、一度蹄跡に出てから馬は右手前で運動に入る。するとすぐさま斜めに手前変換。今更ながら猛はある違和感に気づく。

(あれ?軽速歩と同じ歩様なのに騎手が座ってる?)

これはシンプルな“速歩”と言われる歩様で、“軽速歩”と違い、1節ごとに『立つ・座る』を繰り返す乗り方ではない。タン、タン、タン、タン…っと馬の反動に合わせて鞍に座り続ける“速歩”が馬術の基本的な速歩だ。この“正反動の速歩”とも言われるこの乗り方、座っているだけに見えてコツを掴むまでは意外と難しいものである。下から突き上げてくる反動は馬の個体によって大きい・小さいは存在するのだが、これを上手く吸収できないと座り続けることは難しいし、慣れるまでは軽速歩よりもテンポが速く感じられるだろう。それに、『立っている』状態から『座る』時の動きと連動して脚で合図を送るイメージが身につきやすい軽速歩だが、常に『座る』軽速歩では、どのタイミングで脚を入れるのかのイメージが初心者には難しい。僕は速歩をじっくり見るのは始めてだった。あんな練習したことないけど、いつ頃からやるのだろうか…。今日ここに来て、始めてじっと馬と騎手の動き真面目に観察しているからもしれない。速歩のイメージをじっくり脳内に入れ込もうとしていたが、馬は馬場の奥から常歩に歩様を変え手前変換してこちらへ来る。そのまま手前中央の位置に来ると馬の前肢が大きく動いた。駈歩。馬場の半分ほどを使った輪乗りと言われる円運動。先程駈歩に移行した地点へ戻ってくると、そのまま右手前の駈歩で蹄跡行進。奥の角から駈歩のまま手前を変え、中央で常歩に落とす。走りたそうに頭を軽く上げた馬をコントロールし、騎手はそのまま角に向かって歩かせる。そこから左手前に変え、再び手前中央から駈歩発進。先程と同じ、馬場半分を使った円運動を今度は左手前で駈け、蹄跡を駈け抜けていく。先程、走りたい気持ちを騎手に抑えられた馬が今度は意気揚々と駈けている。

(なるほど。心理的な駆け引きが馬の駈歩を元気にすることもあるようだ。)

溜めて溜めてここぞという時に前に行かせる。その駆け引きに成功すれば簡単に駈歩を出すことができるだろう。騎手が走らせたい時に馬の解放感が満たされる。Win-Winの関係だな。

(溜めて爆発させる。ストレスと一緒だな。ハハッ。)

左手前の駈歩は右手前の駈歩よりパワフルに感じる。しかしパワフルすぎたのか、審判席から「ちょっと出し過ぎかな…」との声も聞こえた。力強く、でも出し過ぎてはダメ。スピードの制御、でも遅すぎたらダメ。馬術とは難しいものである。
馬場中央よりやや手前側に帰ってきた一人と一頭。そこで騎手が馬を停止させ右手を水平方向に伸ばし敬礼。馬を驚かせない為の控えめな拍手が讃える。騎手が頸をさすってやりながら馬を誘導し、馬場から退場していく。安堵したのか騎手の顔に少し笑みが見えた気がした。アナウンスが鳴る。

「二番、東秋穂さん。臨空乗馬クラブからの出場です。」

いよいよ東さんの番だ。僕が勝手に『師匠』と認定した彼女はどんなライディングをするのだろうか。ただ、一つ気になったことがある。

(東さん、外馬場でのレッスン、どれくらい受けれているんだろうか…。)

東さんはスケジュールの関係で屋内馬場でのレッスンを行っていると言っていた。競技会前に少しでも外馬場でのレッスンには出ているのだろうか?もし出れていないのであれば…いや、東さんなら大丈夫か。単純に外に出ただけ。東さんの実力なら馬場の広さに困惑とかもないだろう。
馬場中央で停止させた鞍上で東さんの右手が水平に伸びる。敬礼。東さんの演技が始まった。敬礼をした位置から速歩で正面の壁に真っ直ぐ向かい、埒の近くに来ると右に曲がる。最初の角で斜めに手前を変換し、反対の角で左手前に変える。奥側中央からA2課目の名物・蛇乗り3湾曲。ここも順調にクリア…しているように(素人目には)見える。手前側中央から左手前のまま蹄跡行進。歩様が変わるのは再び奥側中央、ここから常歩に歩様を変え、その地点の目の前の角から手前変換。馬の様子は…そんなに悪くなさそうだ。常歩になっても落ち着いている(ように見える)。そして手前側中央に到着。ここから…馬の前肢が大きく動き地面を力強く捉える。馬場の半分を使った右手前の輪乗り。駈歩開始地点に戻ってくるとそのまま蹄跡行進。順調ではないだろうか。馬場奥側から手前変換し、中央で常歩に落とす。が、少し速歩が混じっただろうか。それでも東さんの表情に変化が感じられない。東さんは何とか手前側中央まで耐え、そこから左手前の駈歩に入る。馬場半分を使った輪乗り。そして蹄跡行進。馬場をぐるりと回って奥側から手前変換。中央に来た所で一旦速歩を入れ、短い常歩を入れた後、再び速歩でぐるりと周り馬場中央から手前側に向かって直進。そこで馬は停止して、鞍上の東さんが右手を伸ばす。敬礼。競技終了後の拍手が控えめに鳴る中、僕は東さんの乗馬はやはり格好よく綺麗だと思った。
少し待って、競技後の東さんの所へ向かう。東さんは屋内馬場で馬から降り、同じ課目に出る別の会員さんが馬に乗るお手伝いをしていた。東さんの出番は終わりでも、この馬はまだ出番があるようだ。
東さんは屋内馬場から洗い場へと向かいながら「いや〜、疲れた〜」と漏らしていた。この様子だと、僕の存在に気づいた上で発した言葉なのだろう。僕は東さんを笑顔で出迎え、屋内馬場を出たところで「お疲れ様でした!」と一言かけた。

「どうでした?外から観てるぶんには順調そうに回ってましたけど…。」

「いや〜、もうちょっとできたかな、って思ってるよ!もう少し蹄跡も攻めれただろうし、元気よく出しても良かったんじゃないかな?って!」

僕は笑いながら感想を聞いていたが、あれだけの乗馬をしてまだ反省点がスラスラと出てくるのかと、東さんの乗馬に対する思いに改めて感心した。東さんの話を聞いていると『乗馬ライセンス4級取得』と抽象的すぎる目標ではダメなのかもしれない。上に行くならもっと明確な目標を立てて、それに対して今の自分に何が足りてないのか、できてないのかを分析し、更にレッスンを受けた時は、そのレッスンで出来たこと・出来なかったことを細かく把握する必要もあるだろう。
今日の競技中の東さんはA2課目の経路自体は踏めていた。でも、それだけではダメなんだということを東さん本人は認識している。僕はそこまで到達していない。駈歩が出せたらオッケー!継続できたらオッケー!歩様を変えたいタイミングで変えられたらオッケー!…この程度で終わってはダメなんだ。駈歩が出せた、でも出す時の脚の使い方がイマイチだったから次は◯◯を意識してみよう、手前変換もできた、でも手綱で強引に手前変換しにいってたよね?じゃあ次はそうならないように◯◯をしてみよう、という様な発展系が僕には無かった。東さんの話を聞いて、そこから自分の今までを思い返してみて、自分はまだまだ“あの人達”の領域には届かないことを再認識した。
A2課目の競技が全て終え、東さんが乗っていた馬が帰ってくる。そのまま東さんたちは手入れに入るため、僕は邪魔にならないように洗い場から離れる。休憩中の入口近くの壁には早くもA2課目の採点結果が貼られており、東さんは惜しくも四位に終わっていた。

(あの乗馬でも勝てない…それどころか表彰にすら届かないなんて…。)

僕は東さんの結果を見て少しナーバスになっていた。ただでさえ、先輩会員さんと入って半年くらいの初心者会員で経験値の差が大きくあるのに、僕はあそこで勝利を掴むことができるのだろうか。もし掴むとしたら、何年かかることやら…。

−ただ…!−

−今日の観戦、そして東さんとの会話で今までの“思い方”ではダメだということは分かった!−

−やってやる…貧乏人の雑草魂で一気に差を縮めてやる!−

「あっ、おはようございまぁ〜す!今日も早いですね!」

乗馬クラブの社長が僕を見つけ明るく出迎える。僕もそれに挨拶を返して少し談笑すると目線を屋内馬場へ向ける。休憩室には小窓があり、そこから屋内馬場を眺めることができるようになっている。社長は次々に来る他の会員さん達に挨拶をしては、また色々な会員さんと話している。僕は屋内馬場で行われているレッスンを観察する。僕の座っている所の近くには事務室があり、そこの扉がガラリと開くと長身の男性が現れた。インストラクターの妹尾さんだ。

「おっ、おはよう!今日も早いね!」

妹尾さんは話すのが好きなのか分からないが色々な会員さんとも仲が良く、僕も度々会話するようになっていた。元々人見知りな僕だが、だいたい妹尾さんから絡んでくれるため、気づけば僕のことを下の名前で呼ぶような間柄になっていた。妹尾さんはインストラクターだし年上なので、それに対して僕も全く気にならなかった。まぁ、人によっては「会員(お客)さんを下の名前の呼び捨てにするのはどうなの?」って思う人もいるだろうが僕は立場よりも関係値だと思っている。それに妹尾さんとの会話が増えてから僕の存在感も日増しに強くなっているらしく、少しずつ色々な会員さんに声を掛けられるようになっていた。そうだ…この機会に…。

「そう言えば妹尾さん!」

「ん?」

「乗馬ライセンスの4級試験って何をやるんですか?」

「4級?4級は駈歩ができるかとか、今までの基礎基本ができてるかを見るよー。だから、駈歩ができても軽速歩の手前間違ってたりとかしたら良くないねー。後、5級と同じで筆記試験も勿論あるよー。まぁ、筆記試験で落ちるのは相当勉強してないとかじゃないと…って感じ。」

「ちょっと待ってね」と言って妹尾さんが一度事務室に戻る。すぐに戻ってきた妹尾さんの手には1枚の紙。

「これ、筆記試験の内容だから持ってっていいよー。右の括弧はテキストの何ページに書かれてるかが書いてるよ。5級から来てるからテキスト持ってるもんね?」

「あのピンクのやつですよね!持ってますよ!今でもちょくちょく読んでます!」

「さすが!4級もそのテキストから出題されるから、そのページのところチェックしておいてねー。」

「ありがとうございます!」

僕はその紙に目を落とす。4級筆記試験の内容が箇条書きで書かれ、その項目の隣にはテキストの何ページに書かているかの表記がある。簡単だったとはいえ5級の時は満点合格。どうせなら4級も満点合格を目指していこう。
…そういえば、さっき妹尾さんが「さすが!」と言ったのは何なんだ。まさか、テキストを普段から読んでいることか?まぁ、それはいいか…。
暫く筆記試験の範囲が書かれた紙とにらめっこしていた僕はレッスン時間の30分前になっていることに気づき、準備をするため休憩室を飛び出した。一時期は躓き、次のステップに行くには場数をこなすしかないのかと悩んでいた時期もあったが、東さんとの出会いから猛の中で何かが吹っ切れた。乗馬を始めて半年が少し過ぎた頃、猛は少年期に入ったのかもしれない。



−第3部 完−







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