見出し画像

なぜ、ぼくは全てをとめて、キルギスにいくのか?

今年28歳の誕生日にこんなnoteをかいた


小田原にきてからの1年、ここ数年の潜伏期間を取り戻すように、僕は現実を動かしている。

けど、それら全てをとめて、今日からひと月ほどキルギスという国に飛びたちます🇰🇬

キルギスがどんな国かも知らない。予定はほとんどなにも決めてない、何があるかも分からない。

だけど僕はキルギスにいく。

なぜ、ぼくはキルギスにいくのだろうか?

なぜキルギスにいくのだろうか?

キルギスに呼ばれはじめたのは5年ほど前。

ふとした時に、ある風景が夢やイメージとして浮かんでくる。

それは究極の自由をあじわっている僕がいる姿。
その場所は、キルギスの草原で自由に瞑想している姿やイメージ。

イメージを思い出すだけで、魂が自由になる感覚があった。ぼくの生命や魂が求める体験がある気がする。

僕の好きな本にこんな小説がある。

アルケミストは羊飼いの少年が、夢でみたピラミッドに宝物を探しに旅する話。

何かを欲し、夢を実現しようするとき、宇宙全体が協力してくれる。

僕にとってキルギスにいくことはアルケミストの旅のように感じている。

僕は、これまでの人生で、自分の大切な一部を失ってしまった。

自分が失ってしまった大切な一部を取り戻し、居場所に還るためにぼくはキルギスにいくのだろう。

ぼくが失ってきた大切な一部

それは魂の自由さ。

僕は幼い頃から人とは少し違う感覚をもって、生きていたように感じる。

内からパワーが溢れる、なぜかみえない事がわかること、みんなには感じないものが感じれること。人には理解されないパーツがあること。

しかし、幼い頃に、誰にも理解されない原体験を重ね、自分のそうした感覚たちに蓋をして、魂の自由さに檻に閉じ込めていった。

ここ数年のいろんな流れやご縁のなかで、僕が失ってきた大事な一部は、ときにスピリチュアリティとゆわれる類いの感覚があったことを思い出してきました。

これまでの自分は、人や社会とつながれるように、魂の自由さを制限しながら、生きてきたのだなと。

人や社会と繋がる安心を感じる反面、窮屈さや不自由さを感じていたことにも気づきました。

癒しや統合の旅路を経て、やっと自分にあるスピリチュアリティを受容れる準備が整ったのをかんじます。

これからは、自分にある全ての側面を愛していきたい。

どんな願いがあるのか?

僕はもっと生命や魂を自由に解放していきたい。
もっと深く自分や大事な縁とつながり、外側にある大きなものつながって、循環して生きていきたい。

これまでこんな感覚や言葉をシェアするのにとてもエッジを感じていました。

周りからの理解されず、また1人になってしまうのではないか。

ですが、家族や仲間、ご縁ある人たちはこんな感覚をむしろリスペクトしてくれる。そんなありがたいご縁のおかげで、安心して自分に還ることができる。

ですが、僕にとって、人として生きること、人とつながること、社会や世界とつながりをもつこと。これらも自分を解放すると同じく、大事なモノになっています。

本来、スピリチュアリティはだれにでも存在し、暮らしのなかに身近にあるものであり、特に日本人はその特性が強い民族だとも感じてます。

スピリチュアリティや自然への畏敬など、見えなくも尊いエネルギーや存在、流れ、生命。

そんな目に見えない尊い存在と人や社会との繋がりを結んでいく。そのはじまりに最も身近な自分にある神秘的で尊い存在を赦していきたいなと。

そんな自分を愛し赦すためにキルギスにいってきます。

おわり、そしてはじまりの旅。


2024.09.15 稲葉通全

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?