レプタ二枚の時間
私はイライラしていた。
全然zoomの設定が上手く行かず、授業はどんどん進んで先生の言葉も頭に入らない。
月に一回のzoomでのワークショップは毎回木曜日20時から。
木曜日は遠方での19時までの仕事。お客さまの予定もあるので自分での調整は難しい。帰宅途中で音だけ聞いて、帰宅後ビデオもオンにして参加しよう!と楽しみにしていた。今回は初めてグループワークもあって前回出された宿題についての感想と分かち合いの時間で横の繋がりも出来ると聞いていた。
残念ながら、その時間は自転車を漕いでいる時で同じグループになった方に名前を呼ばれているのに何も返信出来なかった。
でも、その方たちの話し合いは聞こえて「毎日聖書10章は難しかった、でも色々な発見があった」など、1人の方が話をする時周りから子ども達の声が聞こえた。「あーまだ小さなお子さん達がいるんだなぁ」と思いながら耳と心だけ参加していた。
帰ってすぐに設定を調整して参加しよう、みんなのように顔も見せて分かち合いたい!と焦れば焦るほど全く変わらず画面は名前だけの参加となったまま、、なんとか意思を伝えたいとチャットに送ったり。でもこのままモヤモヤと耳に入って来ないまま先生の話しを聞いていてもダメだとアーカイブにしよう、、と諦める。
「どうして毎回木曜日なのか、、それではこれからも参加は出来ない、、はぁ」モヤモヤは続いていた。
次の朝(今日)の聖書音読をしている時、使徒の働きに感動していた、
みんなは聖書の10章は難しいのか、、私は何とか毎日出来ているなぁと。
その時、子ども達の声の中から聖書を頑張って読んでるという方を思い出す。
そしてハッとした。
「時間」もその人それぞれで価値が変わるのか!と。
レプタ2枚と同じなんだ。
[マルコの福音書 12:43,44]
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
これはお金の話だったけれど、時間だって同じなんだ。
もちろん私だって仕事も家事もあって時間が有り余っている訳ではないけれど、子どもは大きくなり自分の時間はある程度調整出来る。
小さな子どもがいたらそうは行かない。
突然声を掛けられる、ケンカが始まる、やっと寝たと思ったら泣きながら起きる、一緒に寝かしつけながら眠ってしまうのは子育てあるある。
その中で聖書を読む事に時間を確保するのは、もうレプタ2枚捧げる事と同じだ。
それなのに私ときたら、意気揚々と「私、毎日ちゃんと読めたんです!出来ました!」と発表したがって、出来ない事にイライラしていたなんて、、まるでパリサイ人だ。
ごめんなさい。
繋がらなくてよかった、きっと後から恥ずかしい思いをした事だろう。
どのように、私なりの時間と思いを捧げられるだろうか。
神さまはいつも相対的に人を見ることは無い。
いつだって「あなたはどうなの?」なんだ。
私は「わたしの心を1つにしてください」と
また忙しい日々を過ごす彼女に特別な祝福がありますように。と祈ります。