バレンタインデーにゴスペル(福音)を

「ちょっと無理かな」とそう思った。

駅から15分ほどバスに乗って、またバス停からも20分弱歩くのはどう考えても良い条件の仕事では無かった。

まだ暑さが残る季節

その道のりからたどり着いた私は、汗をふきながら

「はいー、、ちょっと遠いですねー、、」

彼女はそれでも「時間が間に合わない時はタクシーを使ってもいいです」と説得してくれた。

大きな手術をした母と同居の娘家族の調理家事代行。

そんなに大それた仕事ではない。

自転車なら20分ほど、待ち時間の調整も必要ない。

「うーん、、レンタル自転車でもあればいいんですけど」

その言葉に、別れた後すぐに駅前の駐輪場を契約してくれて使っていなかった、というわりにはとてもキレイな赤い自転車を貸してくれた。

私はそこまでしてくれるならと、この仕事を引き受けた。

自転車は好き。気になるお店を見つければ停まれるし、色んな道を探索出来る。

「とても快適でした!」と伝え

自転車通勤の仕事はスタートした。

忙しい依頼人である娘さんに変わって

仕事の時は体に障害を持ったお母さんとだけ顔を合わせる事が出来た。

とても明るく町工場のおかみさん風の元気なお母さんに会うといつも「あんな障害を持ってしまったのに、元気で素晴らしいなぁ」と励まされる思いだった。

最初は私をどう扱っていいのかわからない様子でお茶やお茶菓子を用意してくれたりと気を遣ってくれた。

私はいつも誰もいないお家で1人黙々とお料理をしては、それをタッパーに詰めひたすら積んで行くようなやり方で、お話好き(たぶん最初はおもてなしとしての)お母さんとの会話をしながらの調理にぶきっちょな私は、なかなか慣れずたまに焦がしたり煮すぎたりと色々と苦戦もあったけど、でもだいたいは楽しかった。

お母さんの子ども時代の話や、当時の女性の憧れの職業に就いた話し、またはご主人との馴れ初め、人生の苦難を通った話し、内容は様々、でもどんな時でもなんとか明るく乗り越えて来たのだろうとわかった。

いつも、モナカアイスを用意してくれて「食べなね」と。

私は時間もあまり無いし、無くなるとすぐに買って来てしまうので半分づつ食べてはまた冷凍庫にしまって翌週食べるという風にしていた。お母さんには会話の中から好物を聞くと時々「お母さんの好きなの買って来ましたよ」と渡した。

そして悩みをポツリポツリと話してくれるようになった。

私はもちろん解決方などスラスラ言えるわけもなく「そうですかぁ」「それは大変ですねぇ」など役にたっているとも思えない相づちを打つか、笑い話しにして終わらせるしかなかった。

その日は、お宅に入って顔を見たとたんに「今日は元気が無いな」と思った。

その時の悩みは笑い話で返すことは出来なかった。

全くの他人だから言える話がある。

SNSで気楽に愚痴を言えるのと同じで、良く知っている人にはとても言えないけど、関わりがないからこそ言えるという関係。

きっと私は程よい感じだったのだろう。

前々から「私はクリスチャンなんです」と話していた。そう言うと「何か苦労があったの?」ととても聞きたがったけど、私はいつも当たらず触らずの返答をしていた。

その日の帰り際、「大丈夫、元気出すから」と一生懸命に笑顔を作って送り出そうとするお母さんの姿はとても小さく悲しみに満ちているように見え、胸に迫る思いが来た。

そして私は「お祈りしてもいいですか?」と尋ねていた。

キリスト教なんて「外国の神さま」位の認識の平凡な日本人に「お祈り??映画とかで見る?」という感じだったかもしれない。お母さんは「、、いいけど」と

私はお母さんの手を取り(普段はそんな事はしない)何故だかそれが必要だとそう思った。

お母さんと家族の祝福、神さまの愛を涙ながらに祈っていた。祈り終わるとお母さんも涙ぐんでいて、お互い照れ隠しに笑って、お母さんは「ありがとう感謝します」と言っていた。「感謝します」は私のお祈りに何度も言う言葉。

たぶん気を遣って「少し元気出たよ」と言ってくれた。

「じゃ、また来週ー!」と玄関を後にした。

帰り道「神さまどうぞこの家庭にあなたの救いが来ますように!」と心から祈って赤い自転車をこいだ。

そして、その後に教会の姉妹にも祈って貰った。

私たちの祈りは1人では点だけども、共に祈りに立つ時に神さまによってそれはネット(網)になると思っている。そのネットはある時はセーフティネット、またはカバーする覆い、共に掬い上げるつり網、または前進するために勢い送り出すバネのようなネットになる、そう感じている。

その祈りに支えられ、私は次の週また呼び鈴を押した。

お母さんは開口一番「先週はお祈りありがとう、ずいぶん良くなったよ」と言ってくれた。「そうですか、良かったです。」と応え、社交辞令かなぁとまぁ、でも良かったと思い調理を始めた。

終わり時間も近づき、片付けに入っている頃に会話も一段落着いた後もお母さんは何となく何か話したげな雰囲気でそばに留まっていた。何かなと思うと

「実はあの後、あやまったの」と言った。

それは先週話しの内容から、絶対に心打ち解ける事はできないと思っていた相手にだった。むしろ謝って欲しいというほどの気持ちでいた相手に対してだ。

私は感動して「お母さんすごい!必ず良くなりますよ!」と言うと、お母さんは「だって良くなるって祈ったから。このままじゃいけないと思って、自分の言動も振り替えってみたら、自分も悪かったんじゃないかと気付いてさ」

また涙ぐみそうになったのでキッチンに向き直って、すぐに心の中で「神さまありがとうございます!!」と主に感謝を捧げ、主の力を恐れた。

人には出来ない事だ。

その帰りの自転車は空の上で漕いでるようだった。

神さまはなんて素晴らしいのだろう、そして暗闇の人生が方向転換する瞬間に立ち会える事は、どんなに感動の映画を見るよりも、世の中の楽しい体験を全部集めても味わう事が出来ない、何にも変えがたい喜びだ!と思い胸がいっぱいになった。

ずっと、こんな風に神さまと人の永遠の命の為に仕事をしたいと心から願って帰路に着いた。

それからすっかりお母さんの悩みは解決に向かう、というような事は無かった。

その後も心配や暗い思いに覆われてしまっている時は手を取り祈ったり、帰り際には「いつも祈ってますからね」と伝えたりしていた。そうすると、お母さんは「ありがとう、私は周りの人に恵まれているよ」と言ってくれた。

帰り道、でも私は歯がゆい思いで涙を浮かべ自転車を漕いでいた。

「神さまのいない人生はなんて苦しみと悲しみに満ちているのだろう、私には何も出来ないんだろうか、こんなにも苦しむ人たちが目の前にいるのに」

その時、大きな川を渡る道路沿いの空を見上げると、とてものどかで「大丈夫だよ」と神さまに言われたように思って

「そうだ。ちがーう!!必ずお母さんも家族も救われるー!!神さまが働かれるー、私には出来ないけど主が働かれるー!」とマスクの中で叫びながら(国道なので車の通りが激しいから聞こえない、、と思う)赤い自転車を勢い良く漕いでいた。まるで中学生みたいに。


そして突然、契約の終了を告げられた。

娘さんからの連絡で「引っ越しの準備が捗らず一度お休みします。また機会があれば」と。

引っ越しは仕事を受けた時から決まっていて、新しいお家にも行く予定になっていた。

つい先日、引っ越した後の打ち合わせの日程も決めていたのに、、とても残念だった。

何かあったのかもしれない。

お母さんが心配になった。

次で最後のお仕事となるのなら、もう会えないかもしれない。何か出来る事は無いだろうか、また姉妹達と共に祈り一つの思いが来た。それは

「お母さんに聖書を渡そう」だった。

他のお客さまの所でも、悩みを聞く機会がたまにあり、その度に私の中に痛みが来ると「お祈りしてもいいですか?」と聞いて一緒にお祈りすることがあった。

ここまでは、自分の中ではセーフのライン。確認を取っているしお客さまも結果、喜んでくれている。

ただ「聖書」を渡すというのは変わってくる。日本の中では、宗教を職場には絶対に入れてはいけない。という暗黙のルールがあり、実際に前の職場で仏教系の勧誘を手当たり次第に同僚にしていた子が「次にやったらくび!」と上司に宣告されたのを目の当たりにしていた。(それは特殊だったかも)

ただ私にとってはイエス・キリストは宗教などではなく生きる全て、命そのものなのだ。

それを宗教というのだ!と言われたら、何も言えない。

ただ私の心は決まっていた。

「ギデオン」という、学校の門などで聖書を無料で配っている団体があり、その宣教用の聖書を姉妹から貰ったばかりだったのも決めた理由の一つだった。

前の晩、祈って祈って「そうするべきだ」という確信が芽生えた。

お母さんの駅の近くには私の通う教会の姉妹教会もあり、聖書の最後のページにその教会の住所と電話番号、私の教会の住所と電話番号。私の電話番号は、、とりあえず書かなかった。

その当日はバレンタインデー、今までのお礼も兼ねて駅のデパートの売り場で美味しそうなケーキを家族分買ってから、晴れ晴れとした気持ちで向かった。

もうこの赤い自転車を漕ぐのも最後。「ありがとう」暑い季節から始まりすっかり防寒した姿で漕ぐ道のり。

ここの公園でお弁当を良く食べた。

このお店はお気に入りだった。などと思い出しながらペダルを漕ぐ。

お母さんの家に行くのに大きな川を渡る。

私には神さまに特別に祈る時に見られる鳥がいる。その川では、たまに(要所要所で)その鳥を見る事が出来た。

子供がまだ受験生だった頃からの神さまからの私の「印の鳥」だった。

ある日、お母さんの家に向かう途中その川原でランチをしていた。

その日も、その鳥が遠くの空に飛んでいた。

心の中で「あの鳥がこっちに近づいて来たならお母さんと家族が救われるという約束」と勝手に決めた。

私は注意深く空を見つめた。

すると、その鳥はゆっくりゆっくりと遠くの空へ消えてしまった。しばらくまた戻ってくるのではと待っていたけど、その気配も無く「はぁ、違ったかー」と最後のおやつを食べて行く準備をした。

「さて、行くかっ」と立ち上がった瞬間。

私のすぐ近く頭上を大きな羽を広げて飛んで行った。

とても美しい姿だった。

私の心にキラキラと光が差し「神さまーありがとうございます!」と目を閉じて祈り感謝した。

この時、神さまからの約束をもう貰ったのだ。

そんな事を一つ一つ思って行くうちに、聖書を渡すのは私にとって全く当たり前の事の様に思え、どう思われるかなどの怖れも心配も何も無くなっていた。


ただ最後のお料理の日を、お母さんがどんな顔で迎えるのだろうと少し心配した。

そんな予想も全く感じ無いほどチャイムを押した後に見たお母さんは、いつも通りで「着いたそうそう悪いんだけどこれ外に出しといて貰える?」と引っ越しの準備に出たゴミ出しを頼まれ、拍子抜けしながらも「はい、いいですよー」とそれに応えた。

「??これはもしかして、、」

そう全く知らなかったのだ。

「全然!聞いてないよ、どうして?」と動揺した様子。

娘さんからの連絡を伝えると「確かに、大変そうだけど、、」と。

「きっとまた、頼む事になると思うから」

「そうですかね」

お母さんはバレンタインデーに幼馴染とお出かけの準備をしていた所だった。

「これは、帰りに間に合わなかったら会えないかもしれない」と思い、「お母さんに渡したい物があるんです」とリュックからギデオンの聖書を出した。

「これは聖書なんですけど、良かったら読んで下さい。」と言って手渡した。お母さんは「何々??」と、そして「読みますね」と受け取ってくれた。

「私も大変な時期にとても励まされたんです」とある箇所を、開いて読んだ。

朝、出掛ける直前に思い立ちローマ書5章3~の所に付箋を付けた、そのページ。

この聖書箇所は私の名前と思えるほどで、私はこの聖書箇所の数行の中を歩んでいる人生と思っている。

お母さんはおもむろに「一番辛かった事は何だった?」と聞いた。私は迷わず「兄が亡くなった時です」と応え「一昨年に突然弟が亡くなった時もとても悲しかった。でも、もうクリスチャンになっていて、この御言葉に何度も助けられ励まされたんです。」と伝えた。

私の家族の事は、お母さんには前に話した事があった。私もきっと障害を持ったお母さんだから話せたんだと思う。

「今は引っ越しの準備で忙しいから読めないかもしれないけど、引っ越したら時間もいっぱいあるから読むね」と、部屋のベッドのテーブルに置いてくれた。

そして「もうあなたに会えないかもしれないなら連絡先を聖書の裏に書いといてくれる?」と言った。

昨晩「どうしようかな」と悩んで書かずに空けた場所に私は喜んで名前と携帯番号を書いた。

この聖書は捨てられることはないのだ。

お母さんは今までありがとう、とても元気を貰ったよ。と涙ぐんでいた。そして「悲しいって連絡するのはつまらないから、楽しい時に連絡するから」と言った。

私は「悲しくても嬉しくても、どっちでもいつでもいいですから」と、もう出掛けなければいけない時間だと思い「お母さんせっかくだからゆっくり楽しんで来て下さいね」と送り出した。

そして、お母さんは私が帰る前に帰って来て「はい、バレンタインデー」とチョコをくれた。

「新しい家にも遊びにくればいいんだらねー!」

「ありがとうございます」と玄関口で挨拶をしてその仕事が終わった。

私の心は晴れやかだった。

後から思うときっと約束を信じていたからだった。


バレンタインデーは「愛」を送る日。

私は一番最高の「愛」をプレゼント出来たのだ。


そして、帰った後娘さんからメールが届き、そこには今までとても助けられたという事、そして母がとても寂しがっているので、引っ越した先にも、ぜひ遊びに来て下さいと場所も詳しく書いてあった。

社交辞令じゃないという事を受け取った。

神さまは何をしてほしいのか、それは

「もうこの家族には仕事として行くシーズンは終わり、次は友達として行くシーズンに入ったよ」

という事だった。

お料理しながら、慌ただしく聞くことは無いのだ。

ゆっくり座ってお茶を飲みながら、お母さんの顔を正面から見られる。

神さまは素敵だ。


引っ越しが済んで落ち着い頃に。

お母さんの好きなお茶菓子、何にしようかな。もう桜は終わっているだろうか。。

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