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祈りは誰のため
語る言葉が与えられる時がある。それはだいたい「違うよ、これは神さまの御心じゃないよ」という時お腹から思いが沸き上がって祈りになる。
ある姉妹にした祈りもそのように教えられて祈った。
それから彼女は劇的に変化し続けて行った。家族がどんどん主の愛を受け入れて行く。そして事あるごとに「みちこさんの祈りからまるで解放されたように自由になった」と言ってくれた。私は聞くたび不思議に思っていた。「何で私だったのだろう?」
数年前、暗闇に足を踏み入れる前に私はエバのようにヘビに惑わされていた。
「本当にそのままでいいの?幸せになれるの?」
その時、思っていたのがその姉妹のお母さんの事だった。主に従順に従って、信仰を持ち続けた彼女のお母さんは素晴らしい信仰者だった。それなのに年老いたその姉妹の母の生活は孤独と恐れに苦しめられていた。私は「どうして?神さま!」と思っていた。
そして、いつしか私の将来をそのお母さんに重ねていたのだ。
「私もずっと変わらないかもしれない、、」
そして神さまの約束を疑った。そこから暗闇の中の迷子になっていく。自分の考えの道に神さまを持って来る事は出来ないかと、もがけばもがくほど底へ底へと落ちていく、苦しみと悲しみのシーズン。
けれど主はそんな不従順な私からもずっと離れなかった。そして追い詰められて行くほどに私は神さまに助けを求めていた。「イエスさま助けて!」と、そしてもうどうすることも出来ない、、と手放した時に「助けはイエスさましかない」この思いが確かなものになった。
私は大きな傷を負って、また周りに傷を負わせて主の元に戻った。
そして姉妹達の祈りと助けによって、それまでよりも深く深く主を求めて行った。
主の安息に入った。
「主の為に生きる」
姉妹の為に祈りが与えられたのは、そのように生活の真ん中に主を置く信仰生活へとゆっくりの歩みだけれど変わっていった時だった。
喜び満たされた彼女は今まで経験してこなかったような奇跡を次々と見せてくれた。
どんなに誘っても来なかった家族が彼女を見て「教会に行きたい」と来るようになり、何十年も疎遠だった義理の親御さんと和解し病を癒し、救いに導いた。
そして、信仰の母である彼女のお母さんにもその流れが届き、変化が訪れた。
家族の回復。
回復するなど難しいのではと本人さえも思っていたのに。
私はその連絡を受けた時に思い出した「なんで、私だったのだろう」の答えが。
主は見せてくれたのだ。見ないでは信じられなかった私に。
この祝福は彼女の祈りの応えであり、お母さんの長年の祈りの応えであるのと同時に私への主からの約束と預言だった。
姉妹は肉体を越えた私の娘であり、私は彼女の母だった。
そして姉妹への祈りは私へ帰ってくる祈りだった。
神さまはこういう事をする。
私は泣いて感謝した。
まだ見えてない、けれど必ず訪れる主の約束を信じる他はない。
[詩篇 23:6]
まことに 私のいのちの日の限り
いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます。